114.社長の娘をこき使う店長がいるらしい
残暑も和らいで秋の気配が色濃くなってきたその日に、俺は街中を歩いていた。
通勤者ラッシュのない土曜日の朝は人影も少なく爽やかな雰囲気が満ちており、なかなかに気持ちいい。
(しかし先週はまいったなあ。まさか春華達にバイトがバレるとは……風見原と筆橋にはあの後学校でも散々イジられたし)
もちろん二人とも俺と春華の名前呼びの事は、周囲には黙ってくれている。
だがその分、『どういうきっかけで名前呼びになったの!? ねえねえねえ!』とそこに至る経緯を根掘り葉掘り聞いてきたり、『春華♪』『心一郞君♪』などとバカップル風小芝居で俺をからかってきたりもしたのだ。
(でもまあ、春華達に店で会ったのも一週間前の話か。バイトの動機を聞かれた時は単に自由になるお金が欲しかったからって言っといたけど……まあそれは嘘じゃない)
本当は単なる小遣い稼ぎではないが、その差異は特に重要な事じゃない。
それよりも、今は七日ぶりのバイトに意識を向けなければならない。
本当はもう少し勤務する予定だったのだが、なんでも急な増員に伴う研修の実施が入ったからとシフトの変更をお願いされ、随分と久しぶりの出勤となってしまったのだ。
(しかし過労死なんて死に方をした割に、トラウマもなくよく働けるもんだな俺。自分でも思っていたより神経が太いって言うか……いや、むしろ一回死んで吹っ切れたのか?)
考え事をしながら歩いていると、自分のバイト先であるブックカフェ楽日にはすぐ到着した。もうすっかり見慣れた店舗のドアを開けて中に入り――
「なぁ……っ!? な、なんだこれ!?」
店に足を踏み入れた俺は、予想だにしなかった光景に素っ頓狂な声を上げてしまった。
まず視界に飛びこんできたのは大勢の客だ。
カウンターに向かって長蛇の列を作っており、普段は全然使っていない行列整理用のベルトパーテーションまで設置する状況になっている。
客席の方に視線を向けても、やはり満員に近い。
今までは土日であろうとせいぜい“そこそこ”くらいしか埋まっていなかったが、今や完全に“ぎっちり”である。
こ、これは一体……? 特にインパクトのあるキャンペーンなんて予定していなかったはずだけど……。
「あら、新浜君おはよう! 出勤ご苦労様!」
声に反応して振り返ると、スーツ姿の美人メガネ店長である三島さんがニコニコ顔で立っていた。
その表情は、先日までのどんよりしたものとは一線を画しており、極めて上機嫌である。
「あ、はい……おはようございます。えと、一体何が起こったんですかこれ? 普段からは考えられない客入りですけど……」
「ふふふ……驚くのも無理はないわ。この盛況ぶりはね、他ならぬ彼女のおかげなのよ!」
ビシッと三島さんが指さした方向には、大勢のお客を捌いている忙しそうなレジカウンターがある。
そしてそこに、俺はとても見慣れた人物を見つけて目を瞬かせた。
(な、なああああっ!? は、春華!? ど、どうして……!?)
カウンターの中でカフェ店員の制服に身を包んでいるのは、紛れもなく俺の想い人である紫条院春華だった。
元々清楚な雰囲気がある彼女にはエプロンがよく似合っており、その極めて愛らしい容姿はそこにいるだけで店内の雰囲気を華やかにする程の力があった。
「いらっしゃいませー! 本日は店内でお過ごしですか?」
朗らかな声で接客する春華は注文の受け付けとドリンクやフードの受け渡しのみを行っており、レジ業務やその他細々した事は三人のスタッフが担当しているようだった。
それでもお客が大量すぎて業務量は多い。だが春華はまだ慣れていない手つきで一生懸命に自分の仕事を果たしていた。
余裕なんて全然なさそうだけど……長らく春華を見ていた俺には今彼女が密かなやり応えを感じているのがわかった。
「いや、正直私もびっくりなのよ。とんでもない美少女を採用できたからある程度集客効果を期待したのは事実だけど、採用して一週間くらいしか経ってないのに、まさか口コミでここまでお客が増えちゃうなんてね」
なるほど……あそこまでの美少女が接客していたら、噂にもなる。この時代にスマホはないが、口コミやネット掲示板、ブログなどで情報が出回ったのだろう。
とはいえ、ただ美少女なだけじゃいくらなんでもこんな行列はできないだろうが……。
(まあ、あの笑顔にやられたらな……)
「こちらカフェモカのホット二つとエスプレッソの一つです! どうぞゆっくりしていってくださいね!」
今まさに、列先頭の男子中学生グループに向けて、妖精と見まごう美貌を持つ少女はドリンクを提供しながら向日葵のような笑みを浮かべていた。
その笑顔に一切の義務感はない。
子どもみたいに無垢で、輝く太陽のように誰に対しても気持ちの熱量は最大限で、どこまでも温かい。
ただ相手をもてなしたいという想いだけがこもった、完全に純粋な笑顔だった。
誰もがそんな彼女に一瞬心を奪われる。
この世にありえないほどに清廉で天真爛漫な少女の心を、その笑みの向こうに垣間見てしまうからだ。
案の定、春華に接客された男子中学生グループはどいつもこいつもほのかに頬を染めてぽーっと言葉を失っていた。春華がレジに入るようになってせいぜい数日程度だろうが、こういう仕組みでファンが増えてしまったのだろう。
「これはかなり凄い事なのよ! 今月の売上げは間違いなくドカンとアップするし、今後の事を考えたらいい流れだわ!」
テンションが上がりまくった三島さんの言葉は、真実その通りなのだろう。
ここまで客が来るのであれば、今後の流れにも少なからず影響がありそうだ。
「ええ、このお客の増大っぷりは一時的なものでしょうけど、それでもこの中の一割でも固定客になってくれたら相当なものですからね。メインだった女性や高齢者以外の若い男性層に働きかけられたのも大きいと思います」
「また君はそういう高校生らしくない分析を……まあでもその通りよ! この苦境にあえいでいるタイミングでこうなるなんて、まさに天の采配って感じね! あの子がウチに面接に来てくれて本当に良かったわ!」
三島さんは、出会ってから今までで一番いい笑顔で弾んだ声を出していた。
任された店の未来を真剣に憂いていたからこそ、降って湧いてきた光明に心が軽くなっているのだろう。
ただ……大丈夫なのかこれ?
「しかし三島さんも大胆ですね……。本社の社長の娘を看板娘みたいに前面に押し出すなんて」
まず間違いなくバイトは春華が自分から望んだ事なのだろうし、春華が他の店員と変わらない通常業務を遂行する副産物として客入りがアップするのであれば、それは素直に喜んでいいと思う。
ただ春華の身分を考えると、大勢のお客に人気になってしまうような采配は、普通の社員としては二の足を踏んでしまいそうなもんだが。
「は? 社長の……娘?」
「んん? いえ、ですから彼女は三島さん達の会社の社長の娘さんでしょう?」
「………………」
そこで、さっきまで上機嫌だった三島さんは全身にブワッと冷や汗をかいた。
まるで重大の仕事に関する致命的なミスを見つけてしまった時の俺みたいな顔で、微かに身体を震わせる。
「そ、そう言えば……貰った履歴書に書いてあった名前……一瞬しか見ていなかったけど、いや、そんな、まさか……」
「あの……念のため言っておきますけど、彼女の名前は紫条院春華で千秋楽書店の社長である紫条院時宗さんの一人娘ですよ? つまり、紫条院一族の直系のガチ令嬢ですけど」
「ウソぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!?」
周囲のお客がギョッと振り返るレベルで、三島さんはこの世の終わりのような悲痛な叫びを上げた。
ちょ、ええ!? そこんとこ気づいてなかったんかい!?
「な、何で君にそんな事がわかるのよ!? ウソでしょ!? ジョークだと言ってよお願いだから!」
「いや、彼女は同じ学校のクラスメイトだからよく知ってるんですよ。というか……まさか全然知らないで採用したんですか!?」
てっきり、バイトを志した春華が父親である時宗さんに頼んでバイト先を紹介してもらったのかと思ったが、普通に一般公募の面接だった上に三島さんは彼女が自分の会社の一番偉い人の娘だと知らなかったらしい。
「い、いやだって! あんまりにも綺麗すぎる子だったから思考力が吹っ飛んじゃって、面接も五秒で採用を伝えちゃったし、履歴書なんて一瞬視界に入ったレベルで後は事務をやっているパートのおばちゃんに預けたし……! そもそもそんな超絶セレブな子がまさかバイトの面接に来るなんて思わないじゃない……!」
いやまあ、彼女は超絶セレブらしからぬド真面目な子なんで……。
「え、えっ? じゃ、じゃあ私ったらバイトを始めて間もない社長の娘さんに客寄せパンダみたいな役割をさせちゃった訳!? ひ、ひいいいいいい! な、なんて恐れ多い事を……!」
状況を理解した三島さんが、ガタガタと震え出す。
俺は春華の家の人達が善良すぎて感覚が麻痺してしまっているが、紫条院家の令嬢ともなれば一般人はこういう反応になるのは無理もない。
大会社の社長令嬢ってだけでも凄いのに、ガチで財閥一族のお姫様だからな春華……誇張抜きで現代日本の貴族と言っても過言じゃない特権階級なのだ。
「も、もしかしてあの子がバイト中にケガしたりナンパされて怖い思いをしたって親に報告したら、私ってクビ……!? い、いや、社長とは話した事なんてないけど、そんなに大人げない事しないわよね……?」
「……実は俺って彼女とはそれなりに仲が良くて、その縁で父親である時宗社長ともそれなりに面識があるんですけど」
かなり真剣に不安がっている三島さんに向かって言うと、大量の冷や汗をかいている店長代理は縋るようにこっちを見た。
「とにかく超過保護で娘ラブが凄まじいパパでしたね。娘をちょっとでも傷つける奴がいたらブチ切れたライオンみたいになって、相手が大統領だろうがゴジラだろうがこの世からなんとしても抹消するくらいの勢いです」
「ぎゃああああああああ!? やっぱり噂通りだったああぁぁ!? と、飛ばされる……! グループ会社に出向みたいな名目でシベリアとかサハラ砂漠に飛ばされちゃう! あ、痛っ! い、胃がいだい! ポンポンがいだいのおおおおおおぉぉぉ!」
時宗さんの娘へのクソ重いラブ度を正直に語ると、三島さんは泣き叫びながらお腹を押さえて苦悶し、脳内が悲嘆とパニックの大運動会なご様子だった。
(不当な扱いさえしなければ時宗さんはそんな理不尽な事はしないだろうけど……まあ、普通は自分とこの社長なんて天上の人すぎて性格なんて知らないし、過剰にビビるのも無理はないか……)
とはいえ、娘が辛い目にあったらなんとしても原因を排除しようとするのは否定できないが……。
「……はっ! ねえ、新浜君! さっき彼女と学校で仲が良くておまけに父親である社長とも面識があるとか言ってたわよね! つまりそれって君があの娘の彼氏ってことなのよねっ!?」
「えっ!? い、いや、それは……」
「お願いよぉ! 君からあの子にとりなしてぇ! 私は本当にあの子を広告塔として便利に使ってしまおうなんて考えてなかったの! ただ可愛い子に接客をさせたらちょっとはお客増えるかなってくらいの気持ちだったのぉぉぉぉぉ!」
「ちょ、わかったからシャツを引っ張らないでくださいよ! というか心配しているような事は起きませんから、そろそろ落ち着いてくださいってばっ!」
若き美人店長は切羽詰まった表情で俺に泣いて縋り、俺はかなり外聞が良くない状態に慌て――自分の将来を悲観して恐慌状態に陥った三島さんを落ち着かせるのに、俺は仕事前からかなりの労力を使ってしまったのだった。




