116.心一郎と春華、ただいま労働中
「頼りになる後輩と信じてた奴がこれ見よがしにアイドル級に可愛い彼女とイチャつき始めた件」
「なんかもう、世の中の理不尽さを感じる。紫条院さんだっけ? 可愛いのはわかるけどバイト先に引っ張り込むなよチクショウ」
「あんな彼女いるとか前世でどれだけ徳を積んだんだ君は。ブッダか何かだったのか?」
若手男性バイト達で書店スペースの整理作業をしている最中――
皆で黙々と本を入れ替えていると、周囲の先輩達が世の中を呪うようにブツブツと恨み言を吐き出した始めた。
なんか知らんが、この店にいる高校生・大学生の男性バイトは妙に彼女なしが多い気がする。
「いや、別に俺がバイト先を紹介した訳じゃないですし、彼女でもないんですって」
事実でないことはきちんと否定するしかなく、年上ばかりのバイト仲間達にそう説明するが――
「かーっ! 出た! 出ましたよ大嘘! あんだけイチャイチャしてて何が彼女じゃないんだっての!」
「別に恥ずかしがらなくてもいいって。あの子さあ、君が話しかけたら大好きな飼い主に会ったワンコみたいに尻尾ブンブンなテンションになってたじゃんか。あの親密さで彼女じゃないは無理があるだろ」
まあ、春華の立場で考えれば、慣れないバイト先での知り合いが俺だけなので、俺の姿を認めると普段より喜びの表情が深くなっているのはその通りかもだが……。
「あー……その、悪かったな新浜」
不意に話しかけられて、俺は声の方向へ視線を動かす。
俺の隣までやってきてバツが悪そうに言ったのは、春華にメアドを聞いていた大学生の難波先輩だった。
「知らなかったとはいえ、お前の彼女を目の前でナンパしちまってすまんかった……何で三島店長がキレたのかはよくわからんけど……」
この店の正規スタッフはともかく、アルバイト達は紫条院さんがこの店の大本の会社の社長令嬢だとは気付いていない。
紫条院という名家の名前を知っている奴は多いだろうが、バイトに入ってきた女子高生とそこを結びつける事まで思い至っていないようだ。
まあ、俺だってミツビシさんとかスミトモさんなんて名前の人が職場に入ってきても、まさか自分の生活範囲にスーパーエリートな家柄の人がいるとは思わず、ただ名前が似ているだけだと思うだろう。
「いえ、知らなかったんですし繰り返しさえしなければいいですよ。まあ、懲りずにあの娘に言い寄るのなら、その時は決闘を申し込むかもですが」
「ひぃ!? わ、わかってる! もうしないって! 人の彼女に手を出すなんてマジで言語道断だったよ!」
俺としてはジョークを交えて和やかに言ったつもりだったが、年上の難波先輩は過度にビビってひたすらに謝り倒してきた。
……そんなに怖い顔してたか俺。
「おい、やべぇぞ。新浜の奴目が笑ってねえ」
「彼女のためならマジで何でもやりそうで怖いなこいつ……ヤンデレかよ」
そんな独占欲剥き出しの彼氏みたいに言わんでも……と思ったが、自分の春華への執着を鑑みるに、決して否定できずに反論が出てこない。
これまでも何人かに言われたが、自分の想いの重さは自覚せざるを得ない。
(それにしてもどう反論しても完全に彼女認定だな……まあ、もう否定しても無駄みたいだしそういう事にしておくか)
春華の世話係にも任命された事だし、いっそ彼氏彼女の認識の方が色々とやりやすいかもしれない。何より、バイト内でのナンパを強く牽制できるのが大きい。
(ただ……なんか周囲に恋人同士って認識されるのは、なんかこう、照れくさいシチュエーションだよな……)
彼氏彼女の二人が、一緒のバイトに入ってお互いに苦楽を積み上げて仲を深めていく――今の状況はそんな少女漫画にありがちな展開に似ている事に気付いて俺は頬をポリポリとかいた。
(まあ、でも……春華がいるとやっぱやる気は出るな)
こんな展開は予想していなかったが、どうせ同じ職場になったのであれば春華にカッコ良いところを見せるべくもっと仕事を頑張ろう。
勤労意欲に恋心というガソリンが供給された俺はますます気合いを滾らせ――周囲の先輩男性バイト達はそんな俺を、『ほら、彼女来てからめっちゃテンション上がってるじゃないか』みたいな目で見ていた。
私こと紫条院春華はが人生初の労働を初めてから、もう一週間以上にもなる。
このブックカフェ楽日はとてもお洒落で、お客として訪れた時はその雰囲気はとてもキラキラして見えた。
だけど、こうして現場で働いてみると、キラキラの裏側は店員さん達の苦労で成り立っていたのだと痛感する。
「お、オーダー復唱します! エスプレッソのレギュラー二つにブルーベリースコーン一つ! それからワッフルのチョコソーストッピングですね!」
女性の先輩アルバイトから伝えられたオーダーに、私は一生懸命に大きな声で確認を兼ねた返事をする。
このお店のアルバイト業務は接客、レジ、書店の管理、清掃など多岐に渡る。
新人の私は採用されてからしばらくは接客に回っていたけど、店長の三島さんの方針で、他の業務についても一通り経験を深める事になっていた。
そして本日私が担当しているのはカウンター内でのドリンク作成なのだけど、これがまた難しくて緊張する。
(うう……まだ新人だから私に回す注文の量を絞ってくれているのに、それでも凄く大変です!)
ドリンクの作り方はマニュアルできっちり示されており、手順を踏めば誰にだって作れる。だけど、オーダーがいくつか溜まっただけでどうしても焦ってしまい、その当たり前の手順を見失ってしまう事もある。
(どれだけ忙しくても間違う事は許されないですし、時間をかけすぎてもダメなのが本当に焦ります……!)
アルバイトを始めてわかった事は、お金をもらっている仕事には多大な責任が発生していて、基本的にミスは許されないという事だった。
それぞれに与えられた仕事を不足なくこなすのが前提で職場は回っていて、ちょっと間違えるだけで周囲の仲間やお客さんに迷惑をかけてしまう。
(私なんてあっというまにキャパがいっぱいになってしまうのに、心一郞君はどうしてあんなにたくさんの業務をシュババッと片づけられるんですか!? とても同年代だと思えませーん!)
一緒の職場に立ってみて、私は心一郞君の能力の高さを改めて思い知った。
あらゆる事に対応できる万能性もさることながら、どんなに忙しい場面でも冷静に最適な行動を選べる心の強さには本当に驚いてしまう。
私に任せられた仕事なんて特に高度な事じゃない。けれど、それでも緊張とミスを犯す恐怖で頭が真っ白になってしまう事もあるのに……。
(やっぱり予想した通り、お仕事は楽じゃないですね。でも……)
手元を動かしながら、私はちらりと客席を見る。
中学生くらいの女の子達が、ホイップクリームやチョコレートコポーが乗ったカフェモカに目を輝かせて、おずおずと口を付けては美味しそうに顔をほころばせている。
私が作ったドリンクが、彼女達の休日にささやかな幸福を与えている――そう思うと、自分の中の何かが満たされていくのがわかった。
それはお客さんを満足させる事ができたというやり応えだけじゃなくて、自分が職場やそこにいる仲間――もっと大袈裟に言えば社会の役に立てたという手応えだった。
高校生でもできる本当に簡単な仕事をしただけだけど、自分でもこのくらいは出来るのだという事実が、とても嬉しくて誇らしい。
「お待たせしました! エスプレッソのレギュラー二つ、ブルーベリースコーン一つ、ワッフルのチョコソーストッピングです!」
注文品受け取りカウンターから、大学生らしき二人の男性へ笑顔でドリンクやフードが乗ったトレイを差し出す。
これでとりあえず一個注文が終わって――
「うわ、おい! この娘マジとんでもなく可愛いぞ!」
「うおおお!? ちょ、凄え! な、なあ、君高校生? 良かったら俺らと――」
「あ、、あの……」
唐突にお客さんに話かけられて、私は言葉に詰まった。
実を言えば、こういう事は学校で何度も経験している。
これが交友関係を結ぶために連絡先を聞き出す事だというのは周囲に教えられて理解しているけれど……何故か声をかけてくる人達は誰も彼も面識がないのにあまりにも気安すぎて、正直怖いと感じてしまう。
けれど、今この場所は職場で相手はお客さんだ。
この場合、どう対応するのが最善なのかわからず私が固まっていると――
「お客さまあああああああ! 本日はご来店ありがとうございます!」
(し、心一郞君!?)
猛ダッシュで駆けつけた心一郞君は、私を隠すようにして男性二人の前に立ちはだかり、満面の笑みで半ば叫ぶように言った。
そんな突然の横槍に、私に声をかけてきた二人組も目を白黒させている。
「本日のエスプレッソはコロンビア産の豆を使っております! ふわりと甘い香りがするのが特徴で、マイルドな酸味もありとても風味が楽しめますので、どうかご賞味くださいっ!」
笑顔のまま、心一郞君はセールスマンのように猛烈な勢いでコーヒーの説明をまくしたてた。その一方的な笑顔と言葉の洪水により、お客二人の勢いは完全に削がれていた。
「え、いや……今俺らはそこの女の子と……」
「はい、どのようなご用件でしょうか! この者はドリンク担当ですので私が承ります! 何でもおっしゃってくださいっ!」
「え、ぇぇ……?」
とてつもない圧力で押し切るように堂々と宣言する心一郞君に、周囲のお客からもにわかに注目が集まる。
そんな雰囲気の中では流石にもう何も言えなくなったようで、二人組は困惑の表情のまま「お、おい、もう行こうぜ……」「あ、ああ……」と言葉を交わすと、ドリンクとフードが乗ったトレイを手に客席へと去っていった。
「あ、あの……ありがとうございます心一郞君」
「いやいや、こういうのは男性店員の役目だからな。というか、もうちょっとスマートにお引き取り願いたかったんだが、気が焦りすぎて手法がちょっと強引になっちゃったな……」
私としては最大限にスマートな解決をしたと思うのだけど、心一郞君は周囲のお客さん達の注目を集めてしまったのが不満なようだった。
普通だったらお客に注意するのは大人だって勇気が要る事だろうに、まるでそういうトラブルのプロであるかのようにあっさり介入できる心一郞君は、本当にハートが強いのだと改めて思い知る。
「と、すまん! 自分の仕事を放ってきちゃったからまたな!」
言って、心一郞君は足早にその場を立ち去った。
このアルバイトを始めてから、心一郞君は私の指導係だということもあり、こうやっていろいろとサポートやフォローをしてくれている。
いくら新人だからといって、バイト先の友達に甘えてばかりな自分の未熟を恥じるばかりだけど……同時にこうやって彼が助けてくれるたびに妙にふわふわと甘い気持ちになる自分もいる。
「……本当に、ありがとうございます。心一郞君」
意図せず、私の胸中からこぼれるように呟きが口から囁かれた。
それはカウンター内のスタッフ全員に聞こえてしまったようで、周囲のスタッフから微笑ましそうな視線を向けられてしまい……何故か私は妙に気恥ずかしい気分になってしまった。




