一. それは自覚なく始まった(1)
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この「僕とあいつと氷ときせき」は旧版です。
改稿版はHand in Handとして連載しています。
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二学期に入って間もなくのことだった。
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。物珍しさで浮れているところに帰国子女らしいという情報も入り、誰もが転校生の登場にますます期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、常葉木果歩だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
学活の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。途端にみんないつもよりきびきびと席に着いた。すぐに担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
果歩は転校生のことなんてまるっきり気にも留めていなかった。クラスがどれだけざわついていても果歩は相変わらずだった。
果歩は小さな紙切れに「五時から!」と素早く書くと僕の机の上にそっと差し出した。
「お前は僕を破産させる気か」
ここのところ果歩の誘いに乗りすぎて散財していた僕は、そう気のない返事をすると、紙きれに手を伸ばし小さな紙飛行機を折った。
「じゃあ見に来るだけでもいいからさー」
そう言って誘い続ける果歩の鼻先に、僕は紙飛行機をふっと投げた。
「見になんか行ってどうすんだよ」
果歩は軽やかに紙飛行機をかわしてそれをキャッチすると、僕に飛ばし返して片目をつぶってみせた。
「もちろん、制覇が耐えられなくなるまで誘惑……」
「やめろ」
果歩の言葉を遮るように僕は即座に飛行機を飛ばし返した。ところが力を入れすぎたそれは果歩を通り過ぎて、教壇の方に向かって飛んで行った。
「やべっ」
焦る僕の隣で果歩は声を抑えて「ばっか」とささやくと、目を細めてくすくす笑った。
先生の目を盗みこそこそとしたやり取りを交わすのは、いつもの風景だった。マイペースな果歩につき合わされているといつの間にかクラスから取り残されている。
だけどそのころまだ僕たちの間に、浮ついた何かがあったわけではなかった。果歩の頭の中にあるのは、ある場所に僕を誘うことだけだった。
そしてそんな少し強引ともいえる果歩の誘いについつい乗せられてしまうのも、僕が同じ場所に魅せられているからに他ならなかった。
僕たちは紙飛行機の行方を目で追った。
そこでやっと教壇に立つ転校生の姿をはっきりと目にした。
真新しい制服を身につけた男子生徒。横にいる担任教師とはとても同じ生き物とは思えない、何ともいえないコントラストがそこにあった。制服と体型のせいだけではなかった。立ち姿が異彩を放っていた。その端正さと異世界感が女子の興味の対象になったのは当然だった。
先生からの紹介が終わった瞬間、待ち構えていたように一部の女子が手を挙げた。
「蒼井くんは、どのくらいアメリカに行ってたんですか?」
その女子は転校生の方を見ながらはにかむようにそう言った。
女子からの質問に、四年やね、とすぐに先生が答えたものですかさず次の女子が手を挙げた。
「授業始まるし、これで最後にしてな」
苦笑しながら先生は次の女子に発言を促した。
「えー、趣味はなんですか。それから誕生日。と、彼女いますか?」
最後と言われて、みんなが気になると思われる質問を一度に三つも詰め込んで上手くしてやった女子を、クラス皆が喝采した。
数秒のざわめきが治まると、そいつは質問した女子の方をまっすぐに見てにこっとした。
思いがけない大胆さ。初めての場所で、教壇の上で、大勢の前で、最後に微妙な質問もあったというのに物怖じした様子がない。
女子たちが小声で王子だ王子だとひそひそ言っているのが聞こえた。あいつの陰のあだ名は王子に決定したことだろう、そう思って見ていると、そいつは質問した生徒からクラス全体に目を移して初めて口を開いた。
「趣味っていうわけじゃないんですけど、向こうではスケートをやっていました」
その瞬間、クラスの視線がいっせいに果歩に集まった。
そこから先、そいつが質問にどう答えたかはまったく覚えていない。ただ、スケートと聞いて目を輝かせるであろうと思った果歩が思ったほど嬉しそうではなく、むしろ少し困惑したように見えた。それがとても気になった。
中二の夏の終り。まだ生き残ったツクツクボウシの声が空高く響いていた――。
一九九九年。僕が生まれる少し前。世界の終わりは来なかったけれど、その頃日本のあちこちでたくさんのスケートリンクが姿を消していった。別に天変地異が起こったわけじゃない。事情はよく知らないけれど、昔はたくさんあったスケートリンクがその頃から徐々に閉鎖されていったのだそうだ。
僕たちの町でも数年前にスケートリンクが潰れた。僕はそこには一度も行ったことがなかったけれど。だけど二年くらい前、新しいスケートリンクができた。通称「モミの木リンク」。僕は初めて見た時から、そのリンクの虜になった。
市街地から少し離れた関西のこの町に新しくできたそのリンクは――いや、それはスケートリンクではなく大型のショッピングセンターだった。巨大な建物の真ん中あたりに最上階までの吹き抜けがあり、ガラス張りのアトリウムになっていた。中にはリンクが二つ並んでいて、正面には大きなモミの木が一本、吹き抜けをつらぬくように立っていた。
僕が初めてそこに行ったのは六年生の十二月だった。あの時も果歩と同じクラスだった。バカでかいモミの木が、クリスマスのオーナメントで飾られていた。見上げて圧倒されたあの姿が、印象的で今でも忘れられない。果歩はフリーパスを持っていて毎日のように出入りしていた。果歩に誘われて集まったクラスの大勢の奴らも、みんな異常に興奮していた。ろくに滑れもしないのに、キャーキャー騒いで盛り上がった。
それ以来、友だち同士でたまに行くようになった。最初の頃は天気が悪くて外で遊べない時だけだったのが、気がつくとそんなことに関係なく度々通うようになっていた。
スケートは面白かった。陸上を走ったのでは絶対に出せないスピードが出せる。初めのうちは手すりを持たずに立つだけでも精一杯だったのに、いつの間にか友だちとがむしゃらになって追いかけあっていた。
スケートを習っていたことのある果歩が目の前でひょいと跳んで見せた時は、みんな目の色を変えた。怖い怖いと言いながらみんな夢中になってまねをした。最初はただ「跳ねてみた」だったり「回ってみた」だった。それでもそんなちょっとしたことができるというだけで妙に嬉しくて、見様見真似で回数を重ねているうちに色々な技ができるようになっていった。新しい技ができるようになったと果歩に自慢される度、僕もリンクに行って同じ技に挑戦した。
中学に入ると、部活だ塾だといって一緒に滑りに行ってくれる友達が徐々に少なくなっていった。いつの間にかリンクに通う常連は、果歩を除くと僕だけになっていた。
それでも果歩は多くの友達をリンクに連れて行こうと熱心だった。クリスマスや冬休みはもちろん、体育祭や文化祭のあとなんかにも打ち上げだとかこじつけて、クラス中に呼びかけて回った。滑りたくないと言っている奴にすら一緒にリンクサイドで美味しい物を食べればいいだの何だの言って、強引に連れて行った。
だからあの瞬間、クラスの目が果歩に集まったのは当たり前のことだった。そしてその日の休み時間、転校生の歓迎企画としてスケートに行こうとみんなが言い始めたことも。
「じゃあ、今日何時集合?」
誰からともなくそう言い出して、歓迎会の段取りは進んでいった。
「私、蒼井くんにスケート教えて欲しいな」
「私も。私も」
転校生のまわりには生徒が一人増え、二人増え、あっという間に人だかりができた。
果歩は自分の席に座ったまま、「地図書くね」とひとこと言うとノートを一枚そっとちぎり、そこにスケート場までの地図を描き始めた。その声はいつも通り明るかった。だけどいつもなら浮かれて転校生のことは家まで迎えに行くなどと言い出してもおかしくないくらいなのに、この日の果歩のテンションは不思議と低かった。
僕はなぜだかそんな果歩から目が離せなくなっていた。
果歩が地図を持って席を立つと、かわりに木野が寄って来た。
「制覇、残念だな。今日は大勢行くみたいだぞ。いつもは二人きりなのに」
「誰のせいで二人なのか知ってるか? いつも誘ってるのに断りやがって」
「俺だって常葉木と遊べるものなら遊びたい! だけど全然ついていけないからな。仕方ないよ。お前はいいよ。運動神経だけはあるから。小っちゃいくせに」
僕は木野の背中におぶさるようにぶら下がった。
「聞け。僕はついにこの前、百五十センチを超えた」
「そうか。よかったな。おめでとう」
僕は木野の首を絞めるように体重をかけてやった。木野はわざとらしく咳込んだ。
解放してやると、
「まあでも今日は俺も行ってやるよ。他の女子も行くから」
とへらへらして言われた。
僕は気が抜けたように言った。
「あほか」
たぶん僕はみんなより遅れていた。
果歩についても。
僕はあいつを女の子だと思ってはいなかったけれど――友人たちからは結構女の子として評価しているかのような発言を聞くことが増えていた。確かに果歩は不細工ではなかった。というよりはむしろかなり整っている方だった。くっきりとした目鼻立ち、引き締まった輪郭、細くてさらさらとした琥珀色の髪。
だけど僕はそんな果歩を、まわりの友人たちのように、女の子を賞賛するような言葉で言い表す気にはならなかった。
そもそも果歩は女の子というにはあまりにもこざっぱりしすぎていた。やわらかさだの、華やかさだのいうものが微塵も感じられなかった。髪は短いし、出るべきところは出ていないし、制服の時はまだしも普段着の時なんかは男の子に見えるくらいだった。
その上僕は果歩のことを、小学校に入るずっと前から知っていた。あいつはスケートに夢中になる前は僕たち男子と一緒に、友達の家の屋根に上ったり川を渡ったり、やんちゃなことばかりをしているような奴だった。
僕より背が高くなった頃から――そう、果歩は僕より背が高かった――他の女子と同じで僕に対して少し偉そうにはなったけど、それでも他の女子とは違って気取ったところはなかったから相変わらず話しやすくて、僕にはとても女の子とは思えない、身近な仲間の一人のような存在だった。
果歩が人だかりをかき分けてようやく転校生の机にたどり着いた時、彼は困ったような笑いを浮かべながら誰にともなく言った。
「ごめん、言いにくかったんだけど、今日は都合が悪くって……」
そして立ち上がると申し訳なさそうに
「ごめんね。せっかく描いてもらったのに。地図、もらっていいかな」
と果歩に向かって手を差し出した。
「あ、うん。もちろん。もちろん。いつでも時間ができた時に来てみてね」
果歩はその手に地図を渡した。果歩にしては随分とあっさりした口調だった。そしてその笑顔は……とても行儀が良かった。
一瞬非常に盛り上がったのが嘘のようだった。一部の女子たちはものすごく残念がったのだけれど、結局そのまま日を変えようという話にはならず、うやむやに転校生歓迎企画は流れた。
なぜあんなに盛り上がってしまう前に都合が悪いことをはっきりと言わなかったのだろう。周囲に気がねして自分の都合を切り出せないなんていう人間には第一印象からすれば思えない。
果歩もなぜだかこの日は、いつもの強引さをみせなかった。