140.スマホのある世界で満員電車に揺られて
時刻は明朝。
俺は久しぶりに髭を剃って洗顔し、忘れかけていた出勤ルーティンをこなした。
シャツに袖を通し、スラックスを履いてベルトを締め、ネクタイを絞める。
そのどこからどう見ても社会人でしかない格好に、また大人になってしまったなと、名残惜しむかのようなため息を吐く。
ただ……あの最後の時を迎えた三十歳の頃とは比べものにならないくらいに、二十五歳であるこの身体の調子はいい。
(白髪も抜け毛もない……死ぬ間際にはあちこち問題があった内臓もこの頃はまだキレイなもんか)
この頃はとにかく社会人をこなすのに必死で、なおかつこの苦労を乗り切れば幸福が待っているという根拠のない夢想を抱いていた。
馬車馬のような働いた結果が、母さんの急死と妹との絶縁、そして自身は会社に殺されるという最悪の結末を招くとも知らずに。
(さて……じゃあ行くか、俺が二十五歳である今この時の日常へ)
アパート三階の自宅玄関ドアを開くと、早朝の冷たい風と穏やかな陽光が俺を迎えてくれた。
それは、何千回と見た朝の通勤風景だったが――
(……はは、通行人たちがスマホを持っているのを見ると、未来に戻ってきたって感じがするな……)
二周目の世界――俺が高校生だった時代は、ガラケーが主流であるために道を歩きながら携帯をいじる人の数は少なかった。
ただそれだけで、道行く人々の誰もが生真面目に見えたものだ。
だが今は、道を歩きながらもスマホを手放さない人々こそが時代を跳躍した確かな証拠となっていた。
良くも悪くも一人で生きるためのコンテンツが揃っており、リアルの繋がりが薄まった時代だと言える。
(まずは……俺が殺されたあの場所へ。何をするにしてもそれから始めないといけない)
アパートの階段を降りて街ゆく人々の一部となり、俺はこの世界へと足を踏み出した。
俺が社畜をやっている一周目世界――俺が三十歳で死ぬ五年前の世界へ。
胸に抱くのは、俺の全存在を賭けてでも果たすべき使命。
頭に思い描くのは、狂おしい程に愛おしい少女の笑顔。
たったそれだけを武器に、俺は何もかも不確定な道を歩み出す。
■■■
満員電車は、仕事へ向かう勤め人達で溢れていた。
押し寿司のようにぎゅっと詰まった車内の誰もが朝の陰鬱さが表情に表れており、ただ疲れた大人達の倦怠感だけが満ちている。
無言の勤め人達を乗せて走る電車の外に広がっているのは俺の実家からもさほど遠くない都市部だが――その姿はあの十六歳の時代とは明らかに違う。
(やっぱり全然景色が違うな……十六歳の時代にはなかった新しいビルがいくつもあるし、小さなお店とか相当な数が入れ替わってる……)
ちらりと見えた街頭テレビでは、昨年に実施された消費税八%への引き上げの影響や、中東で勢力を拡大している過激派武装組織のニュースが報じられており、なんとも時代を感じる。
(はは……泣きたくなるくらいに生々しい二十五歳の朝だ……)
隣に立っているオッサンはタバコ臭いし、斜め前のおばちゃんのキツい香水も鼻を刺す。
キラキラと輝いていたあの十六歳の世界と比べると、否応なしに自分が大人に戻ってしまったと自覚させられる。
(しかしまあ、俺の主観じゃつい昨日まで高校生をやっていたのに、今はスーツ姿で満員電車か。過去と未来をこんなにもあっさり移動すると、流石に頭がおかしくなりそうだ……)
自分が今いるのは現実なのか夢なのか、そもそも己の存在すら何もかも嘘なのではないかという思考が頭をよぎる。
三十歳で迎えた最悪の死だけが現実で、その後に高校生時代にタイムリープしてやり直していた青春も、こうして今度は二十五歳として出勤風景の中にいるのも、全ては長い夢なのではないだろうか――
(いいや、違う……それだけはありえない……)
二回目のタイムリープという正気を失いかねない状況の中で、俺はそれを強く否定した。
あの二周目世界で、生きている元気な母さんと再会できた。
すれ違ったまま終わった香奈子と笑い合えるようになった。
そして、向日葵みたいに笑う春華と一緒に色鮮やかな日々過ごせた。
あの黄金の日常は全てが光り輝いており、俺はその眩さに何度も涙ぐんで歓喜に震えた。
(あんなものは知らなかった。あんなものは俺の人生になかった。あの太陽みたいに燦々と輝く日々は……俺の安っぽい妄想からじゃ生まれようがない)
人生で終ぞ知らなかった輝きだからこそ、あれは生々しいリアルだったのだと断言できる。
だからこそ、あの綺羅星のように美しい日々を俺は守る。
この時代で、成すべき事を成す事で。
(気合いを入れろ俺……。成すべき事は本当に仮定だらけで何一つ確証がないけど……それでも何の確証もない訳じゃない)
それこそが俺の心を支えるか細い理論だった。
(タイムリープは俺に何かをさせたがっている……)
まず俺が三十歳から高校時代へタイムリープし、次に高校生の春華にも大人の春華がタイムリープしてきた。
これを偶然と片付けるのはかなり苦しい。
決定的なのは、神の所業にも等しいタイムリープが俺の祈り一つで起こった事だ。
俺の願いを聞き届けて、ぴったりとこちらの目論見通りにこの時代へと送る――すなわち俺という存在を観測している存在がいるという事だ。
この事から推察できるのは――
(……タイムリープの発動は偶然じゃなくて何者かの意志か法則性がある。とすれば、全ての時間移動には意味があって、俺には何らかの役割があるはずなんだ)
それが一体何かはわからない。
全てのタイムリープが意図的なものだとすれば、仕掛け人である神様だか宇宙人だかは一体何がしたいのか検討もつかない。
(俺に二度目の人生を与えたかと思えば春華にはわざわざ破滅を運んで、それを救いたいという俺の願いには応える……本当に何をしたいのかサッパリだ)
だが、現状だけを言うのであれば、俺は時空から後押しされている。
時間改変というとてつもない事を企んでいるのに、だ。
(せいぜい安心材料なんてそれくらいしかないけど……やる事は変わらない。俺は春華を救うまでこの時代を走り抜いて見せる……!)
まあ、それはともあれ――まずは足場の確保だ。
まずは俺を殺した社畜という生き方にケジメをつけないといけない。
だから俺は向かっている。
俺にとっての地獄。
二度と足を踏み入れる事はないと思っていたその場所に。
 




