三. 停滞と発見(2)
バッジテストから一ヶ月余りが経つというのに、僕は一向にレベルを上げる話に移れずにいた。
焦る気持ちはあるはずなのに、日に日に練習することがつまらなくなっていく。何をやっても進歩が見えなくて、以前のように練習に楽しみを感じることができなくなっていた。何とかしなくてはとは思うのだけれど、ではどうすればいいというのだろう。どう頑張ったら結果につながるのかがわからない。とにかくやるしかないと頑張ってみても、通りがかった先生に言われることは「前に注意したところ、全然直ってないわよ」というやる気をなくすようなことばかり。
いつの頃からだろうか、僕は氷に乗っても何周か滑ったらフェンスに寄って、みんなの滑りを漠然と見ていることが多くなっていた。
「あの先生、あれが違うこれが違うって厳しいからな。まあなかなか先へは進ませてもらえないって」
同じようにリンクの隅へと寄って来た上本に、同情したように言われた。
「どうすればいい?」
「それが分かればみんな苦労してねーよ」
それは僕を突き放した言葉ではなく、彼自身がこれまで実感してきたことから出てきた言葉だった。
停滞しているのは僕だけではなかった。
習い始めたころ、僕は自分だけがつまらない基礎練習をやらされているとばかり思っていたけれど、楽しそうにやっているように見えたまわりの多くの生徒も実は伸び悩み、何ヶ月も同じ課題を繰り返していた。
「同じ時期に始めた他の先生の所の奴らが上に行っているのを見ると、俺も違う先生についていれば今頃……ってたまに嫌になるよ」
そう言って上本もみんなの様子を見つめた。こちらに向かって滑ってくる他の先生の生徒が見える。
「でも、あいつよりはお前の方が上手いよ」
僕は指さしながら言った。
「どこが?」
嫌そうにそう上本が言った瞬間、その子は三回転ジャンプを決めた。上本には跳べない種類のジャンプだった。
「あんな変な跳び方あり得ないよ。お前の方が絶対上手いって」
姫島先生の生徒の方が、他の先生の生徒よりもずっときれいに技を決める。そういったことが僕にも最近分かるようになってきた。姫島先生だったらいくら難しい技であっても、あんなフォームで跳ぼうものなら踏切のターンからすべてやり直しだ。
「アイスダンスやってる人間は気楽でいいねー。跳び方なんてなー、関係ねーんだよ。ジャンプは決まんなきゃ意味ねーんだよ。同じ種類のジャンプが決まって初めて、『質』を争える話になんだから」
質――他の先生の生徒より上本の方が上手く見える理由の中に、『質』の問題が潜んでいる。でもそんな上本であっても、姫島先生の合格ラインに届いていない。先生が求めている質との差はどこにあるのか。その差を埋めることができない限り、先に進ませてはもらえない。
七級を目指して練習する南場さんが見える。彼はスケーティングだけでなくジャンプやスピンもすごくいいのに、それらを連続させようとすると調子が狂うらしい。それは一つ目の技に原因があるからだと先生は言う。二つ目、三つ目を上手く続けようと思うならまず一つ目からパーフェクトにしなくてはと。
そう言われた南場さんは同じエレメンツの練習をずっと続けていた。きれいに基礎を積み上げれば、その上に大きなものを築くことができるのだという先生の言葉に従って。
同じような練習を飽きもせず真面目に続けているは、陽向さん以外では南場さんくらいだ。
求められている質が理解できさえすれば、そこに到達できるまでがんばり続けられるのだろうか。
多くの生徒は、いつになったらこの停滞感から抜け出せるのかという答えが出せないうちに向上心を失っているように見えた。何をやるにしても、言われたことをなんとなくやるだけになっていた。なんとかして上手くなってやるなどという覇気を感じることはまずない。
それでもみんな、楽しめているから構わないというつもりなんだと思っていた。
上本だって、そんな中の一人だろうと思っていた。そうとしか見えない練習態度だった。そんな彼でも本当は上手くなりたいという思いを抱えていたんだと思うと、怖くなった。
――僕もこのまま停滞しているのが当たり前になったら、そうなってしまうのかもしれない。
僕と上本が不満を漏らしているところに、きょうちゃん先輩がやってきた。
「そんなにやりたいことがあるなら、先生が何を言おうとやってみればいいのに」
「いや、怒られますから」
妙に真面目に答えた上本に、きょうちゃん先輩は楽しそうに笑ってみせた。
「ふふ。君は変なところだけお行儀がいいんだねぇ」
生徒の中できょうちゃん先輩だけは異色の存在だった。
彼女は一人で勝手な練習をしてよく先生に注意されていた。「まだ回すなっていったでしょ」などと言われても、「はぁーい」とケロッと返事をしてまた日を変えて同じことをやっていた。きょうちゃん先輩は姫島先生の所では珍しく六級を持っているわりに、こう言っては悪いけれど、かなり下手だった。
それでも本人は生き生きとしていた。
きょうちゃん先輩は、自分は選手になりたいわけじゃないからと言い切っていた。だから先生の求める上手さを押し付けられる理由はない。自分の憧れに手が届かないままスケート人生を終えるのは、恋を知らずにおばあちゃんになっていくのと同じだと彼女は言っていた。だから、やりたいことは今やるのだと。
なかなか先に進めないという停滞感は、みんなのやる気を奪ってしまうのかもしれない。みんなもっとやりたいようにさせてもらえれば、もっと力も出せるし、色々なことができるようになるのかもしれない。きょうちゃん先輩のように。
僕だってきょうちゃん先輩のように、先生なんか振り切って突っ走ってしまいたい。
でも、僕には勝手に先へと進むことはできなかった。やり方を教わってないものに、手を出す方法がまずわからない。陽向さんだって先生を無視して僕に付き合ってはくれるとは思えない。
それに実は、先生のこだわりももっともだという思いもあった。技はできればいいってものじゃない。先生のダメ出しを無視して先に進んだって、きっと意味がない。あいつを唸らせることなんて、きっとできないだろう。
冷静に考えると、先生が僕を先へと進ませてくれないのには、先生なりの理由があるのだと思う。先生から見て、僕には何かが足りていないのだ。
僕には、一体何が足りないんだろう。先生には、僕がどういう風に見えているんだろう。
そして僕は思い出した。あの時の果歩の言葉を。
――――――何のために動画撮ったか、理由、ちょっとは分かった?
そうか。
あいつが動画を撮っていたのは、少女趣味からじゃなかったんだ。
あいつはあのリンクで先生なしでも上達するために、ずっと前からそういう方法で……。
僕は前に進むために、受け入れがたい自分の姿に向き合う覚悟を決めた。
僕は流斗が言った冗談をあてにして、もう一度果歩がDVDを持ってきてくれることを、それからしばらく心待ちに待った。まだ払っていないディスク代も渡さなくてはと、それも毎日学校に持って行った。しかし何日経っても果歩は一向に僕のクラスには来てくれなかった。
果歩のクラスは一つ上の階にあった。果歩はその教室のずっと奥に座っていた。正確には中央あたりだけれど、僕にしてみれば入り口からずっと遠くに思えた。何度か教室の前までは行ってみたけれど、僕は立ち止まらずにそのままその場を行き過ぎた。ちらっと中をのぞいてみて、気がついて出て来てくれればいいのにと期待したけれど、そんな様子は全然なかった。リンクならいつでもすぐに僕を見つけてくれるのに。
果歩は何かの委員になったらしく、昼休みは何かと忙しそうにしていた。机や教室の後ろの掲示板に向かって、よく何かの作業をしていた。
「よう、制覇どうした? 常葉木になんか用か?」
果歩の教室の前の廊下で木野に声をかけられた。そういえば木野は果歩と同じクラスだった。
「いや、別にあいつに用なんかねーよ。なに言ってんだよ」
「え? でもお前のクラス、下だよな。なんか用があるから来たんだろ」
「だからってなんですぐあいつと関係あると思うんだよ。他にも用事はあるんだよ」
「そうなのか」
「そうだよ」
「じゃ、俺教室戻るわ。じゃーなー」
「じゃーなー」
そう言って僕は木野を見送った。
って、ちょっと待って。なんで果歩を呼んでもらわなかったんだ? 普通に呼んでもらえばよかったことだろ~!
結局僕はいつものようにモミの木に行くことにした。最初からそうすればよかったことだ。もちろん果歩にはすぐに会えた。
「これ」
リンクの中にいる果歩にフェンス越しにディスク代を渡す。果歩はそれを受け取るとリンクサイドへと上がり、ベンチに置いてあるスポーツバッグの中へとしまった。
「今日は滑るの? 制覇?」
「……うーん。どうしようかな」
「どうしようかなって……。靴持って来てるじゃない」
「うん。そうなんだけどさ」
リンクは混雑していなかった。この日は他に用事もなかった。
果歩はくすくす笑いながら、「何? どうかしたの?」と僕をのぞき込んだ。
あれほどいらないと言っていたことを思うとDVDをもう一度くれとはなかなか言い出しにくい。
「ええっと、ほら、あの……」
「何?」
「ほらその。あれだよ、あれ、あれ!」
「あれ? あれってなんだろ……」
果歩は顎に人差し指を当てて考えこむ。
気づいてくれー。
「あれっていったら、ほら!」
「ああっ! 忘れてたっ!」
「忘れてたのかよっ!」
「今日アレックスの誕生日じゃない! 制覇、覚えててくれたんだ。ありがとう! 飼い主の私ですら忘れてたのに」
ちーがーうー。
「なんだ。DVDのことか。早く言えばいいのに」
アレックスというのは果歩の飼い犬のことだ。もうここ三~四年は会っていない。
僕はイライラしながらも「アレックス元気?」だとか「大きくなった?」だとか「散歩大変じゃない?」だとかいう話をしばらく続け、そしてようやくDVDの話に漕ぎつけた。




