六. 支えと負担(3)
何も知らない北大路さんに声をかけられた瞬間、理子さんがはっと我に返ったような顔をした。そして「きゃっ!」という叫び声を上げ、突然態度を変えた。
「私ったらなんてことを。先生のことは尊敬してます。努力されているのも知ってます! 色々と事情があることはお察ししています。大変失礼しました」
早口にそう言って北大路さんの腕を引くと、理子さんは慌ててその場を去ろうとした。北大路さんは理子さんに連れ去られながら
「失礼な発言をしたようでしたら申し訳ありません」
と謝りながら、少し離れたところで練習していた吉田さんを呼んだ。
「ごめん。先輩のこと謝っておいて!」
北大路さんはそう言い残して、理子さんと一緒にその場から消えた。
「なあに? あの失礼な人……」
先生は腹立たしそうに、理子さんの後ろ姿を見送った。
果歩に事情を聞いた吉田さんは、熱心にその場を取りなした。
吉田さんが言うには、理子さんは夢中になるとつい立場を忘れてずけずけと意見を言ってしまう性分なのだそうだ。それについては本人もとても気にしていて、先生やなんかが集まるような大事な場にはあまり表に出てこないようにしていたらしい。それを聞いた果歩は、理子さんを強引に引っ張ってきたことを反省していた。
だからバッジテストの時、いつも陰でこそこそしていたのか。
「別に何を言われようが、何とも思ってないから大丈夫よ。昔から挨拶もろくにできない礼儀知らずな方だということは承知してましたから」
吉田さんの言葉に、先生はつんとしてそう言うと、指先で額にかかった前髪を払った。
このやりとりを見たせいか僕はすっきりしない顔でテストを受けてしまったようで、なんとか合格はできたものの、もっと生き生きした表情で滑るようにとジャッジから注意を受けてしまった。陽向さんはというと、あんな場面を見たわりにいつもと変わりない演技ができていた。先生もあっさりと気分を切り替えていたらしく、「あんなことくらいでいちいち動揺しないの」と言った。もっと深刻なトラブルが試合直前に起こることだってあるのだから、滑り始めたら気持ちは切り替えなさいと諭された。
「それにしても合格できて良かったわ」
ほっとした顔を見せた先生は、僕たちと解散するとまたこの前のジャッジの方へと足を向けた。いつの間にかそこに陽向さんの母親も加わっていた。僕はその風景を、三人はきっと仲がいいのだろうと思って見ていた。
陽向さんは自分の荷物を片付け終えると、帰りがけに「お疲れ様」と声をかけてくれた。
「じゃあまたね」
と小さく手を振りながら見せてくれたその笑顔は、いつものように柔らかかったけれどどことなく捉えどころのない表情にも見えた。
アメリカに行くかどうかは先生と両親の話し合いに任せようと思っていたのに、家に帰った僕はその話をもう一度せずにはいられなかった。
「だから前にも言ったでしょ? いい経験になると思うからぜひ行ってらっしゃいって」
流しで洗い物をしていた母は機嫌よくそう答えた。交通費のこととか、わかって言ってるんだろうか。
「でもさ~、その……交通費だけでも、結構かかるかもな~なんて」
「そんなこと心配しないでいいわよ。子どもを応援するのが親の役目だもんね。あ、ご飯食べる? あっためてあげようか」
そう言って母は鍋の乗ったコンロに火をつけた。僕は食卓の横に荷物を下ろした。テレビを見ていた父が、そんなことより今日のスケートのテストはどうだったのかと聞いてきた。
「受かったよ」
「そうか。それはよかったな」
父はただそう言ってくれた。アメリカ行きについては、今回は何も言われなかった。両親の中では、行っていいということでもう話がまとまっているんだろうか。
食事を終えて子供部屋に入ると、大義が二段ベッドの上で漫画を読んでいた。僕は荷物から靴を出し、床に座った。エッジカバーを外していると、ベッドの上から大義の声が聞こえた。
「母さんは兄ちゃんに対して気前のいいことを言い過ぎだね。僕は兄ちゃんのためにうちが貧乏になるのはどうかと思うよ」
大義は何の遠慮もなく思っていることを口にした。
「お前の意見はいらないよ。俺は父さんにも母さんにもちゃんと相談しながらやってるし。なんでお前に貧乏になるとか言われなくちゃならないんだよ」
大義は僕が家にいない間の両親のやりとりを知っていた。僕がいるところでは理想的なことしか言わないけれど、実は金銭的な理由から、父は僕に反対しているのだと大義は言った。
母はお金が必要なのであればパートを増やせばいいと言っているらしい。しかし母のその提案すらも、父は、時給が知れているパートを少し増やしたところで補える額は知れていると反対しているらしかった。
アメリカ行きや私立の話が出たとき父にはあまりいい顔をされなかったけれど、それでも僕のことを応援してくれているのだとばかり思っていた。それが、違っていたなんて……。
「母さん、日によっては兄ちゃんのために、昼の分とは別に夜の練習に持ってく分まで弁当作ったりしてるんだよ。その上昼間ハードに働くとか、かわいそうだよ」
二つ下の弟は、ゴロゴロしながらそう言った。多分こいつは毎日、こういう時間を過ごしている。僕なんて毎日、がんばっているのに。
だけど漫画を読んで過ごすような日々は平和だ。家族にも迷惑をかけない。
「母さんはのぼせちゃってるみたいだけどね。父さんは、母さんのことを無計画だって言ってあきれてるよ」
母は僕の名前が雑誌に載ったころから、何とか僕を活躍させたいと夢中になっているのだそうだ。
部屋の外から、「母さんたちもう寝るからね。制覇も早くお風呂に入って寝なさいよ」という声が聞こえた。
「はーい」
とりあえず返事だけ返しておく。
「でも……ほんとに俺のやろうとしてることに反対なんだったら、陰で色々言ってないで直接俺に話をすればいいのに。なんでちゃんと言ってくれないんだよ?」
「知らないよ。でもこれはほんとの話だよ。父さんしょっちゅう母さんに言ってるよ。今、お金使い果たしてどうするんだって。本当に応援したければ、今を焦るよりも、長く続けられることを考えてあげるべきなんじゃないかって」
長く続ける。大義の話の中にあった言葉を、僕は心の中で繰り返した。
僕は、目の前に迫ったこの一回のアメリカ行きのことしか考えていなかった。だけど上手くなるために海外での練習が必要なのだとしたら、同じような話はこの先も出てくるかもしれない。国外での試合も考えているという話もあった。そんなことを繰り返していたら、どうなってしまうだろう。スケートを続けていくことはできなくなるかもしれない。そうなると陽向さんの夢を叶えるどころではなくなってしまう。
父は僕に反対しているのではない。そんな確信が僕の中でゆっくりと広がっていった。
父は父らしい緩やかな流れで、僕を応援してくれている。日頃からのんびりしているように見える父は、僕や母のように激しくて短期的な目ではなく、ずっと長い目で僕のことを考えてくれている。
やっぱり今回のアメリカ行きは断ってしまおうか。というか、まずそれが今の僕にとって本当に必要なことなのかを、先生によく確認してみよう。あの先生と話をするのは怖いけど、まだ日本で練習できることがあるのなら、僕はそれをがんばるべきなのかもしれない。
そんなこんなと思い悩んで行った次の練習で、先生はアメリカ行きは取りやめることにしたと僕に言った。
「別に観月さんにあれこれ言われたせいではないから。私も今回はね、ある意味挑戦が必要かしらとは思っていたのよ。アメリカなんか行かなくったって構わないわ。その代わり、海外からプログラムを手伝ってくれる方をお招きするから」
先生はいつも通りすました態度でそう言った。海外から先生を呼ぶだなんて、そんないい方法があるのなら最初からそう提案してほしかった。あまりのあっけなさにどこか割り切れなかった。
海外からの先生は、夏休みの間来てくれることになった。それまではこれまで通り、姫島先生が僕たちのことを見てくれる。
先生は、何やら英文がプリントアウトされた用紙の束を持ち歩くようになった。僕たちの横でそのページを捲り、たまに頭を抱えていた。そして吉田さんがリンクに姿を現すと、先生は度々彼を捕まえては、僕たちの前から姿を消した。




