刺し入れの医
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お、つぶらやくんじゃないか。また調べ物をしているのかい?
――ほほう、吸血鬼についてのあらましね。今回はなかなかメジャーなところを調べてるじゃんか。
血を吸う怪物の存在は、国内外を問わずに広く伝えられている。
身近だけど、限られた機会にしか目にすることができない液体、血。身体の中から出てくるこの紅のしずくは、多くのまじないにおいて大事な役割を果たしてきた。
近年では研究も進み、血から身体の深い部分の調子を読み取ることもできるようになってきた。けれどその過程では、いくつかの奇妙なできごとも絡んできたらしいんだ。
僕も最近、血をめぐって仕入れた不思議な話があってね。君も、興味があったら耳に入れてみないかい?
注射器が日本に伝わったのは、江戸時代末期のことといわれている。
皮下まで達する針が採用されて、まだ十余年程度。当時最先端の医療器具のひとつといって過言ではないだろう。
外国よりの専門書も付けられていたらしいけど、医師たちの中では、早くもその独自の使い方について、工夫を凝らし始めるものもいた。
とある町医者もそのひとり。
彼は注射器が日本へ入ってきたことを知るや、大枚をはたいて購入。その機能について独自に研究をしていたらしい。
この頃、町医者の住む近辺では、ひとつの奇病のウワサが広まっていた。
夜間、眠っているときに首筋や手足の一部に、チクンと鋭い痛みが走る。それはほんの一瞬のことで、ぱっと目を覚ました者にはそこで終わり。だがあえて無視した者は、刺されたところから、ぐううっと自分の中身を吸われるような、脱力感を覚えたというんだ。
起きてみると、刺された部分には蚊やアブ、ブヨに食われたような腫れができているのだけど、ここからがいけない。
時間を追うごとに、腫れのできた皮膚のまわりから、手ごたえがなくなっていくんだ。初めは晴れの上から指で押すと、水音を立てながら指が肉を押し、ずぶずぶ沈む。その範囲はじょじょに広がっていき、やがて自重を支えられなくなった部分から、崩れ落ちてしまうんだ。
腕をやられれば、言うことをきかないまま垂れ下がってしまううえ、次は肩さえ外れていく。足が無理ならたちまち立てなくなり、寝たきりになったまま腰から上がタコのように、骨が無くなっていくのを待つよりない。
そして首ならば見るに悲惨で、本人には救いかもしれない。ふとした拍子に、首ががくんと折れてしまい、それっきり。中には胴体とつながっていた部分がちぎれてしまい、いきなりの惨状を見て、悲鳴がこだますることさえあったとか。
遺体は検分されたところ、血より他に目立ったものは見られなかった。ただただ異様な漁の血液、ひいては水分が身体の中を占め、本来あるべき骨や臓器が確認できなかったんだ。
――おそらくは、刺された時にはすでに何かを入れられている。それを調べないといけない。
町医者の彼は、被害が出たと思しき地域を尋ね歩いた。注射器を片手に持ってだ。刺された者の話を聞き、無償で診察を引き受け続けた。
それでも容易に病の正体は分からない。一日、いや半日の時間が空いただけの患者ですら、刺された箇所より血以外の目立った液体を、摂取することはできなかったんだ。
更に速やかに、血を摂る必要がある。
町医者は家で寝る時は、常にふんどし一丁を心掛けた。
ただ暑いからというわけじゃない。これまで被害に遭った患者はいずれも、刺された時にかなりの薄着をしていたと聞いていたからだ。こうして無防備な姿をさらし、汗さえ存分にかいてさえいれば、あるいは……。
そうして何日も過ぎ、やっと町医者はしっぽを掴むことに成功する。
うだるような暑さの立ち込める家の中。あえて、一部のすき間を開けることなく密閉された家の中で、その空気がわずかに揺らいだ。
常に気を張っている医者は、その流れを敏感に感じ取っていた。だが、彼は動かない。まだ目的を達していないからだ。
糸のような細さの冷気が、左眉毛の上あたりに垂れてくる。あたかも眠っているかのように息を整えながら、彼はその瞬間を待ちわびる。仰向けに寝ている、自分のふとももの後ろに隠した注射器の感触を確かめながら。
それは急に来た。これまで肌をなでるようにけん制していたそれが、一気に胸の真ん中へ吸い付いたんだ。
息を漏らしかけたが、医者はまだこらえる。地獄の窯につかって数えたような数拍ののち、ぐうっと上へ引っ張られるとともに、胸の内でじわりとにじみ、広がっていかんとするぬくもりがあった。
ここだ。
医者はぱっと目を開いた。ほんの一瞬だが、暗闇の中でのたうちながら、天井へ吸い込まれていく細長い管の姿を、医者は見る。
考えるのは後。医者はすぐさま注射器を取ると、痛み始めた胸のあたりを手でなぞる。かゆみと盛り上がりが一致する場所を探り当てると、一気にその針を突き立てた。
技も処置も何もない。皮を破り、肉を潜り、骨を貫かんばかりの穿刺を、医者は自らの胸へ施した。喉へ一気にこみ上げる自分の血に、息さえ詰まる。
だが、効果はあった。その身がすべて隠れきるほど、深々と刺された注射針。それを通して筒の中へ注がれるのは、わずかな血の赤みのみを残す、黄色じみた液体だったとか。それはまるまる筒一本を満たすほどの量になったとか。
翌朝。医者は自らの胸の具合を確かめながら、手にすることのできた液体を慎重に調べてみた。
医者の住む部屋に出るネズミに、ほんのわずか刺したところ、たちまち人と同じように身体の内側が溶けていく症状が見られたんだ。人のように食べてから溶かすのではなく、体外へ消火液を出し、獲物の身体を内から溶かしていただく生き物……。
さっと医者は部屋の障子を開け、自らの家の軒先を見る。そこには風に揺られながらも、巣の真ん中で手足を広げる、一匹の蜘蛛の姿があったんだ。
町医者は再び、村々をめぐって人々に奇病の対策方法を告げた。
できる限り、柑橘類を食すること。その皮も捨てることなく、屋内のところどころに吊るして、常にその香りを絶やさないことを。
理由を問うてくる人々に対し、町医者ははっきりと、このたびの仕業はクモのものだと告げた。図抜けた体躯と、図抜けたズボラを併せ持つ、大きな赤ん坊のような相手だと。
「殺す必要はない。教えてやればいい。ここは自分が近づいてはいけない場所なのだと。
あれだけの力を持つものだ。もっと他の奴らを駆逐するのにあてればいい。そう、それこそ物の怪とかな」
かかか、と町医者は笑って話した。
それから例の奇病はすっかり姿を見せなくなったが、町医者自身は10年と経たないうちに世を去ってしまった。
死に際の彼の身体は、これまでの犠牲者たちと同じ。とてつもなく軽く、やはり体の骨や肉がほとんど残らぬ、血の袋状態だったとか。
あのとき、すっかり抜いたはずの液が、まだ身体に残っていたのかもしれない。