やっぱり、セックスだった。
「であるからして、産業革命以降、インダストリアルエンジニアリングの考え方が普及していったのです」
などと長ったらしく語っているのは、この講義を担当する教授だ。
この春から晴れて大学生となり、青春を謳歌するはずだった、なんてそんな淡い期待は入学してすぐ打ち砕かれた。
うちの大学は理系で、女子生徒の数は男子生徒よりも遥かに少ない。それも言い訳の一つに過ぎず、中学高校と灰色の6年間を過ごしてきた自分が、いざ大学生になったところで何かが変わる訳でもなかった。
そう、何も変わらない。講義終了のチャイムが鳴ったので、売店で手作りの大ぶりなおにぎりを二つ買い、俺は中庭のベンチに座る。
昼食のメニューくらい変わっても良いと思うのだが、人混みが苦手なので学食にも寄り付けず、仕方なく売店の少ない品物の中を行ったり来たりしていた。
「おつかれ」
そう言って、そのベンチの前に姿を現したのは同期の加藤だった。
加藤の手には、恐らく加藤の親御さんが作った弁当が握られていた。
「おつかれ」
と返す。
広くて安く食べられる学食があるので、中庭で昼飯を食おう等と考える奴自体少なく、このベンチは俺と加藤のほぼ専用ベンチと化していた。
黙々と食べ進める。俺は大きめと言ってもおにぎり二つしかないので、すぐ食べ終える。加藤はゆっくり食う奴だった。
「加藤って口数少ないよなぁ」
と言うと、
「うん」
と短く帰ってくる。
基本的には、加藤はこのような相槌しか打たない。だが俺は、元々おしゃべりが好きな訳ではなかったので、加藤といるときの沈黙は苦ではなかった。
加藤が食べ終えるまでぽかんとしていると、平和に、しかし残酷に時間が流れているように感じる。
今俺が受けている講義になんの意味があるのだろう、と考えてしまう。大人は言う。大学を出てから就職するのが一番だ、と。
そもそも社会という存在が何なのかまだ分からない俺にとっては、今すぐ就職して働いて賃金を貰ったほうが、遥かにマシだ、とさえ思っていた。
「加藤はさぁ、大学卒業してからやりたい仕事とか、あんの?」
「一応。SEになろうと思ってるよ」
「へぇ~。すごいじゃん、目標あるんだな」
加藤の言葉に、驚く自分がいた。なぜなら、俺が知っている大学生といえば一部を除いて、遊ぶことしか考えてない馬鹿しかいないように思っていたからだ。
そんな奴らが集まる大学なんて、幼稚園以下だ、と常々思っていた。
加藤は違うんだな。でも俺はもしかしたら、幼稚園児かもしれない、と感じて嫌気がさした。
大学とは、目標を持つ人間が勉強をする場所で、俺には何も目標がないから、もうここにいる意味は無いと感じた。
「俺、中退するわ」
と突拍子もなく呟いていた。
加藤は、
「え、なんで?」
と似合わず慌てた。
「なんとなく」
内に秘めた長ったるい葛藤は口に出さず、それっきり加藤は何も口に出さなかったが、残念そうなのは見れば分かった。
***
「何言ってるんだ!そこに正座しろ!」
オヤジは怒鳴った。
「だから大学を辞めたいんだって」
オヤジの剣幕に押されて正座しながら言った。
母親も心配そうに俺を覗き込んで、
「大学はきちんと卒業しといた方がいいわよ。入学金だって、払ったばっかりなんだし」
と言う。
オヤジは、
「大学を辞めて何がしたいんだ」
と聞く。
「特に何もないけど」
「じゃあ大学を卒業してからでいいんじゃないのか?」
「でも……」
こういう時、俺はいつも上手く言葉が出なかった。だけどそれ以上に、俺の考えや、思っている事が両親に理解されるとはとても思えなかった。
「辞めたら絶対に後で後悔するぞ、それでもいいんだな」
「それでもいいよ」
もう投げやりだった。
母も少し不機嫌で、
「うちは学校に行ってもなくて働いてもいない人を置いておけるような家ではありませんからね」
と言い放った。
俺は怒りを込めてああ、とつぶやいて家を出た。
どいつもこいつも、めんどくせえなぁ。素直に俺のやりたいようにやらせてくれればいいのに。
少し涙が出た。いつも金がどうとか理屈がどうとか常識的に考えてとか、そんなんでお前ら本当に人生楽しいのかよ。
怒りで近くの電柱を思いっきり殴った。一発殴ったら痛みで余計に腹が立ったので二発三発と殴った。拳の痛みが限界に達して、ようやくため息をつく。
「何やってるんだろうなぁ……」
特に行く当ても無く、繁華街へ向かった。
思い立った様に近くのコンビニで、タバコとライターを買って、駅前の喫煙エリアへと向かった。
火をつけようとするが、吸いながら火に当てないと火がつかないと気づくまでに5分ほどかかって、それと同時に思いっきりむせて苦しくなる。
その時、甲高い笑い声が聞こえて、
「あはは、あんたさっきから見てたけど、未成年でしょ」
「いや……その……」
女性慣れしていないのと恥ずかしさで顔が赤くなる。
「その手はどうしたのよ、血が出てる」
とっさに手を隠したが遅く、
「親と喧嘩して……」
と正直に白状した。
「親を殴ってないでしょうね?」
「電柱です、電柱」
「今時電柱殴る奴がいるとはね……」
と呆れられる。
黒いスーツに身を包んだ、綺麗な女性だった。
「まあ気持ちは分かるよ。あたしもあんたくらいの年頃の時、そうだったもん」
その言葉で、なんだか世界でただ一人の理解者に出会えたような気持になって、
「大学は卒業したんですか?」
と聞いてしまう。
「卒業したわよ」
と即答され、
「えーー!」
と大仰に驚くと、少し憤ったような表情で、
「あんたあたしが頭悪そうに見えるわけ?」
と返される。
「いやいや、そうじゃなくて……」
かくかくしかじか、と今までの事情や考えを話すと彼女は、
「やっぱり子供ねぇ……」
と感慨深そうに呟いた。
「俺がガキってことですか?」
「いいや、悪い意味じゃないのよ。誰だって皆子供だったんだから」
「でもね、あなたの年頃じゃあ分からないことがまだたくさんあって、それらが分かるのはちゃんと働いて10年以上はかかるんじゃないかしらね」
俺は目を輝かせて、
「やっぱり働けばいいんですよね!」
「高卒は給料安いぞ~」
「そうなんですか……でも働かないよりはマシじゃないですか」
「まあせいぜい頑張ることね。親元を離れて見える世界も、少しはあるんじゃないかしら。じゃあ私はそろそろ仕事に戻らなきゃ」
そういってどこかへ向かおうとする彼女に、
「連絡先教えてください!」
ぷっと吹き出して、手慣れた様子でスマホの画面を提示してくる。
「いいわよ」
「ありがとうございます!」
こうして、通りすがりのお姉さんの胸を借り、俺のモヤモヤはどこかへ消えていった……
お姉さんと別れた後、俺は密かに憧れていた場所へと向かっていた。
そう、よくあるコーヒー屋の喫煙席である。
なぜ俺がここに憧れているのかというと、本来未成年は入れない場所への好奇心でしかなかった。
同じ様な場所だが、古本屋のアダルトコーナーとは別のジャンルの好奇心だった。
「アイスコーヒーMサイズ一つ」
「店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「270円になります」
透き通った声の、同じ年頃に見えるバイトの女の子との会話。
この女の子も、バイトとはいえ働いているんだなぁ、なんて感心していると、ふいに、
「ストローお通ししてもよろしいですか?」
と問われる。
「あ、はい」
なすがままに答えると、女の子は洗練された動作で直接ストローに触れずに封を開け、使い捨てカップのコーヒーにするすると差し込んだ。
俺にはそれがなんだか艶めかしく見えてしまって、生唾を飲み込んだ。
「どうぞ」
とストローの刺さったコーヒーを差し出され、俺は恥ずかしさとばつの悪さを隠すように喫煙席へと向かった。
自動ドアに隔てられ、店内の一角が隔離されているように見えた。
その扉の中へ一歩踏み出すと、鼻を衝くタバコの臭いに圧倒される。
一人ノートパソコンへ向かってキーボードを叩く者。暇そうにスマホをいじる者。そこにいるのは皆年齢的には大人なのだろう。
席に着き、とりあえず俺もタバコに火をつけようとするが、隣の席の男の人は灰皿を目の前に置いており、俺は席を立った。
灰皿がどこにあるのか分からずしばし右往左往した後、入口のすぐ横にそれは鎮座しており、冷や汗をぬぐってもう一度席に着いた。
大人と子供の違いって何なんだろうなぁ……先ほどより少し手慣れた様子でタバコに火をつけ、むせないようにゆっくりと煙を吸い込んで考える。
皆が学校に行くから学校に行って、皆が就職するから就職して、皆が結婚するから、皆が、皆がって。
俺はそんな風に周囲に流されて生きるのは嫌だ。自分がしたいことを、選んで生きたい。
でもなんとなく自覚していた。その考えが、子供なんだろうなって。
喫煙所の窓から見える、通行人たちを眺めれば、大体の人がスーツを着ていた。
あいつらは、周囲に流されているのか、それとも、自分の意思で歩いているのか。
それは分からないが、俺は俺の意思であんな風に歩きたいと思った。
もうフィルターぎりぎりまで燃焼していたタバコを揉み消して、席を立つ。
これから家に帰るのも気が引けるので、悪友の優輝の家にしばらく泊まることにしよう。
***
「光ちゃーん、マジで大学中退すんの?」
「マジだよ」
「これからどうすんのよ」
「優輝んちに居候させてもらって、就職先探すよ」
優輝は呆れて溜息をついて、
「俺んちに泊まってくのはいいけどさ、将来はちゃんと考えたほうがいいべ」
と言う。
「俺は今自分の意志で生きてる。それだけで十分じゃないか」
「まあ難しいことは分かんねえから、面白いもん見せてやる」
優輝はおもむろにキッチンのガスコンロの前に立って、
「こうやってな」
タバコを咥えながらガスコンロの火をおこし、そこから着火してうまそうに吸った。
「そんなタバコの吸い方があったのか」
俺は驚く。
優輝は得意げにタバコをふかし、
「世の喫煙者たちが皆一度は通る道だ」
と言ったので、俺も真似して吸ってみる。ライターで吸うより一口目がきつく感じた。
「ははは」
どちらからともなく自然と笑いがこみ上げた。
「まあ、光ちゃんの事はいつでも応援してるぜ」
「ありがとうな」
「酒はねえけど、タバコで乾杯~、なんつってな」
「アホか」
優輝の実家は他県にあって、同じ大学の近くに下宿していたので、実家から身を隠すのにはちょうど良かった。
だがそれ以上に、馬鹿で明るいその性格が今の俺にはありがたかった。
「なぁ優輝」
俺はおもむろに聞く。
「大人と子供の違いって何だと思う?」
優輝はにやけた顔を引き締めてしばらくした後、
「セックスをしたことがあるかないかの違いだな」
「お前に聞いた俺が馬鹿だったよ」
「ははは」
男二人の夜は、和やかに過ぎていった……
{住み込み 仕事}
あくる朝、俺はスマホで検索していた。
検索結果にずらりと並ぶ仕事の数々。
寮管理人、電化製品工場の期間従業員、自動車工場の期間従業員、等々。
寮の管理人はちょっと厳しいので、その他がいいかな。
調べ進めていくうちに、期間工、というワードが多々登場する。
三ヶ月毎に契約更新、か。やりたいことが見つかるまでのつなぎにはいいかもしれない。
面接も各地でやってるのか。うちの近所だと船橋だな。次の面接は、明日!
急いでブラウザ上で応募して、優輝をたたき起こす。
「優輝、俺明日面接に行ってくるよ」
「ん~、おはよう。早いな、もう朝か」
「明日面接だよ、大学は?」
「パチンコ行ってから行くわ」
「やる気ねえのな……」
「もうちょい寝とくわ」
俺は呆れたが、睡魔に勝てず優輝にならった。
***
「今日はここまでで216台やったね」
休憩時間の喫煙所で、先輩の秋山さんは言った。
「そうですね」
「もう慣れたかい?」
「ぼちぼちです。先輩の教え方も上手いですし、お蔭様です」
「光くんは口がうまいね。覚えるのも早いし」
俺は期間工として無事就職し、今話している秋山先輩と二人一組で作業する工程に配属されていた。
先輩は俺より5つくらい年上で、細身で高身長のイケメンだった。
「麻雀って運と実力、どっちが大切だと思う?」
俺も先輩も麻雀はよくやるので、こんな会話が多い。
俺は答える。
「運ですね」
「そうか~。俺は実力派なんだよね」
「まあ実際に、先輩の方が俺より何倍も強いですから。俺なんて点数計算もできないですし」
先輩は照れたように、
「麻雀なんてやってれば大体パターン化されていくもんだよ。それに経験が多ければ勝つというものでもない」
「深いですね」
「深いねぇ」
としみじみ会話して、作業に戻った。
俺の作業内容はとてもシンプルで、前方中央に治具という溶接パーツをセットする型枠があり、そこに左右から二人で交互にパーツをセットしていくことだった。
覚えれば単純だが、パーツを取りに行ってセットするという動作を一日に400~500回程度繰り返すので、慣れないうちはとてもきつかった。
今では慣れてしまって、これほど単調な作業はないと思う。しかし不満もあって、俺はこの会社の上層部から見ればいつでも替えの利く工場の部品の一つに過ぎないんじゃないか、なんて考えていた。
日々、擦り切れていく、そんな感覚があった。両親とも大学中退以来連絡を取ってないし、彼女もいない。結局俺は、あの頃と何か変ったのだろうか。
変わったといえば、月に20万円ほどの、俺にとっては大金の給料を得てはいるが。
人は、何のために日々働いているのだろう。あれだけ働くんだと息巻いていたのに、いざ働いてみればそれはとてつもなくつまらないものに感じた。
帰宅して、疲れ切ってベッドに倒れこんで携帯を見ると、あのときの喫煙所の女性……リカからメッセージが届いていた。
{久しぶり、元気?}
{はい、ぼちぼちです}
{ちょっと彼氏と喧嘩しちゃってさー}
{それは大変ですね}
{通話しない?}
{いいですよ}
数秒後に通話アプリの着信音が鳴り響く。
「もしもし」
「もしもし」
「ひさしぶりね」
「おひさしぶりです」
「仕事は順調?」
「ええ……一応は」
といった当たり障りのない会話を10分ほど続けた後、
「彼氏に浮気されたの」
とリカは突拍子も無く切り出した。
言葉に詰まって、
「それはつらいですね」
「だから私もやり返そうと思って」
「それはまずいですよ!体は大切にしないと」
あたふたする俺に彼女は追撃をかける。
「今から大山駅まで来て。」
それはつまり……
「分かりました。とりあえず向かいます」
「着いたら連絡してね」
と言い残して、電話は途切れた。
これは何かのいたずらなのではないだろうか、それとも美人局の類か……なんて考えつつ、俺はシャワーを浴びて大山駅へ向かった。
***
帰りの電車の中で、リカの、女性の体の柔らかさを思い返していた。まだ胸は高鳴っていて、顔もすこし紅潮していると思う。
人生で初めての経験が突然訪れ、動揺していた。生きていれば良いことがあるんだな、と心から思った。
彼女の甘い囁き声が蘇ってくる。
世の大人たちはみんなこんなことをしているのよ、下らない悩み事なんて、感じている暇はないの……でも、これきりにしておくのが、私たちの為ね……
その言葉通り、今まで感じていた不満や悩みはもう取るに足らないくらいちっぽけなものになっていた。少なくとも今は。
でも、よくよく考えればリカさんも酷な事するよな。
「童貞には刺激が強すぎるぜ」
一人呟いて、始発の電車を降りた。
俺はまだほとぼりが冷めず、自販機でコーヒーを買って公園のベンチに座っていた。
ぼーっとした、いわゆる賢者モードのような状態で、ぼんやりとタバコをふかす。
しばらくすると感傷的になってきて、少しの間連絡を取っていない両親や、加藤や、優輝の事を考えていた。
あいつら今どうしてるかなぁ……特に、両親の事を思うと心が痛んだ。
自分で汗水流して給料を得ることを知って、生活以外に子供の学費を捻出するのがどれほど大変な事か、想像するに堪えない。
加藤は俺がいなくなって、寂しがってるんじゃないかな、優輝は変わらないけど……
でも、これでいいんじゃないかとも思った。
必死に生きて、色々な事を経験して、後悔したり、喜んだりして、成長していく。
人生っていうのはその繰り返しで、だからこれでいいんだ。
まずはこれから、両親に頭を下げて、こんな根無し草のような生活もやめて、きちんとした職に就こう。
ありがとう、みんな。
空になった缶に吸い殻を詰め込み、ゴミ箱へ捨てて、俺は歩き出した。