狂気恋愛
夏祭りの会場というのは、大阪市内の公園であり、(この物語はあくまでも現実と全くもって合致するわけではなく、何せ記憶が曖昧なので、多少の史実との誤差もあるかもしれない)既に会場の公園には沢山の浴衣姿の女や男、ちらほら老人や子供も見られたが、あのショッピングモールに比べると大して差はなく、疲れていたのはもちろんなのだが、これから文香と楽しい時間を過ごせると考えただけでも体が軽くなった。私は予算として用意していた金をよろずの娯楽に使った。その娯楽というのは、主にスーパーボールすくい、更には金魚虐待(金魚すくい)であり、なぜ物をすくうのが苦手な私がここまでいろいろなものをすくったのかというと、文香がいたからに他ならない。(結局すくえたのは金魚二匹だけであり、もちろん私はその金魚たちを水に返した)文香はというと、白き雲の如き綿あめに齧り付きながら、私がすくうのに苦戦しているのを側からクスクスと笑いながら見ていたが、それはそれで私にとっては満足なことであった。
しかし、私の求めていたものとは、ここは何か違う気がする、というのも、夏祭りに酔いしれた若人たちが気分を高揚させて酒を飲み酔っ払っていたり、親が子どもの面倒をろくに見ずに遊んでいたり、甲高い声で次から次へと絶え間なく刹那も止まらずに喋る若い女がいたり、とにかく、私の考えていたものとは随分違った。いやそもそも現実とは、妄想したり、考えていたことと全くもって真逆の方向へと進むものだ。もし自らの思惑が全てその思い通りの方向へと向かっていったのならば、それはまさに予言者である。しかし、そもそも予言者なんてものはこの世には存在しない、ましてや有り得ない。無数に広がるパラレルワールドの選択肢の中から、それを的確に命中させることはまず不可能である。しかし確率はゼロではない。世界のどこの誰かが数撃ちゃ当たると言わんばかりに有り得ない予言をいくつも残したとしよう。それはこの無数のパラレルワールド、無量大数をはるかに凌駕する銀河よりも大きなパラレルワールドの、それのどこか一点で叶っているかもしれない。とにかく、時間とはそういう三次元を更に超越した存在で有り、人が時間を操ることになれば、それこそ三次元を超える生物に我々はなるわけである。
頭を冷やすと、私は何を言っていたんだろうと馬鹿馬鹿しくなった。文香と隣で歩くことができる、今はこの世界線の幸せに浸らないといけない。
ふとその時、先程から魂の抜けた、譫心になりつつある私を案じてか、文香が私の手を握ってきた。つくづくその時は、手汗を拭いておけばよかったと後悔したものだ。だけど文香のおかげで、私はいつも通りの正気に帰ることができた。
「ああ…そうそう、花火があるんだよな」
「もう…忘れないでよ!」
私たちは早めに場所取りをしておこうと結論を出して、花火を快適に見ることができる場所を探し始めた。私は毎年、中学生以来この祭には赴いていなかったのだが、花火はいつも家から見ていたし、祭の喧騒は嫌いだけど、花火だけは好きだった。かと言って、文香を私の家に誘うことはできなかった。
なぜかって、私は文香に嘘をついたからだ。
「金持ちの大企業の社長の嫡子で、国公立大学の経済学部卒業で、将来はその会社を引き継ぐ」というのが、文香の中にある私の像である。
実際はというと…
「大して経済力のない家の嫡子で、経済学部ではあるが単位はギリギリで、将来の予定は全くなく、巷でいうニート」というのが、現状である。
私は安価のアパートに在住しているが、文香はおそらく、私は大阪市内の、大きな一軒家にでも住んでいると思っているのだろう……そこが、文香を家に誘えない理由であった。
しかし、私の次の行動はというと、前述とは矛盾する行動であった。
「場所、無いね」
文香が無情にも、今我々の前に広がる現状を伝えた時、私は顔を変えずに、こう言ったのだ。
「うち、来る?花火、よく見えるよ」
その時、外野でうるさい世界の中が一瞬、音のなき世界へと変わり、我々二人のいる、その世界だけ、時間の経ち方が遅かったのだ。この言葉の意味が分かるだろうか…私は駄目元ではあったが、結果それは、彼女の、核心をつく質問だったということだ。その時私は感じた、結局は、彼女も私と一緒なのだろうかと…そんなことはあってはならないのだが、彼女の顔に浮かんだあの微妙に口角のつり上がった表情、思い込みかもしれないが、彼女の目の形、彼女の表情…認めたくなかった、目を疑った、しかし、その一瞬だけ、私は文香が、猿に見えたのだ…
私はそのあまりの醜さに目を閉じた、だがその目を開けてみると、いつも通りの、絶世の美女である文香がそこにはいた。思わず私は戦慄した、冷や汗が止まらなかった、一人だけ世界から切り離された…そんな気さえした。
「どうしたのさっきから、今日具合でも悪い?」
「あ、いやぁ…」
「家まで行こう、私も送ってあげるからさ」
優しかった。文香はどこまでも良い子だし、もう私は文香じゃなきゃ満足しなかった。文香しか見えていない、嫁にしたい、寵愛したいし、されたい。その思ってた。
だけど、そんな文香が親切に、家まで行こう、連れて行くから、と言った時、私の脳内は葛藤を繰り返した。もはや私は、純粋無垢に人を見ることが、出来なくなっていたのだ。
そして、私は文香を家まで案内した。
「ごめんね、散らかってるんだけど…」
「あ、いや、全然大丈夫だからね」
そうは言っているけど、私が家に連れ込んだその女の顔は、何か品を失っていた。私はその時の文香の表情を見て、確信した。その確信というのも、私のエゴであったのは勿論である。しかし先述した通り、無鉄砲な予言だって、無量大数を超えるほど数ある、どこかのパラレルワールドではきっと、当たっているはずなのだ。繰り返そう、文香もきっと、私と同じなのだ。
その時、窓を揺らす衝撃と爆音と共に、花火の音が聞こえてきた。私たち二人は窓際に隣になって座って、肩をくっつけあって、一緒に花火を眺めた。
幻想的な時間であった、大好きな人と隣で、身を付けて、花火を眺めている…ずっと、ずっと、この時間が続けば良いのに……そう思いながら、私たちは笑顔を浮かべながら、花火を見た。窓に反射する文香の顔も、これまたとびきり美しかった。文香がさらに私に寄ってきた、柔らかい体を私に擦り付け、私はその弾力に呑み込まれて、心も呑み込まれてしまいそうだった。私は隣の文香を見たが、文香は顔を動かさず、微笑のもと、花火をずっと見ていた。それを見て私も花火に視線を戻すと、この私の、今触ってもザラザラなこんな私の頬に、文香のふっくらとした、柔らかい唇が、溶けるようにして、私の頬を襲いました。その瞬間、私の理性というものは、唐突な狂気によって掻き消されてしまいました。私は人として最低である。自らを抑える理性すら、持っていないのだから。
私は文香を床に押し倒した。仰向けになった文香の、その唇を私は自身の唇で、その下卑な唇で、奪った、奪ってしまいました。しかし何故なのだろうか、罪悪感というものは、さらさら起きなかった。むしろ私には、文香と身を寄せて、文香の身体を支配しているという愉悦しかありませんでした。極めて尾籠な話ですが、私は血を見た猛獣のように目を見開き、文香の身体を堪能し、文香から滾滾と発せられる声を、堪能しました。しかし不思議なことに、いややはりというべきでしょうか、文香はこんな野卑は男に押し倒されても、何も嫌がってはいませんでした、そればかりか、嬉しそうにも見えました。私の目はおかしいのかったのでしょうか?いいえそんなことはありません。何故なら、私も文香も、この時を待ち望んでいたからです。私があの日、電車の中で、野蛮な猿に手を出されていた文香を助けたのは、気まぐれでは無いのです。私は電車の中で、それも遠目で文香を見た時、まさにその瞬間から、こうして身体を寄せ合うことを、心の奥で願っていたのかもしてません。文香も、これも全くの推測ですが、私と同じように、こうなることを心の底で待っていたのでしょう。純粋無垢な愛ほど、人に勇気を与えるものなんてありませんが、はっきりと私は言います、純粋無垢な愛など、滅多にありません。愛とは、私にとっては、冒瀆にしか感じられません……そんな私は、まさに、人前では良い人かもしれないが、内心は穢れきった者なのです。
おかしなものでした。
文香と花火を見たあの夜からは、いつも感じる「文香に会いたい」という気持ちなど、さらさら無くなってしまったのです。何故なら、私の願いは叶ったから、それもありますが、私は文香に合わせる顔がありませんでした。彼女を冒瀆して、穢しきった私は、万死に値します、あんなことをしておいて、文香には顔も合わせられません。
それは果たして、向こうも同じなのでしょうか。