十. 忘れられない一日(2)
流斗たちは笑顔で観客席に手を振りながらリンクサイドに上がってきた。
氷から上がると美少女は細い指先でエッジについた氷を払い落としながら、小さくつぶやいた。
「どうしてあの時、いつもとポジションが少し違っていたのかしら」
「あの時って?」
「あの時と言ったらあの時なんですけど、流斗、あなたは気になりませんでしたか?」
美少女は不思議そうに問いかけた。
「気に入らないところははっきり言ってくれないとわからないけど? 超能力者じゃないんだから」
冗談めかした調子ではあったけど、流斗は彼女からの問いに真正面から突っ込んでいった。
「私が気に入らないというのとは違うんです。よい出来ではなかったように思うんです。先生に教えていただいたものからは遠いことをしてしまったように思います。そんな重大なことなのに、気になりませんでしたか?」
美少女はまっすぐな瞳で流斗を見た。これって、まさか静かに怒っているわけじゃないよね?
この二人、何だかはらはらする。
「とにかく、どこなのかはっきり言ってくれるかな」
流斗がまた返した。
もういい加減、その話題から離れてはどうだろう。こんな試合の直後にどこが悪かったかなんて話をしつこくしたら、空気が悪くなるに決まってる。そういうこと少しは考えようよ。反省会は日を置いて先生と一緒にやればいいじゃないか。流斗の奴、日頃は誰とでも適当に上手くやり過ごしているくせに、一体どうしたんだ。
二人が気まずくなる前に誰かなんとかしてやれよと周りを見渡したが、彼らのコーチらしき人は他の先生たちと談笑していて、二人のこの様子を気に留める気配はなさそうだった。
ついに美少女は彼女が気にしている箇所を、はっきりと流斗に告げた。
「二十二小節目です」
って、その答え方、はっきりしすぎだろ。
「ああ、二十二小節目ね」
わかるんだ!?
「……って、どこ?」
やっぱ、わかんないよな。
「二十二小節目といえば、二十二小節目です」
「……ダダダダン ダダダダンっていうところあたりかな?」
その音程は見事に外れていた。
「ごめんなさい、よく分からないです。どこを歌ってらっしゃるのですか?」
美少女は真顔で流斗に問った。
あ、そこを突っ込んじゃうんだ、この子……。
音痴――それは流斗の数少ない弱点の一つだった。
わざと嫌味を言うような子には見えないのだけれど。天然……なんだろうか。どきどきしながら成り行きを見ていると、二人の前に美少女にそっくりな女性が現れて、タブレットPCを差し出して消えていった。
美少女はタブレットを手に、「続きは向こうでしましょうか」と流斗に向かって言った。
「そうだね。お互いの感覚だけで言い合ってても意味ないしね」
二人はエッジケースを手早くはめると、そろってベンチの方に移動していった。
「難しいステップをちょこちょこ入れすぎなのよね。だから納得いかない結果になるのよ」
と姫島先生が言った。
「仲が悪いのかしら?」
陽向さんは不思議そうに二人の後ろ姿を眺めていた。
「ごめんなさい、ちょっとプロトコル見せてもらってくるわ」
先生はそう言うと、ジャッジ席の方に小走りに駆けて行った。ジャッジ席の中央に座っていたのは、いつもバッジテストのときに先生とよく話をしている岡崎さんだった。
掲示板に一日目・二日目合わせての総合の結果が張り出された。
南場さんは十二位だった。全日本ジュニアへの進出が決まった。
僕たちはもちろん一位。ただし二組中。
それでも一応表彰式はあった。表彰台の一番上と二段目に四人で乗った。最後の段は、無人。流斗たちなんて一組だけ。そんな寂しい表彰式なのに陽向さんは笑っていた。
「次は全日本ね。今度も頑張ろうね」
今回の試合で、僕がどの程度陽向さんの役に立ったのかは分からない。次の試合でもどの程度役に立てるのかは分からない。隣にいる程度の意味しかないかもしれない。でもそれでも十分な気がした。目の前の笑顔は、僕も一緒になって作り出したものなのだ。
僕はこの日まで、誰かと何かを成し遂げたことがなかった。
小学校で参加した駅伝も、練習はしたものの本番には出られなかった。一人ひとりで練習をしたところから、みんなと力を合わせるところまではいけなかった。他の競技もそうだ。遊び程度に加わることはあったけれど、メンバーと一緒に目標に向かって最後まで戦ったことはなかった。
陽向さんとパートナーを組んで、自分の価値はエントリーにしかないのかと辛くなったこともあったけど、僕がいることで試合に挑めるということは、それだけで素晴らしいことなのだと今は思える。
陽向さんはもらった花を、僕にわけてくれた。
「演技を見た人からってことを、ご家族に報告して。きっと喜ばれるから」
差し出されたそれは普通の花束と違い、たった一輪の花がセロファンに包まれていた。上まですっぽりと覆われていて、一番てっぺんがリボンで結ばれていた。
リンクに投げ入れても花びらが飛び散らないようにと工夫された、フィギュアスケート用の包み方なんだそうだ。
この初めての試合のことを僕はきっと一生忘れない、そう思った。
実際、この日のことは僕にとって大事な思い出になった。ただ、僕がもっとアイスダンスのことを理解していたなら、あそこまで能天気ではいられなかっただろうけれど。
しばらくして、表彰式が始まるという案内が流れた。そこへと向かう途中、先生は何度も「何を言われても気にしないのよ」と念を押してきた。完全に流斗を警戒していて、表彰が終わると僕らが口を利かないようにとさっさと僕らを遠ざけた。ただ先生がそんなことをするまでもなく、流斗は流斗で表彰が終わるとすぐにまた美少女に色々問いかけられて連れ去られていった。
笠井・児島組とは少しだけしゃべることができた。第一印象通りの感じのいい人たちだった。岡山で練習しているのだそうだ。シニアのアイスダンスに西日本から一組だけエントリーがあったけれど、その組も同じところで練習していると言っていた。
陽向さんは表彰のあとたくさんのプレゼントや花をもらっていた。シングルの時からのファンだと告げてくる女の子もたくさんいた。みんな陽向さんを素敵だったとほめて、アイスダンスを見るのが楽しみになったと言っていた。
陽向さんのおばさんが紙袋を持って来て、彼女はそこにもらったものを詰めた。おばさんはそれを持って帰ってあげるわよと言ったけれど、陽向さんは「いいのいいの、天馬くんに運んでもらうから」と言った。
「あ。僕、運びましょうか。駅まで」
そう言うと陽向さんは「制覇君は、お花もあるから大変でしょ?」と言う。そうは言っても、出番のあった南場さんだってキャリーバッグがあるのに。変な話だと思った。
帰り際に僕が手に賞状と花を持っていると、陽向さんが「折れちゃわない?」と心配してくれた。
「ちゃんと巻いて、鞄にしまったほうがいいわ」
彼女は髪をとめていたシュシュを僕の前で解いた。長い髪がはらりと肩のあたりまで落ちた。さっきまでまとめていたせいか、ふんわりと波打っている。
彼女は僕の賞状を手に取るとくるくると巻き、そこにはずしたばかりの自分のシュシュをはめた。
「これで鞄に入れたらどう?」
僕が賞状をしまっているうちに、みんなは会場を出てしまった。僕と陽向さんは、二人でみんなを追いかけるように会場を出た。
外に出ると夕日が傾きかけたところだった。青い空に、オレンジ色のうろこ雲が広がっていた。
陽向さんが言った。
「今日は彼女さん――じゃなくてお友達はいらっしゃらないのね」
僕はあたりを見渡した。ダンスの応援はしていたから来ているはずなんだけれど、姿は見えない。
「そうみたいですね」
「そっか」
陽向さんは笑顔でうなずいた。
「じゃあ、お隣にいたかっこいい方がきっと彼氏さんだったのね」
「え? 何の話ですか?」
「お友達の彼氏さんのことよ。今日、二人で観戦してらしたでしょう?」
二人で観戦ってどういうことだろう。僕は果歩にしか気がつかなかった。
それにかっこいいって……? 陽向さんがかっこいいって思うような人って一体? 流斗のことは知っているだろうから、そんな言い方しないだろうし。
僕はそれが気になって仕方がなくなった。
「あの、僕ちょっと用事があるので、みんなとは別れて帰ります」
僕は会場に引き返した。ちょうど休憩時間に入るところで、観客席への扉が大きく開かれた。次々に観客が外へと出てくる。果歩が座っていたあたりの様子を見に行きたかったけれど、流れに逆らって中に入るのは無理そうだった。どうしようかと悩んでいると、果歩が現れた。パンフレットを片手に、隣を見上げながら笑っている。その視線の先には長身の男がいた。今どきの服をセンス良く着こなしている。
――言われてみればカッコいいかも? 誰だあいつ。
いや、でも大概の場合、こういうのは兄弟というオチと相場が決まっている。焦る必要はない。
って、果歩は一人っ子だしー!
僕はもう一度その男に目を向けた。髪をくしゃくしゃって感じでセットしてて、いかにも軟派極まりない。と思ったけれど、その表情はまったく軟派ではなく、むしろ小難しそうな感じだった。
「って、東山じゃん!」
思わず叫んでしまった声に、二人はこちらを向いた。
「あ! 制覇! どうしたのー?」
「どうって……さっきまで普通に試合してました」
「やだなあ。知ってるよ」
何を当たり前みたいに言ってんだよ。どうしたのって聞いたのそっちだろ。
「ここで止まると迷惑だから、進んだ方がいいね。制覇は? どうするの? 帰る?」
「帰るよ!!」
僕たちは人の流れに乗って駅の方へと進んだ。
それにしても、と思う。東山はスケート靴を履いていない時は猫背じゃないのか。あまりに印象の違う姿に驚いてしまった。
「お前、リンクで見るのと随分感じ違うな」
「今日は姉貴が休みだったんっすよ。それでこんな格好をさせられました。そして家から追い出されました。鍵かけられました。いじめっす」
それに対する果歩の感想は「楽しいお姉さんだねー」だった。
「それでコートも着ずに観戦に来てたんだ。よかったね、ちょうどシニア女子やってて」
果歩はそう言って東山に笑いかけた。
「私、トップ選手がシードだなんて知らなかったから、今日は実はかなり期待して来たんだ。だからちょっと残念だったんだけど、でも十分面白かったね」
僕たちは電車に乗りこんだ。電車の中でも果歩と東山はシニア女子の話ばかりを続けていた。といってもほぼ果歩が一方的にしゃべっているだけだったけど。会場から帰る人で混雑している電車の中で、果歩は小さくプログラムを広げ、誰がかわいかったねとかこの曲すごくよかったねとか楽しそうにしていた。東山は聞いているんだかいないんだか分からないような調子で、「そっすねー」を繰り返していた。
電車に揺られる約一時間、果歩の口から出てきたのはシングルの話ばかりだった。同じ駅から乗り合わせた多くの乗客も同じような話をしていた。
東山がいなければ、果歩も前日のようにアイスダンスについて話してくれたのかもしれない。だけど、だめなのだ。東山のような普通の奴がいるところでは、その話題はあまりにマイナーすぎるのだ。
家の近くの駅に着くと、辺りはもう暗かった。三人で何となく果歩の家の方を回って帰ることにした。
壁面をソーラーパネルに覆われた風変わりな四角い家。中にはおじさんの事務所も入っているので、普通の家よりちょっと大きい。仕事中なのか一階の一部屋だけから灯りが漏れていた。
門の掛け金を外すと、果歩は言った。
「全日本も応援に行くから。頑張ってね」
「全日本は、東京だぞ?」
驚いてそう言うと、果歩は「分かってるよ」と笑った。分かっててわざわざ日帰りで行くのだそうだ。そんなに流斗の応援がしたいんだろうか。
「東京って所にはね、一度行ってみたいと思ってたから」
果歩が門を閉めると、玄関までの道に小さな明りがいくつも灯った。家の中から彼女の帰りを待ちわびていたアレックスの歓声が聞こえてきた。




