137.母さんと香奈子の家族でよかった
「おかえり心一郞……ってちょっ、あなたズブ濡れじゃないの!?」
「わわ、マジだ!? ちょ、傘持っていってなかったの!? 計画魔の兄貴らしくもないじゃん!」
頭からズボンの裾までぐっしょり濡れた俺に、母さんと香奈子が驚いた様子を見せた。
気落ちしている気遣ってか、最近この二人は俺が紫条院家から帰ってくるたびにこうして玄関まで迎えにきてくれるのだ。
「あー……実は途中で傘が風で飛んでちゃってな。追いかけて拾うまでに結構濡れちゃったんだ」
本当は激昂に任せて傘を地面に叩きつけて、雨天に叫びまくった時に濡れたのだが、そんな事を言うとますます心配させてしまうので適当に誤魔化す。
「まったくもう……ちょっと待ってなさい」
言って、母さんは洗面所からタオルを持ってすぐに戻ってきた。
俺はそれを受け取ってゴシゴシと髪やら身体を拭き始める。
「もう、拭き終わったらすぐに着替えて居間に着てよね! 私はもうおなかペコペコだし!」
「え……もしかして俺が帰ってくるまで夕飯待っていてくれたのか?」
帰りの道中の足取りが重かったせいで、もう今はすっかり夕方だ。
新浜家の夕食は割と早めなので、もう二人とも食べているかと思ったが……。
「もう、そんなの当たり前でしょ? 今、心一郞はとっても苦しい時なんだもの。そういう時こそごはんを家族と一緒に食べる事が必要なのよ」
「そーそー! メッチャ苦しい時に一人でごはん食べると絶対余計な事考えちゃうじゃん! ママも私もそんなに薄情じゃないって!」
「…………」
俺を労って優しい笑顔を見せる母さんと香奈子が、ずっと暗雲の中を歩いてきた俺の目にはあまりにも眩しかった。
前世の俺が破壊してしまった新浜家の理想の姿。
元気な母さんと、関係が修復されて気さくに話せるようになった妹。
俺が必死に取り戻した光景が、ぎゅっと胸を締め付ける。
「母さん、香奈子……ありがとうな」
冷え切った身体に、家の温かさが身に染みる。
俺は瞳から涙が溢れそうになっているのをこらえ、大切な家族へと心からの礼を述べた。
■■■
食卓には、俺の好きなものばかり並んでいた。
玉ネギとポテトだけのポテトサラダに、ドミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグ、シメジと豆腐の味噌汁に、ほうれん草のおひたし。
このところずっと気落ちしている俺を励まそうとして、母さんは最近俺の好物を優先的に作ってくれている。
俺がこの時代にタイムリープしてきた直後、二度と食べられないと思っていた母さんの手料理を口にした時は、感動のあまりボロボロと涙を流してしまったが……今もまた、料理に込められた母親の優しさについ瞳が潤んでしまう。
「うん、美味い……本当に美味いよ母さん……」
「ふふっ、良かったわ。このところあんたにごはんを作ってもらう事も多かったし、ちゃんと母親の威厳を見せておかないとね」
茶目っ気を交えて言う母さんに、俺も香奈子も温もりの中で笑った。
怖ろしい事が何もない聖域のような食卓で、無償の愛情を向けてもらえる事を奇跡のように感じてしまう。
「ところでその……兄貴、春華ちゃんは今日も……?」
「ああ、ちょっと調子が悪いままだな。相変わらず周囲の事に全然反応してくれないみたいだ」
おずおずと尋ねる香奈子に、俺はなるべくさらりと答えた。
最初、母さんと香奈子は春華の病状に関する話題は俺の前でしない方がいいと考えていたようだが、俺としてはむしろ家族にその事を話せる方がありがたい。
「その、母さんも香奈子も悪いな……俺ってばあからさまに暗くなって家の空気を悪くしている上に、毎日のように春華の家に行って帰りが遅くなって……」
俺としてはなるべく普段通りに振る舞うように心がけているが、春華がああなった傷心によって決して明るい顔はできていないだろう。
以前は俺が母さんの代打として料理や洗濯もそこそこやっていたが、最近は見舞いに時間を取られているせいでほとんどできていない。
「はー? 何言ってんの兄貴? どんだけ自分を持ち上げちゃうの?」
そんな俺の謝罪の言葉のは返ってきたのは、香奈子の呆れたような言葉だった。
「へ……持ち上げ?」
「持ち上げ以外の何ものでもないじゃん! だって兄貴が大大大好きな春華ちゃんが病気になっちゃったんだよ? 普通の人は心配するし元気がなくなって当たり前なの! なのに謝るって事は自分を超合金メンタルの超人みたいに思ってるって事でしょ!」
「え……いや……」
ぷんぷんと頬を膨らませて言う香奈子の言葉には、深い優しさがあった。
お前は超人じゃなくて普通の人間なんだから、辛い時には家族を頼るべきで、強がらなくていい――そう言ってくれているのだ。
「そうよ心一郞。あなたは春から毎日のように家事をしてくたり、どんどんしっかりしていったけど……それでもあなたはまだ子どもなの。大人みたいにやせ我慢する必要なんてないんだから」
「母さん……」
大人のメンタルを持つ俺は、無意識に強くあらねばならないという思考が宿っている。それを薄々わかっているらしきこの二人は、俺に弱いところを曝け出してもいいと言外に言っていた。
辛い事は辛いのだから感情のままに悲しんでいいと、俺に肉体年齢通りの子どもである事を許してくれているのだ。
「……俺、母さんと香奈子の家族でよかったと思うよ」
「ええ……? ちょっと大袈裟すぎるてキモいって兄貴。いくら何でも心弱りすぎでしょ」
ちょっと引いたような香奈子の言葉に、俺は苦笑した。
ああ、確かにちょっと高校生が言うには少しキモい台詞だったな。
でも、これは今の内にしっかりと言っておかないといけない。
俺の想像通りだとすれば、『それ』がいつ起こるのかはわからない。明日か明後日か、一ヶ月後か一年後なのか。
だが下手をすれば、もう二度と俺はここへは戻ってこれないのだから。
■■■
常夜灯だけが微かに灯る部屋で、俺はぼんやりと天上を見上げていた。
すでに時刻や深夜であり、母さんも香奈子もすでに寝ているはずだ。
そして俺もまた、いつも通りの時刻にいつも通りのパジャマを着て就寝していた。
時を遡ったその日から今日に至るまで、毎日繰り返してきたように。
(思えば……俺がタイムリープしてきた日に目を覚ましたのがここだったな……)
あの時はとっくに解体されたはずの実家の自室にいるのだから、大いに混乱したものだ。
というか、過労死からの超常現象という凄まじいコンボに遭っておいてよくその日から順応できたものだと思う。もしかして、俺って自分で思っているよりも図太いんじゃないだろうか?
だが、あの時からこの部屋の様子も大きく変わっている。
ゴチャゴチャと散らかっていたラノベやゲームは整理されているし、机には参考書や大学案内の類いが増え、よそ行きの服も僅かながら買い揃えてる。
部屋は心象を表すと言うが、ただの陰キャ高校生だったこの部屋は、俺の中身の変化を示すかのようにかなり模様が変わったものだ。
この部屋だけじゃなくて、俺の学校生活も家庭環境も前世とは大きく変わった
理想を叶えようとあれこれ頑張った甲斐があり、俺の二度目の人生は信じられないほどに鮮やかに彩られていった。
(それが春華がああなった途端に、何もかもセピア色に見えてしまうんだからどんだけ俺は春華が好きなんだって話だよな……)
自分の苦笑していると、意識が揺らいでいくのを感じた。
今日は雨の中を歩いたし、疲れているのだろう。
(……結局のところ、俺はどうあがいても春華の事を諦める事なんてできない。人生やり直しで自分の道をどれだけ輝かしいものにしようとも、春華がああなったままの人生なんて耐えられない。それくらい……好きになってしまったんだ)
だから頼む――
(俺に……もう一度だけ奇跡をくれ……)
意識が薄らいでいき、俺は心地良い眠りの中に落ちていく。
自身を形成するあらゆる境界線が薄らいでいき、全てから解き放たれる。
その最中で――
俺はまたもあの、古い時計の音を聞いた気がした。
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