135.その現象の名を、俺は最初から知っていた
「春華……今日も来たよ」
「………………ぁ……」
俺が呼びかけても、春華は微かに呻くばかりでまるで反応しなかった。
その瞳は何も映さず、何も見ていない。
表情もまた無に等しく、何の感情も表れていない。
まるで壊れた人形になったかのように、彼女の心はそこになかった。
(もう十日……か)
あの日あの後――急に意識を失った春華は、すぐに救急車で病院へ運ばれた。
当然、春華の両親も病院に同行したが、ほどなくして春華は目を覚ました。
その時は俺も秋子さんも時宗さんも心からホッとしたものだったが――
絶望はその後にやってきた。
目を覚ました春華は、心が壊れているとしか言いようのない状態だったのだ。
(目は開いているし、呼吸もしている……けど、指一本すら動く事なく外部の事を全く認識していない……)
今の春華は、心がどこかに飛んでいってしまった抜け殻のようだった。
ただ虚ろな瞳で虚空を眺めるばかりの状態だ。
時宗さんは、即座に名医と呼ばれる医者達に春華を診せた。
だが、どれだけ入念な検査を行っても、この症状の原因を特定する事はできなかった。脳を含め、どんなに調べても身体に異常はなかったのだ。
ただ、症状としては、極度のストレスによって自己の心を閉ざしてしまった人に酷似している――そんな結論だったらしい。
しかし、当然ながらそういった症状は、愛する人の喪失や災害との遭遇などの過酷な体験の結果だ。ある日突然なるようなものじゃない。
(むしろ最近の春華は笑顔に満ちていて精神状態は円満そのものだった……俺だけじゃなくて紫条院家はもちろん、学校やバイト先の誰もがそう証言した。そもそも春華の性格上、精神に歪みをもたらす程のストレスを一緒に住む家族に隠しきれるはずがない)
だからこそ、こうなった原因は完全に不明のままだ。
結局、自宅で長期的にケアしながら多くの言葉を投げかけて、精神方面の治療をじっくりと行っていくしかない――その結論を得て春華はこうしてこの部屋にいる。
「では新浜様。私は退室します。ゆっくりしていってください」
そう言い残し、冬泉さんは一礼して退室し、広い部屋は俺と春華と二人っきりになった。
俺は見舞い用の椅子に腰掛けて彼女に視線を送る。
だが、彼女が俺に瞳を向けてくれる事はない。
俺が今ここにいるという事実すら、彼女は全く認識していないだろう。
「春華……連日押しかけちゃってごめんな」
見舞い用の椅子に腰掛けて、瞳に何の意志も感じられない春華へと俺はゆっくり話しかけた。
「時宗さんは流石に会社を休むのが限界らしくて、今日は出勤しているよ。あんなに痩せ細るほどに精神が磨り減っているのに、それでも社長としての務めは果たそうとするんだから、本当に大した人だよな」
春華の両親は、春華がこんな状態になった事で悲しみに暮れた。
特に最初の数日は周囲の人間が見ていられない程に憔悴していたらしい。
だが、それでもあの二人は娘の回復を信じて必死に涙を拭い、今自分ができる事をしようとしている。前世の俺なんか比べものにならない程に立派な大人だ。
「本当はさ、連日見舞いに来るなんて迷惑すぎて自分でもどうかと思ったんだ。でも時宗さんに土下座して頼んでみたらさ、『むしろお願いしたい。娘に話しかけてやってくれ』って逆に頭を下げられてびっくりしたよ」
身体に異常はない以上、現段階において春華の状態は精神的な問題としか仮定できない。
そのためには、家族やごく親しい人間との接触による精神の活性化しかないというのが医師達の診断だ。だからこそ時宗さんも俺にその一助となって欲しいとお願いしてきたのだ。
「風見原と筆橋も見舞いに来たらしいな。春華の姿を見てワンワン泣いたみたいだけど、秋子さんは凄く感謝していて、二人に何度も頭を下げていたって聞いたよ」
あの二人も学校では以前の明るさを失っており、すっかり静かになってしまっている。見かねた俺は『そんなんじゃ春華が戻ってきた時に激痩せしてるぞ?』と発破をかけたが、二人からは苦笑しながら『どんよりしすぎて死相が出ている新浜君程じゃない』と返されてしまった。
「……体調が戻ったらさ、どこか遊びに誘いたいんだ。カフェでも遊園地でもいいけど、とにかく春華と一緒に遊びたい。あ、まあその前にこの間言いそびれた事をちゃんと言わないとな。照れくさいけど、あればかりはきちんと言っておかないといけないし」
俺はただ一方的に喋る。学校の事、クラスの事、紫条院家の事、ウチの家であったちょっとした事や、これからの事。春華に聞いてもらいたい事を、全て話す。
「……………………」
春華は何の反応も返さない。
たまに漏らす呻き声も、意思の欠片さえ宿っていない。
瞳こそ開いているが、実質的には眠っているようなものなのだ。
「本当に……どういう事なんだろうな……」
一時間近くも一人で喋った後、俺はポツリと呟いた。
こんな事はありえない。
そう、あり得ない事を俺は知っているのだ。
(春華がこんなに長期間学校休んだ記憶なんてない……つまりこれは前世に起こっていなかった事態なんだ……)
いくら俺の主観時間で十数年前の事であろうと、俺が密かに憧れていた少女がこんなに長く学校を休んで記憶に残らないはずがない。
この事態は、前世では起こっていない出来事なのだ。
「やっぱり原因は俺なのか……? 俺のせいで春華はこんなふうになってしまったのか?」
この十日間、毎日ずっとこの疑問と自責の念が頭を占めていた。
前世に起こっていない事が今世で起こる。
その原因として真っ先に思いつくのが俺というタイムリーパーの存在だ。
(俺という異物の存在がこの事態を引き起こしてしまったのか……? けど、それにしても訳がわからない。俺が何かやったのならともかく本当に何も――)
結局、仮に俺がこの事態のトリガーとなっていたとしても、その具体的な原因と解決方法がわからない。
そして、それでも時間は容赦なく過ぎていき、もう一週間半が経過した。
紫条院家の皆が必死に介抱し続けて、考えられる最高の医療を施すべく奔走し、泣きはらして神頼みまでして――日々磨り減って行く精神を抱えて春華を看病し続けて、もう十日間だ。
その間、春華は何の変化もなくずっと精神が崩壊したまま。
ほんの僅かな改善すら見せず、ただ悲嘆だけが積み上がっている。
(もし、これが俺のせいなら……疫病神もいいとこだろ……)
この十日間でたびたびそうだったように、自らを呪う言葉が胸中で木霊した。
(何が春華を破滅の未来から守るだ……因果関係は全然わからないけど、俺がこの時代で好き勝手やったせいで春華はこうなったんじゃないのか?)
ここしばらく発作のように繰り返している自分への呪詛が、今日は特に強い。
自罰の念が溢れて、春華の前なのに思わず口から吐き出してしまう。
「春華の未来と、俺の未来……今度こそ全部上手くやれると調子に乗った結果がこれなのかよ!? 俺はただ春華に災厄を運んできただけだってのか!?」
頭を抱え、悲嘆に沈む。
自分のせいで春華がこうなった可能性がある以上、自責の念は留まる事を知らない。
「……ふう、ごめんな春華。春華の方がずっと辛いのに愚痴なんて言っちゃって。さて、話の続きだけど、それで学校でさ……?」
自分の感情にリセットをかけて、今はこの少女に一言でも言葉を投げかけなければと話を再開しようとするが――
「…………せ………………ん……」
「え……春華っ!?」
春華の口から意味のある言葉のようなものが聞こえて、俺は椅子を倒す勢いで立ち上がった。
もしや俺に何かを言ったのではないかと期待したが――
(……駄目か……)
俺が目の前で手を振っても、肩を軽く揺さぶってみても春華は一切の反応を示さない。とすれば、今のはいつもの意味のない呻き声で――
(いや……違う! ちょっとだけ口が動いて……何か言ってる!)
あまりにもか細くてこの距離でも殆ど聞こえないが……それが意味のある言葉の羅列であるように俺は思えた。
俺は春華の口元にぐっと耳を寄せて淡い泡沫のような言葉を必死で聞き取る。
一体どこでどう精神のスイッチが入ったのかわからないが、これは千載一遇の機会だ。もしかしたら、こんな症状に陥った原因に近づけるかも――
「……ょうし……にのって……ま……せ……」
言ってる。かなり耳を近づけないと声とすら認識できない程に小さすぎる声だが、確かに何かを言ってる。
「……しは……こびをうったり…………ません……」
こび……? 何だ? 何を言ってる?
「……しのものを……かってにすてたり……ください……」
まるで壊れたレコーダーが何かの拍子で動き出したかのように、春華は自分の内に漂っていた言葉を再生する。
今口からほんの微かに零れているこの言葉は、現実ではなく精神を蝕んでいる何かに向けてのものなのだろう。
「……れは……おいわいに……おとうさまから……れた……」
しかし……それにしても何の事を言っているのかわからない。
疑問符を浮かべ、俺はさらに春華の口へ耳を近づける。
そして――
「たいせつなすまほなんです……だけは……ゆるして……」
――――え?
瞬間、俺の背がゾクリと泡立った。
「…………スマホ?」
大切なスマホと、間違いなくそう言っていた。
まだこの時代にないはずの、その通称を。
肌にぶわりと生じた冷たい汗を感じながら、俺は呆然と春華を見る。
だが、もう少女は再び口を閉ざして無表情な人形の状態へと戻っていた。
風貌に変わりはないのに、その面持ちは枯れ落ちた花のように生気がない。
……酷い時間を重ねて、生きる気力が根こそぎ奪われてしまったかのように。
(……一体、何が起きてる……? どうして、春華はそんな単語を……)
ドクンドクンと鳴り響く自分の心臓の鼓動がうるさかった。
自分の脳が冷静さを取り戻していくごとに、今目の前で起こった事の意味を朧気ながらも少しずつ理解していき――汗の量はどんどん増えていく。
そして俺は、否応なくその記憶を呼び覚まされる。
前世において、俺が春華の破滅をニュースで知った時の事を。
『紫条院家の令嬢、社内いじめの末に重度の精神疾患』
『家族の呼びかけにも答えられない深刻な状態』
『男性社員に媚びを売っていると同僚の女子社員らが日常的に酷いイジメ』
『大量の仕事の押しつけ、私物の破壊、執拗な罵詈雑言、時には暴力も』
あの時呆然と眺めるしかなかったあの記事の数々。
目を覆いたくなるような醜悪すぎる事実。
あの時俺の胸に深い傷を残した情報が、事態を集約していく。
――この時代にない単語を発した春華。
――壊れた人形のようになってしまった春華。
――前世で起こらなかった事が今世で起きる。
それらの要素は、あっという間に一本の線へ集約する。
その全てが、ただの一言で説明ついてしまう。
普通では起こりえないその現象の名を、俺は最初から知っていたのだ。
「タイム……リープ……」
臓腑に冷たいものを感じながら、俺は絞り出すようにその言葉を口にした。




