九. 告白(1)
つい数時間前まで、学校にいたのが嘘みたいだった。
十一月が終わりに近づいた木曜の午後八時。僕は札幌の空港にいた。
明日の夜、全日本ジュニアが開幕する。去年は開会式と抽選だけが行われた初日のスケジュールに、今年はアイスダンスのリズムダンスが加わることになっていた。そのため僕と陽向さんは金曜の授業を休んで、みんなより一日早く北海道に着いた。
陽向さんのおばさんに付き添われ、キャリーバッグを引きながら夜の空港を歩く。僕の後ろを微妙な距離を置いて陽向さんがついてくる。
「もう今日は遅いから、ここでお食事をすませてからホテルに行きましょうか」
こういう時、いつもなら陽向さんがはりきって先頭を歩いて、おばさんはひっそりとあとをついてくるだけなのに、今日は陽向さんの代わりにおばさんが僕の少し前を歩き、笑顔で話しかけてくれていた。
「あ、はい」
「せっかく北海道に来たからには海鮮丼でもいただきたいところだけれど、生ものは試合前にはやめておいた方がいいわよね。今日はラーメンにしておきましょうか。それとも他に何か食べたい?」
陽向さんからは何も返事が聞こえない。振り返ってみると、考え事でもしているのか浮かない顔でキャリーバッグを引いている。
何を考えているんだろうか。
陽向さんの気持ちが分からないということが、僕をすごく不安にさせた。
僕の視線に気づいた陽向さんが、こちらを見た。
「どうかした?」
「あ、えっと。ご飯、何がいいかなって」
「ああ。ご飯……。そうね、せっかく北海道に来たんだから海鮮丼でも食べたいところだけれど、試合前だから生ものだけはやめておきましょ」
それ、さっきおばさんが言ってたのと同じセリフだよ。
「そ、そうですよね。じゃ、ラーメンで」
陽向さんは結局、試合にはどういう気持ちで向かうつもりなんだろう。
二人で取り組む試合だというのに、パートナーである陽向さんの気持ちを、僕は確かめられずにいた。本番は翌日だというのに、僕は心の持ち方すら決まらずにいた。
不安を払いのけようと、これまで教わってきた心構えを思い出す。試合では自分のやってきたことを信じて、ベストを尽くそうと。
陽向さんがどういうつもりでも、彼女は彼女だ。僕は僕にできることをやるしかない。
「明日の朝は、会場に行ってみる? 午前中は一般営業をしているそうだから」
先生から僕たちのことを色々と任されているのだろう。陽向さんのおばさんは、作り笑顔と弾まない会話を交わす僕と陽向さんの間で、必要なことをにこやかに話してくれた。
「七時にレストランに下りてきてもらってもいいかしら? 食事がすんだら、すぐに向かいましょう」
「分かりました。じゃあ七時に」
ホテルに着いて部屋に入ると、僕は靴の様子を見て、キャリーバッグの中身を全部出した。そこにあらためて、靴と衣装を入れる。それから提出するCDも。あとは、念のためテーピングと、髪をセットするためのワックスと、ジャージと、ウインドブレーカーと、待ち時間用のイヤホンと。
ついに明日だ。
ついに明日。
本番までの流れを思い浮かべながら、僕は準備を一つ一つ進めた。
試合会場の氷は、固い氷だった。日頃使っているリンクに比べたら、エッジがほとんど食い込まない。北の方の氷は固いという噂があったけど、ほんとなんだな。
軽くリンクを回って、体を温める。ついでに氷の下にペンキで描かれている模様と周囲の景色との関係を見比べてまわる。せこいかもしれないけど、こういうのもきっちり滑るための目印として利用できる。特に不調な今は、自分たちの感覚だけに頼っては危険だ。アイスダンスは相手との位置関係も大事なら、リンクとの位置関係も重要。どの景色の時にどのステップが来るのが適切か、リードするのに必要な下見を入念にする。
陽向さんも陽向さんで、何かを考えながら、リンクを回っていた。
僕も引き続き、気になることを確認していった。氷が固くてつかみにくい。きちんとしたトレースが書けていなくて、ターンが上滑りしている気がする。どのくらいの押さえ具合でいくか、何度か試して考えなくては。それからツイズルの流れ具合も確認しておこう。
完璧なパーツと完璧なパーツを合わせれば、出来上がるものもきっとしっかりしたものになる。大事なのは、自分のできることをしっかりやることだ。
そう思うことで、僕は試合前の心を落ち着かせようとしていた。
夕方。公式練習に備えて身支度を整えたところに、先生たちが到着した。
開会式とシングルの抽選が、僕たちの公式練習のあと午後七時から開かれる。上本と平野はそれまで親と自由行動をして、夕食を取って戻ってくることになった。
「頑張れよー」
そう言い残して、はつらつと手を振って出かけていく上本たち。僕は先生と陽向さんとで彼らを見送った。
抽選で二番滑走が決まり、午後五時、公式練習が始まった。
会場はひっそりとしていて、流斗たちの他に、運営の人が数人いただけだった。
陽向さんと手を繋ぎ、整えられた氷へと滑り出す。上品でちょっと大人びたフォックストロットの衣装が、斜め前を滑る陽向さんの背中からうなじにかけてのきれいなラインを引き立てていた。
ハンドインハンドのまま何周かしているうちに、僕たちの曲が流れ始めた。
曲に合わせよう。
隣にいる陽向さんの様子をうかがう。けれど、曲に合わせようとする気配が見られない。
「あのー……」
「なあに?」
陽向さんは前を向いたまま言った。
「僕たちの曲、かかってますけど。合わせなくていいんですか?」
「いいのよ。公式練習で曲をかけてくれるのは、練習のためじゃなくて、音の具合やなんかを確認するためのものだから」
そう言ってそのまま、ストロークを続ける。曲に合わせないのはともかく、ステップも踏まず、ただのストロークをし続けるなんてなんかおかしい。
様子を確認しようと陽向さんの顔を見て、びっくりした。
「ど……どうしたんですか!?」
「……別にどうもしてないわよ。単にどう滑ったらいいかが、分からなくなってしまっただけ。制覇君はこの前、私に私らしく滑れって言ったけど、私が好きなように滑ったら、絶対に勝てやしない。だからって妥協した演技をしたんじゃ、確かに意味がない。どうやったら負けずにこの試合を乗りきれるのかが、思いつかないのよ。だから、困ったなって思ってるだけ!」
だけ、なんて雰囲気ではなかった。陽向さんはこれまで見たことのないような顔をしていた。
陽向さんは、ひたすらストロークを続けた。もちろん、彼女と手を繋いでいる僕も一緒に。
何と言っていいのか、分からなかった。僕のせいなのだから、謝ろうかとも思った。でも、謝った後、どうしたらいい? 前言撤回して、勝つためにもう一度僕に合わせてくださいと言ったらいいんだろうか。この試合、負けられないのであれば、それが一番なんだろうか。
でも、陽向さんも正しい答えが分からないから、悩んでるんじゃないのか。
「どうしたらいいのよ」
陽向さんの悩んでいる声を、僕は何もできないままに聞いた。
僕の中で、陽向さんはまた僕よりも上の人になってしまっていた。僕なんかが彼女の力になれるなんてことはないんだと、そんな気分になっていた。
一緒に答えを探せるような関係に辿り着くためには、僕たちはお互いに何かを乗り越えなくてはならなかった。
結局、リズムダンスの演技はぼろぼろで終わってしまった。まるで暗闇の中で滑っているような感覚だった。リンクを前もって確認しておいた意味なんてまるでなかった。ターン一つですらやりにくくて仕方がなかった。タイミングはずれるし、正しいエッジには乗れないし、あれではパターンダンスもステップシークエンスもろくに点にならなかっただろう。ホールドも寄りすぎたり離れすぎたりを不格好に繰り返してしまった。多分僕たちは、基礎点の段階から低く評価されたに違いない。
演技を終えて、僕はすぐに陽向さんの手を離した。顔を見るのも怖かったから、ジャッジに向かって長いこと頭を下げて、陽向さんがゲートに向かって動き出すのを待ってから後を追った。
これが本番だなんて嘘だろう。
まださっきの公式練習の続きなんじゃないのか、そんなことを考えてみる。会場には人が全然いない。試合というにはあまりにも閑散としていた。
こんなにも静かなのはシングルの選手たちが、出番である翌日に備えてみんな帰ってしまったからだった。開会式と抽選を終えて。
ああ、だめだ。疑いようがない。僕たちの初日は、間違いなく今終わった。
流斗と神宮路さんだけがリンクサイドに立って、こちらに真面目な顔を向けていた。
つまらないものを見せてしまった。先に滑った彼らの演技は見ていないけれど、僕たちの方が素晴らしかったなんてことはないだろう。
沈んだ気分でゲートに向かい、リンクを上がろうとした時だった。
陽向さんがリンクの外に踏み出したはずの足を浮かせて立ち止まり、こちらを振り返った。
「制覇君……ごめんなさい」
やってしまった、という顔をしていた。僕は慌てて彼女の足元に目をやった。
そこには、誰かの落とした小さなビスが転がっていた。彼女はそれを踏んでしまったのだった。
いつもならリンクを上がると同時にはめているエッジケースを、どうしたことか彼女は今日まだ、手に持ったままだった。
得点が読み上げられているのが聞こえる。だけど頭にはまるで入ってこなかった。
まずいことになってしまった、頭の中はそれだけで一杯だった。
ビスを踏むと、エッジの一部が潰れて、思うように滑れなくなってしまう。明日まだ、フリーが残っているのに。
「まず、靴を脱ぎましょう」
先生がすぐに彼女の背中に手を回し、ベンチまで連れて行った。
屈んで、彼女の脱いだ靴を裏返す。何人もの顔が、靴を覗き込んだ。美少女の顔が間近に迫ったことで、神宮路さんまでが流斗と一緒に様子を見に来ていたことに気がついた。陽向さんだけが、座ったまま顔をそむけていた。エッジには、かかとの端に一ヶ所、傷が入っていた。
「大丈夫よ。明日の朝までに研いでくれるところがないか、急いで運営に聞いてくるわ」
先生は陽向さんに優しくそう言うと、小走りでどこかへ向かった。
その場には、沈黙が流れた。
先生はすぐに帰ってきた。近くのスケートショップは、どこもすでに閉まっていた。
これは、諦めろということなんじゃないかという気がふとした。
エッジの調子が良かろうが悪かろうが、僕たちはもうきっと勝てない。今日、一体何点差がついただろう。それに、今日がこの出来だったんだ。明日だって、どうせ上手く滑れやしない。
初日の結果が、翌日へのやる気を奪っていこうとしていた。二日に分けて試合をする競技の恐ろしさに、僕は捕らわれかけていた。
「何かいい方法、ないかな」
流斗の悩む声は、僕よりもずっと前向きだった。その横で、神宮路さんも首を傾げていた。そして、思いついたように僕に言った。
「私がいつもお世話になっている靴屋さんをお呼びしましょうか?」
「知り合いの靴屋さん、この辺にいるの?」
尋ねると、神宮路さんはニコリとした。
「このあたり、と言いますか東京に」
ちょっと待って。東京って……。
ここ北海道なんだけど。
「天宮さんには、以前親切にしていただいたことですし。東京からでも大丈夫ですよ。機材もまとめてヘリコプターで――」
ヘリコプター……?
神宮路さん、何者なの?
「それよりも」
と流斗が神宮路さんの会話を遮った。
「その傷、そんなに深くないし、かなり端だよね。プログラムにあまり差支えがないんなら、ショップに行かなくてもバリさえ取れば充分滑れるんじゃない?」
流斗が白い靴の方を指さす。僕は靴を手に取って、傷をもう一度よく見た。
浅い傷。
端の方に一ヶ所だけ。
僕でも、対処できるかもしれない。
拝むように両手を組んでうつむいている陽向さんに、そっと声をかける。
「僕が研いだら、だめでしょうか」
先生が探るように低い声で聞いてきた。
「研ぐって、手研ぎで? あなたできるの?」
「……バイトで結構やったことあるんで、それなりのことはできるんじゃないかと思います」
慎重に、そう言った。
初日がだめだったからって、それで諦めてどうするんだ。僕たちは一体何を目指してきたんだ。今日と明日の二日、その二日の両方が、僕たちの全日本ジュニアなんだよ。
陽向さんは少しだけ顔を上げて、窺うような顔でこちらを見た。
「どうする? 陽向ちゃん。制覇君にお願いしてみる?」




