139.懐かしき地獄での目覚め
覚醒しかけた意識が最初に知覚したのは、まず眩しいということだった。
「うぅ……ん……」
身じろぎすると、擦り切れた部屋着とシワクチャの布団の感触があった。
顎の下に妙な違和感を覚えてポリポリとかいてみると、指先に何かチクチクしたものが当たってしまう。
そうして俺はゆっくりと目を覚まして、世界を視界に収める。
見上げた天井には、電気が灯ったままの照明が一つ。
ずっと掃除していないそれは埃が溜まっており、電灯カバーには中に入ったゴミにより黒点がポツポツと出来ている。
「………………」
ひどく慣れ親しんだような、逆に長らく無縁だったような――そんな不思議な感覚を覚えながら俺はゆっくりと布団から半身を起こした。
そして――俺は自分が今どこにいるのを知る。
(…………ああ…………)
俺はその悪夢にも等しい光景を、自分でも意外な程に静かな気持ちで眺めた。
まず汚い。
俺の寝床の周囲には、あらゆるゴミが溢れていた。
クレジットカード会社や保険会社からの各種通知、領収書、レジ袋、お菓子の袋や宅配のダンボールや包装紙など、足の踏み場もないほど散らかっている。
台所にはいくつもの汚れたコップがそのままになっており、空になったコンビニ弁当の容器が山積みだ。
さらに空のペットボトルやエネルギードリンクのビンが乱立しており、ビールやハイボールの空き缶も多い。
そしてそんな散らかり放題の空間を見渡して――俺は寝床のすぐ側のローテーブルに身だしなみ用の手鏡を見つける。
俺は緩慢な動きでそれに手に取り、ゆっくりと覗き込む。
確かな恐怖と微かな躊躇。
それを無視してそこに写るものを確かめると――
「………よう、久しぶり」
そこに映っていたのは、若々しい高校生の俺ではなかった。
酷く疲れた果てた顔にはクマがうっすらと浮かび、さっき指先に感じたチクチクの元たる無精髭もある。
精神も肉体も酷く疲れ果てた――社会の荒波に揉まれた男の顔がそこにあった。
「……二度目のタイムリープ、か」
俺以外誰もいない孤独極まるゴミ溜めの中で、俺は自分の認識にトドメを刺すように呟いた。
■■■
「はは……改めて見ると酷い部屋だな……」
俺はまるで掃除できていないアパートの部屋を改めて見渡し、自嘲ぎみに呟いた。
それは、自分の胸に渦巻いているものを必死に誤魔化そうとして出てきた台詞でもある。
(戻ってきちまった……この地獄みたいな未来へ……)
これはもはや夢ではない。
あの末期の時と同じようにタイムリープした結果、俺は理想的な二周目人生から追放されて今ここにいるのだ。
(もう二度と……あそこには戻れないかもしれない……)
そう考えるだけで涙が滲み、全身の震えが止まらなくなる。
極寒の夜空に一人放り出されたかのように、底なしの恐怖と絶望がこみ上げる。
だが、それでも――
(これでいい……これこそが俺の望んだ事なんだ……)
俺はともすれば嗚咽を漏らしそうになってる口を固く閉じ、枕元に転がる携帯電話に目を向けた。
何十年ぶりかのような懐かしさすら感じる、スマートフォン。
そのつるりとした手触りを感じながら、カレンダーアプリを操作する。
(頼む……これが違っていたら何もかも意味がない……)
祈るような気持ちで画面を覗き込むと、本日の日付が目に飛び込んできた。
そこに表示された年数と月日は――俺が三十歳で死ぬ五年前。
『今』は俺が二十五歳である時代なのだと、そう告げていた。
「よし……!」
最重要な点がクリアされている事に、俺は小さく喝采を上げた。
春華が自殺未遂を起こして廃人のようになってしまったのは、二十七歳の時。
つまり『今』は、春華が破滅する二年前の時代なのだ。
(いや、落ち着け……時代はそうでも、ここが本当に俺が知る未来かは確定じゃないな。まあ、俺がこの社畜スタイルな生活している時点でほぼ決まりだけどさ)
しかしそれをどうやって確認したら……と考えて、すぐに解決法は浮かんだ。
スマホの連絡先を検索し、俺がこの時代で唯一気軽に話せる相手へと通話ボタンを押す。現在時刻は木曜日の夜十時だが……まああいつなら大丈夫だろう。
『おいおい……こんな時間にどうしたんだよ新浜』
電話口から聞こえてくるその声に、俺は奇妙な安堵と懐かしさを味わっていた。
どの時代でも俺と友達でいてくれるお前には、感謝しかないよ。
「……久しぶりだな、銀次」
『はぁ? 何言ってんだよお前、この間二人で職場の悪口を言いながら飲んだばっかじゃねーか』
「ああ、そうだったか? ま、いいや。ちょっとお前に聞きたい事があってさ」
さて、何から聞けば……うん、そうだな。
イベントの事なら記憶に残っているはずだよな。
「高校二年生の文化祭って、俺らのクラスは何やったっけ?」
『夜の十時に聞かなきゃならん質問かよそれ!? あん時は全然出し物が決まらなくて手抜きな展示になっただろうが!』
文句を言いながらもキッチリ答えてくれる銀次の人の良さに、何とも癒やされる。 こいつと高校卒業後も縁を保っていて本当に良かった……。
「そっか、じゃあ高校二年生で俺が急に活動的になって、紫条院さんと仲良くなったって事もないんだな? 俺とお前と女子三人で海に行ったりもしてないよな?」
『お前は高校卒業までずーっと俺と一緒にクラスの片隅で細々と過ごしてたし、そんなギャルゲーみたいなイベントは起きてねぇよ! さっきから一体どうした!? 寝ぼけてるにも程があるっての!』
寝ぼけているという単語に、思わず苦笑してしまう。
そうだな銀次。
俺がタイムリープして二度目の高校生活を送っていたなんて、普通に考えれば寂しい男が夢に見た願望でしかない。
けど、それでも――俺があそこで触れたものや感じたものは、決して嘘じゃなのだと、俺は確信しているんだ。
「はは、悪い悪い。ちょっと酒を飲み過ぎてアホになってたみたいだ。これから酔いを覚まして早めに寝るよ」
『新浜お前……本当に大丈夫か? なあ、俺には会社の愚痴を聞く事くらいしかできないけど……辛くなったらいつでも言えよ?』
「……ありがとう銀次。遅い時間に悪かったな。ああうん、それじゃまた今度な」
通話を終了させ、俺はあまり綺麗ではない自宅の天井を仰いだ。
どうやら大人の銀次には、要らない心配をさせてしまったようだ。
「やっぱりここは俺がタイムリープで干渉していない本来の時間の流れ……俺が過労死する未来に繋がる『一周目世界』か」
あのファンタジー全開な夢を見た後だと、ここがタイムリープによって派生した世界――二周目世界の未来という可能性も脳によぎったが、さっきの銀次の証言でそれは崩れた。
「なら、全部の条件は整っている。この世界のこの時代ならまだ……春華を破滅から救う事ができる……!」
心を壊した未来の自分がタイムリープしてきた事により、廃人化してしまった十七歳の春華。それを元に戻す方法として俺が唯一考えついた対抗策がこれだった。
超常現象には超常現象で対抗する――つまり、タイムリープによる時間改変だ。
とはいえ、理屈としてはそう難しくない。
二周目世界において高校生の春華が人形のようになってしまったのは、どう考えても一周目世界で精神崩壊した大人春華の状態を反映している。
であるならば――
(一周目世界の大人春華がそもそも破滅を迎えなければ……二周目世界の春華がその影響を受ける事もなくなる……!)
それはあくまで可能性であり、なんの確証もないことだった。
仮定に仮定を重ねたか細い糸であり、ただの希望的観測とすら言える。
そもそも、この案は不確定要素があまりにも多すぎる。
まず第一の問題として俺の祈りに応えてタイムリープが発生したとして、春華が破滅するより以前の時代へ都合良くタイムリープできるとは限らない。
これは現時点で何とかクリア済みだが、その時点でもう賭けだったのだ。
さらにこの時代で大人の春華の精神崩壊を防げたとしても、その結果としてただ分岐した未来を一つ作るだけで終わり、あの高校生の春華は救われないかもしれない。
そしてとどめに、全て上手くいったとしても、俺があの二周目世界に戻れる保証なんてない。
要するに、時間改変にまつわるルールが何一つわかっていない以上、真っ暗な海に地図もなく船出するようなヤケクソすぎる賭けでしかないのだ。
(だけど、もうこれしかなかった。SFの主人公じみた真似をするしか、俺には春華を救う方法を思いつかなかった……)
だから俺はいるかもわからないタイムリープの根源に呼びかけて、まだ春華が精神崩壊を起こしていない時代へやってきたのだ。
「それでも……やってやる……」
二度目のタイムリープを果たした結果がどうなるかなんてわからない。
だが俺は、石に齧り付いてでも果たすべき誓いを口にする。
紫条院春華という存在を救う――そのために俺はここにいる。
この場で目を覚ましてから、俺の臓腑は不安と恐怖で擦り切れるほどの痛みにずっと苛まされている。だが同時に、それを振り切る程の決意と熱量が俺の胸に渦巻いているのも確かだった。
「春華を救うためなら、俺はどこまでだって前に進んでやる……!」
ゴミ溜めに等しい部屋で、俺はこれから打破すべき運命へ向かって叫んだ。




