1人月 再雇用先は異世界
「では本日をもって、和泉さんは退職となります。30年間ありがとうございました!」
オフィスビルの一室に拍手が鳴り響く。
笑っているもの、涙を堪えるもの、様々な人がそこにいるが、その全ての人が拍手をしている。
中心にいるのは紺色のスーツ姿の男性だ。白髪混じりの髪は短く整えられ、ネクタイはストライプ柄だ。柔らかく和かな笑顔で佇み、手には大きな花束を持っていた。
「この30年間、たくさんの人に支えられ今日を迎えることができました。本当にありがとうございます。今日をもって定年退職となりますが、私がいなくても皆さんなら大丈夫です。日々一つ一つを丁寧にこなしていって、より良い会社を作り上げていってくださいね。」
そう言って『和泉さん』と呼ばれた男性はペコリとお辞儀をした。
その会社は決して大きくはなかった。
しかし、社員の誰もが和泉さんを必要な存在と感じていた。和泉さんもまた、会社を好いていた。
そんな会社を、和泉さんは定年退職した。再雇用の提案も来ていたが和泉さんは断った。
「自分はもう退くべき歳ですよ。いつまでも社会に居座っていたら、若い芽を摘んでしまう。それだけはよくない。未来を作れるのは若者ですから。」
そう言って断ったそうだ。
夜20時。いつもなら仕事の終わらない社員の手伝いやアドバイスをしている頃。和泉さんは帰路についていた。帰路、というのも今日で終わりだ。明日から会社にはいかない。貯蓄と年金を崩しながら暮らすことになる。
和泉さんには実感が全くなかった。18歳で社会に飛び出し、様々な会社を転々としながら苦しい思いをたくさんしてきた。
30歳で会社に腰を据えるようになっても苦労と仕事は絶えることなく、常に仕事と共にいた。
しかし、明日から働かなくていいという。
確かに決めたのは自身だ。しかし、どこまでも仕事に向き合ってきた和泉さんにとっては、ずいぶんと新鮮な感覚であった。
「・・・明日からどうしましょうか。」
思えば仕事ばかりの人生。明日から自分はなにをしていけばいいのだろうか。駅のホームで考えていたその時、それは起きた。
偶然、というのはどうにもならないことだ。
当てずっぽうの答えが当たり、テストの点が良かったとか。たまたま入ったカフェに10年来の友人がいたとか。デート先でバッタリもう一人の彼女に会ってしまうとか。とにかく避けられない事象といえる。
そう、偶然なのだ。仮にそれによって『大きなモノ』を失っても、避けられなかった以上仕方がないのだ。『たまたま』緊張の糸が切れていて、『たまたま』大荷物を持った人が通りかかり、『たまたま』ぶつかってしまった。結局はそれだけだ。
和泉さんは落ちていた。なにがあってそうなっているのか本人にもわからない。ただわかるのは、駅のホームに転落しているところで、電車がくるという放送が鳴るのが耳に聞こえたということだ。
「! すみません!電車を止めてください!人が!人が落ちました!!!」
誰かが叫ぶ。静まりかえっていたホームは慌ただしくなり、ざわめきに包まれる。
和泉さんの頭には走馬灯が流れていた。
彼は大きな功績を残したとは言えない。しかし、真っ当な人生は送ってきた。ヤンチャな頃はあったが、正しいと思った道を選んできた。なのにこれで人生が終わるという。そんな勝手が許されるのだろうか。
『・・・これで本当に終わりなのですか・・・なんと・・・なんと理不尽な世界か・・・。しかし・・・これで彼女の元に向かえるとも・・・。』
走馬灯の中で、和泉さんは一人の女性を思い出していた。かつて不思議な出逢いをしたその女性は、仕事ばかりの彼に優しく寄り添っていた。世間知らずな面もあったが、その女性は若き頃の和泉さんの拠り所であった。
走馬灯の中の彼女に手を伸ばす。今なら届くかもしれない。あの時届かなかったその手に。そう思った時であった。
『いけない・・・まだ・・・死んではいけない!!!』
響く声に目を疑う。その声は紛れもなく彼女であった。
『まだ終わる時じゃない・・・あなたをここでは・・・死なせない!』
『! 待ってくれ!どうして君が!ノルーー』
目の前が光に包まれる。名前を呼ぼうとした彼女はその光に包まれ、見えなくなっていく。諦めず手を伸ばす。かつて届かなかったその手を、今度こそ掴むために。
手を伸ばしながら、和泉さんの意識は消えた。
「はっ!」
目が覚め飛びのく。意識は未だ朦朧とし、はっきりと周りが見えない。
『私は・・・そうだ、彼女に手を伸ばして・・・違う、駅から落ちて・・・』
だんだんとはっきりしていく意識のなか、周りを見渡す。
そこは確実に駅のホームではなかった。
地面はデコボコで黒い岩で出来ている。空は薄曇りで日は見えない。ところどころでボコボコと音が聞こえる。間違いなく駅ではない。それどころか都会でもない。まるでハワイのマウナケアのような・・・そんな場所だった。
「・・・どういう・・・ことだ?」
あまりにも不可思議だ。さっきまで九死の場面だったのに、目覚めれば知りもしない光景。自分の格好はなにも変わっておらず、むしろ自分の方が『異質』にも感じる。
「訳がわかりませんね・・・」
これからどうすべきか、考えていた時。
「お待ちしておりました。」
後ろから声を掛けてくるだれかがいた。
振り向くと、再び和泉さんは唖然とする。
そこにいた『モノ』は人ではなかった。
鱗に覆われた黒い肌。ギロリとした目。動物の皮と思われる生地でできた服(とは言い難い、生地をそのまま着ているようなもの)で身体の一部を包み、手には槍を持っている。顔は恐竜のヴェロキラプトルのような、トカゲに近いものだ。少なくとも、地球上にはいない。そんな生物が3体、2本足で立っていた。
「・・・待っていた・・・私を?」
「そうです。予言では今日とのことでしたので。」
トカゲ男(とりあえずの名称だ)は表情も変えず、無愛想に返してきた。何か目的があって私を探していたようだが、和泉さんがその探し人なのか怪しんでいる。そんな気がした。
「・・・ここはどこなのですか。」
「そうですね・・・少なくともあなたの世界ではありません、としか。」
「私はなぜここに。」
「さあ?なにせ連れて来いとしか言われてませんので。正直私も不安で仕方ないですよ。」
やはりそう思っていたようだ。とはいえここが知らない土地である以上、彼らについていくしかない。
「・・・わかりました。それで、どこに連れて行かれるんですか。胃袋だなんて言わないですよね?」
「まさか。私たちは人、ましてや転生者なんて食べやしないですよ。」
ガラガラと声を上げる。
「あなたはこれから働くんですよ。そのために我らが迎えにきたのですから。」
「働・・・く・・・?一体どういうーー」
「あなたにはこれから、魔王軍の立て直しをしてもらいます。」
「・・・は?」
「だから、魔王軍ですよ。」
・・・夢だろうか。和泉さんは顔をつねってみる。顔がひきつる。やはり現実だ。
しかし、それはあまりにも現実離れしていた。
『・・・ノルン。私はとんでもない場所に来てしまったようです。』
彼女を思い出しながら、和泉さんは進む。
先にみえるは巨大な城。再雇用先はドッシリと、道の先に構えていた。