134.暗黒の土曜日
自宅で迎えた土曜日の昼は、とても穏やかで平和だった。
昼から天気は悪くなるらしいが今はまだ快晴であり、外でチュンチュンと雀が鳴く声が心地良い。
(……誰かが最悪な時でも、世界は平常運転か。ま、そりゃそうだよな)
俺がブラック企業で精神が破綻しそうになっていた時も、真夜中のオフィスで無様に死んだ時も、俺以外の世界の時間は淡々と過ぎていた。
不幸とは、どこにでも転がっているありふれたものでしかないのだから。
「それじゃ行ってくるな」
「あ、うん……いってらっしゃい兄貴」
自宅の玄関口で、俺は靴を履きながら妹の香奈子にお見送りされていた。
これから向かう先を考えれば、普段ならこいつも俺に発破やからかいの一つでも投げかけていただろうに、そんな気配はない。
なんだかんだで、この妹は空気が読めて優しい奴なのだ。
「……悪い、心配かけてるな」
俺のせいで最近この家ですっかり湿っぽい雰囲気が続いている事を含め、俺は妹にワビを入れた。
いくらなんでも、我ながら本当にメシが喉を通らなくなるくらいまで落ち込むとは思ってなかった。
「そりゃママも私も勿論心配してるよ。兄貴ってばこの十日間は見てらんなかったもん」
……正直耳が痛い。特に『あの日』から二日ほどは茫然自失すぎて廃人みたいになってたもんな俺。
「すまん、ちょっと空元気が出せる精神状態でもなかったからな。でもまあ安心しろ。もう飯はちゃんと食えるようになったし、ぶっ倒れたりはしないよ」
少し痩けた頬を触りながら、俺は妹に笑いかける。
それが虚勢だとしても、務めて笑顔を作ってみせる。
「それじゃ行ってくる。夕方までには帰ってくるよ」
「うん……いってらっしゃい兄貴」
神妙な妹の声に送りだされて、俺は実家は出る。
向かう先は、ここ最近すっかり行き慣れた紫条院家の屋敷だ。
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『ようこそいらっしゃました新浜様。お待ちしていましたよ』
この十日間ですっかり通いなれた紫条院家の前に辿り着き、インターホンを押すと、モニターの向こうでこの家のお抱え運転手である夏季崎さんが対応してくれた。
「……ええ、今日も来てしまいました」
『今の紫条院家にとって、貴方の来訪はとてもありがたいことです。さあ、どうぞ上がってください』
夏季崎さんは痛ましげに俺を見て、労るように優しい言葉をかけてくれた。
その気遣いに、俺の心はほんの少しだけ軽くなる。
そして、俺は紫条院家のとてつもなく広い中庭を通り抜けて玄関へと足を進める。
そこに、『あの日』から変化はない。以前と同じく色とりどりの花が咲き乱れており豪華な装飾の噴水が見る者の目を楽しませている。
本当に――何も変わらないように見えるのだ。
感傷的になりすぎている自分を自覚しつつ、俺は豪奢な玄関のドアをゆっくりと開けて紫条院家の敷居を跨ぐ。
「よく来てくれたわ新浜君。いつも足を運んでくれてありがとうね」
「秋子さん……どうもこんにちわ。出迎えて頂きありがとうございます」
春華そっくりの若々しいお母さん――秋子さんが俺の来訪を出迎えてくれた。
だが……その姿は何度も面識がある俺からすればあまりにも痛々しい。
(秋子さん……やっぱりかなりやつれたな……)
少女のようにはしゃぐ姿が印象深い女性だが、今は憔悴と疲労の色が濃い。
目の下には隈が出来ており、俺以上に痩せたように思える。
「ここ最近、いつもお邪魔して申し訳ありません。今日もお見舞いさせて頂いていいでしょうか」
「いいえ、お邪魔どころかあの子のためにずっと足を運んでくれている君に凄く感謝しているわ。ふふ、今日もゆっくりしていって。あの子に色々な話をしてあげてね。……じゃあ冬泉さん。よろしく」
「はい、奥様」
答えたのは、この家の若い家政婦さんである冬泉さんだった。
この十日間で何度も会っているが、一見彼女は『あの日』以前と変わらずに平静を保っているように見える。
だが……それもおそらく周囲を元気づけるための仮面だろう。彼女の瞳にもまた、深い悲しみの色がずっと湛えられているのだから。
「……奥様も少し休まれてください。眠れないのは承知しておりますが、せめて横になるだけでも」
「ふふ、そうね。こんな顔をあの子に見せたらびっくりさせちゃうものね」
そんなやりとりを聞くだけで、もう胸が痛い。
ここ最近ずっとこの家に通っている俺だからこそ、あの明るかった紫条院家から徐々に灯りが消えていくようで、本当に辛い。
「では行きましょう新浜様。お嬢様のところへ」
そうして、今日も俺はそこへ足を運ぶ。
あの日、俺が想いを伝えられなかった少女の元へ。
■■■
ひどく静かな紫条院家の屋敷の中を歩いていると、すぐにそこに到着した。
他ならぬこの家で最も愛されている少女――春華の部屋だ。
ここ連日、俺がずっと足を運んでいる場所でもある。
その入り口のドアを見ると、どうしても春華と二人でこの部屋で過ごした時の事を思い出してしまう。
二人で食べたフルーツタルト、ふとした事で生じた甘い雰囲気、過保護のあまり娘の部屋に突撃してくる時宗さん……。
そんなドタバタが、今では遥か遠い昔の事のようだった。
「お嬢様、失礼します」
冬泉さんと一緒に入室すると、少女の部屋に似つかわしくない光景が目に飛び込んできた。
医療用の各種計測メーターに、面会用の椅子。
最新の医療用電動リクライニングベッドに、人工力学に基づいて患者の負担を軽減する最新のベッドマット。そして、その傍らに設置してある点滴スタンド。
今やこの部屋は個人宅の中に作られた病室だった。
「お嬢様……今日も新浜様が来てくれましたよ」
冬泉さんが部屋の奥に進み、やんわりと声をかける。
大きな医療ベッドの上にいる一人の少女へ。
「春華……」
俺はそっと春華へと語りかける。
その姿は、以前と何ら変わりない。
黒く艶やかな長い髪は丹念に織られた絹糸のようで、肌は甘いミルクのを溶かしたような乳白色。
神様が丹念に彫り込んだようなその綺麗な顔も何もかも……俺が知っている紫条院春華だった。
(本当に以前と変わりなく見える……けど……)
医療用のリクライニングベッドはマットの上部がせり上がって背もたれになっており、春華はそこに背を預けて座るような体勢になっている。
パジャマを着ている彼女は眠っている訳ではなく、その瞳は完全に開いていた。誰が見ても、意識を覚醒させていると思うだろう。
だが――
「……ぅ…………ぁ…………」
そこに宿っているはずの春華の心は、見る影もなく変わり果てていた。




