136.あともう一度だけの奇跡を
暗雲たちこめる夕方にパラパラと涙するような雨が降りしきる中――
紫条院家から家までの長い距離を、俺は傘を手に力ない足取りで歩いていた。
「………………」
言葉がない。
思考がまるでまとまらない。
心の中が、真っ黒に塗りつぶされていた。
あの後――俺はお見舞いを切り上げて帰宅する旨を冬泉さんと秋子さんに告げてその場を後にした。
その際、俺はとてつもなく酷い顔色をしていたようで、紫条院家の女性二人は俺の体調をずいぶんと心配していてくれたが、俺は空元気を見せて何とか誤魔化した。
そうして、俺以外に誰もいない帰り道をうなだれた頭を抱えて歩いている。
どうしようもない真実に、抗う術を思いつけずに。
(多分……俺の仮説は正しい……)
悪夢をフラッシュバックさせたようなあの時の春華の言葉――あれはどう考えても前世で春華が受けていた社内いじめの内容と一致する。
そして駄目押しはスマホという言葉だ。
この時代においてスマートフォンは海外ですで存在しているはいるものの、まだ日本では表舞台に立っていない。なので、その略称が存在している訳もない。
(つまり……今、あのベッドの上にいるのは酷い社内イジメで心を壊してしまった未来の春華だとしか考えられない……)
そう仮定すれば、通常ではあり得ないこの事態の全てが説明できる。
俺と同じように、タイムリープしてきた大人の春華。
天真爛漫で清廉な心をくだらないクズどもにボロボロにされ、変わり果ててしまった末が、あの姿なのだ。
「……ざけんな……」
俺が絶対にそうはさせないと誓った、紫条院春華の行き着く最悪の未来――
「ふざけんなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
俺は激昂に任せて傘を地面に叩きつけ、雨雲が占める暗い空へと絶叫した。
何で……何でそんな事が起きるっ!?
春華は幸せな未来へ進もうとしていたのに、どうして超常現象がわざわざ破滅を運んでくるんだよ!?
「何だよそりゃ……! 全部……全部無駄だったってのかよっ!? 俺がやってきた事も、これから春華を守っていこうと決めた事も何もかも!」
俺は未来を変えたかった。
俺自身の事ももちろんそうだが、何よりも紫条院春華という俺の心の中で永遠の宝石となっていた少女を悲劇から救いたかった。
なのに、運命は時を超えてまで春華に破滅を運んできた。
俺が必死に未来を変えようとあがく様をあざ笑うように。
「タイムリープして人生をやり直しているこの俺に、ルール違反として罰を下すってんならまだいい……! けど、今この時を生きている春華に何の罪があるって言うんだよ!?」
雨粒が身体を濡らしていくのも構わずに、俺は感情のままにただ叫んだ。
ただ叫ぶしかできない理不尽を、激情のままに呪った。
(俺には……何もできないのか? このまま春華が壊れたまま朽ち果てるのをずっと指をくわえて見ているしかできないのか?)
俺は今世で青春リベンジを始めてから、様々な事と戦ってきた。
所詮凡人に過ぎない俺だが、それでも自分の人生をより良くし、想いを寄せる少女が破滅を迎えないように努力してきたのだ。
だが……今直面している事態に対しては戦う術がない。
超常現象によって崩壊してしまった日常を取り戻すには、通常の手段で何をやっても無理だ。
(俺は……俺は一体何のためにタイムリープしてまでこの時代に戻って――)
ん……?
そこで、ふと思考に閃くものがあり激情が冷却される。
そうだ。そもそも……俺という存在は何だ?
(俺一人だけがタイムリープしているのなら、まだ神様や宇宙の神秘だかの気まぐれって線もある……だけど、俺と春華っていう身近な二人がタイムリープしているのなら、そこに法則性や意味……いや、役割がある?)
タイムリープなんて完全に人知を超えた現象であり、そこに意味を見いだそうとする事こそ愚かなのかもしれない。
だけど――
春華が未来から破滅をもたらされた今この時に、春華を救いたいと心の底から願うタイムリーパーの俺がいる。
それが、偶然ではなく意図して作り出された状況だとすれば……。
俺は、何かを期待されている?
「………………」
それは希望と呼ぶにもおこがましい程に細い線。
ただの希望的観測の末にある願望に過ぎなかった。
だが――
「おい聞け……っ! 俺をタイムリープさせた奴っ!!」
降りしきる雨の中、俺は天へ向かって大声で叫んだ。
「俺は、お前が何者なのか知らない! 神様なのか悪魔なのか宇宙人なのか、そこは正直どうだっていい! けど今は俺の言葉を聞け!」
周囲に人がいない事が幸いだが、例えそうでなかったとしても俺はこの頭がイカれたかのような馬鹿な絶叫を止めなかっただろう。
「俺は……春華を救いたい! どうあっても救いたい! 今を生きる十七歳の春華も未来の破滅した春華もだ! もしそれがお前の目的に叶うのなら――」
それは、薄らとした考えこそあれほぼ衝動的な叫びでしかなかった。
「俺を春華の破滅を阻止できる場所へ連れていけ! 俺がそこに辿り着きさえすれば絶対になんとかしてみせる!」
俺が思った通りの事が起これば、果たして何がどうなるのはまるでわからない。
それでも、一縷の望みがあるのであれば何が何でもそこに賭けてみたかった。
「その結果、俺はどうなってもいい! もう二度と戻ってこれなくても、本来の運命通りにあの夜の会社でもう一度くたばっても構わない! だから……!」
血の涙を流さんばかりの慟哭を込めて、俺の魂を賭けて訴える。
本当に好きな女の子なんだ。
真っ暗だった俺の人生で永遠に輝き続ける、星のような少女なんだ。
春華が幸せな未来を得られるのなら、俺はどんな事だってやってみせる。
一度死んだ身である俺には、その覚悟がある……!
「頼む……! あともう一度だけの奇跡を……! 本当の意味で春華を救うチャンスをくれえええええ!」
想いの丈を叫んだ俺は、濡れたアスファルトに伏して天に願い乞う
かつて天上の存在が深く信仰されていた時代に、人々が本気でそうしていたように俺もまた本気の本気で祈り捧げる。
――――答えはない。
そもそも俺の声を聞き入れる『誰か』なんて普通に考えればいる訳がない。
現実は変わらず暗い夕闇に覆われており、暗雲からはただ冷たい雨が降りしきり俺の身体を容赦なく濡らしていく。
だが、その時――
アスファルトを打つ無数の雨音に混ざり、遥か遠くから何か音が聞こえたような気がした。
古い時計が時を刻むような、カチリという歯車の音が。




