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恋淵  作者: 森 日和
3/4

感感涙涙

翌日、やや雲が空に覆い被さっているおかげで暑さは随分と控えめになっており、今まで大阪の猛暑に耐えてきた我々にとっては快適そのものであった。相変わらず私は短パンとTシャツを着こなしただけの服装だったが、シンプルなその見た目こそが案外かっこいいのではないかと思って、さらには喫茶店のマスターの言葉「チャラチャラしすぎも合わない、やっぱり程よい感じがいい」という言葉にも後押しされての服装のチョイスである。

待ち合わせは午後三時、今日は近くで夏祭りがあるという有益な情報を入手し、午前からというのも文香には大変だろうから、文香のことを配慮しつつも午後三時という待ち合わせにしたつもりだ。私は早まる気持ちをこれまた抑えることができず、やはりいつもの三十分前に待ち合わせ場所に着いた。そうこうしているうちに文香がやってきた。今度は待ち合わせの十五分前にやってきた文香。前回私を待たせたことを悔やんでいたのだろうか、前より来たのは早かった。しかし、それよりも、文香の白いワンピース姿に私は心を奪われた。白いワンピース姿の何がいいかと聞かれれば、彼女のイメージぴったりだからだと私は答える。もっと詳しく言うなら、彼女の美しい黒髪と女神のような容姿には、白い服装が最も似合うと私は思っている。何も白に限ったことではない、美貌を持つ者誰しも、どんな服を着てもそれなりに様になるものだ。それはつまり、文香が私にとっては女神であることを意味している。

「ごめんね、待たせた?」

文香は申し訳なさそうにしているが、皆さんお分かりの通り、全ては早く来すぎた私が悪いのだ。

「あ、いや…こっちが早く来すぎたんだ、こちらこそごめんね」

私はその時、頭の後ろを手でかきつつ、微笑を浮かべながら謝った。

「さて、今日はしっかり案内してもらいますよ?」

容姿端麗、眉目秀麗、そんな文香がもったいないことに、駄目人間の私なんかに心を開いてしまっていることに、私はやや抵抗した。同時に、嬉しくもあった。

「任せとき!」

私は胸を張り、強く叩いて高らかに決意を示した。下からそれを笑いながら見上げる文香、しかし今回、私の目線は彼女の別嬪な顔よりも、上から覗くことができる胸元に行った。ワンピースの胸元が普通よりも広く感じたのは、果たして気のせいなのだろうか…


「ちょっと本屋に寄っていい?」

ショッピングモールに着いた時に、文香が私にそう伝えて来た。私たちは烈烈と流れる川の如く人の波に乗り、四階にある大きな書店へとやって来た。

「あった!」

文香が手に取ったのは、小説がずらりと並んでいる、それこそ私にとって、見るのも嫌になる光景の中の、その端の端の本棚から、文香は一冊の本を取り出した。

「これよ、実は私の友達が書いているの」

「ほぉ…」

私には友達はいたけど、みなパッとしない職に就き、仕事に追われる日々を送っていたので、友達が小説家だという文香の気持ちを探ることはできなかった。とは言えども、ここまで大きな書店の、それも端っこの本棚にポツンと置いてあったのだから、あまり売れていないことは察したが、そこは口をつぐんだ。

「ありがと、で、どこへ行くの?」

文香の言葉で我に帰り、私は考えていた計画を思い出したのだが、書店へと立ち寄ったことで、考えていたニュースにも乗るくらいのパフェ店とは、いやはや随分と遠くなってしまったのだ。それでも私は文香とパフェを食べる、食べたいが一心で人混みが溢れかえる中、遠いパフェ店へと足を運んだのだ。だがもう察しているやもしれぬが、テレビで取り上げられるほどのパフェ店は、行列が絶える事など知らない。私の計画は早速跡形もなく粉砕され塵となってしまった。

「困ったなぁ…」

私が頭を抱えているその傍で、当の文香は私に対してどのような感情を抱いたのか。私は文香をがっかりさせたに違いない、それが無性に怖かった。嫌われたくなかったのに…私は早速、どうしようもなく阿保な失態を犯してしまって、それからというもの、文香がどう思っているか、しばらくはとても心配であった。

そんな私を救ってくれたのも、これまた文香であった。

文香は問答無用と言うように私の腕を掴んで引っ張り上げて人混みの中に突撃を仕掛けた。何人の人に「すいません」と言ったかは分からない、そうして人混みを抜けた私たちの前にあったのは、パフェ店の向かいにある、ちっぽけな店だった。看板には「珈琲」と小さく記載されており、そこが喫茶店であることは、外からでも伺えた。

文香はこれまた私に一言も無しに店に入った。

「いらっしゃいませ!」

中から威勢の良い、良すぎる、そんな声が聞こえてきたかと思えば、長身の顔の彫りの深い男がとびっきりの笑顔で私たちを席へと案内した。テーブル席であった。

「いやはや、一ヶ月ぶりのお客さんだ…ほんとに嬉しい!そこの別嬪さんとハンサムさん、珈琲一杯、タダにしますよ!」

とんでもなく上機嫌なマスターは、すぐにカフェオレを入れて私たちの席に持ってきてくれた。

「ではでは、ごゆっくり…ぎゃ!」

はしゃぎ過ぎて、勢い余って何もない床で躓いたマスターのせいで、私たちはまた大爆笑に駆られた。笑いが冷めると、文香が、カウンターの方にいるマスターに、おそらくわざと聞こえるように言った。

「この店、とても綺麗にされてありますね」

文香の感慨深い一言に、長身のマスターはこれまた天にも昇るほど嬉しそうな顔を浮かべて、こちら、テーブル席の方にやってきた。カウンターの椅子を一つとってきて、私たちのテーブルの横に座ると、話を始めた。

「ありがとう、とっても嬉しいよ。何しろこの店は私の宝物なんだからね…きっと君たちが、最後のお客様なんだけど…」

声の大きさをどんどん小さくしながら、マスターはそう語った。マスターは莞爾として笑っていたが、その内心は、察すれば察するほど私の心を痛ませた。私たちは何一言、口を開くことができなかった。

「この店はね、おじいさんの代から代々続いているんだな…その当時はそりゃ大盛況でさ、なにしろこの珈琲ね、素材から製法まで、ありとあらゆるところで、こだわって、こだわって、作るものだからさ。おじいさんの珈琲は、昔の喫茶店特集にも載ったんだぜ」

マスターは私の飲み終えていない珈琲を指差して語った。私たちはそれを、固唾を飲んで見守った。

「それがね…親父の代から、このショッピングモールに移転したんだけどさ…場所が悪かったよ。向かいのパフェ、ありゃ認めたくないが、とびきり美味かったよ。勝てるわけないと思った。品揃えは豊富だし、スイーツとして別格だし、こっちにだって珈琲一筋五十三年の誇りはあるさ、あるけど、珈琲一筋であのパフェと戦うのは、馬鹿馬鹿しく思えたよ。当然負けたさ、なにしろスイーツは人気だ、今や缶コーヒーなるものも生まれたし、正直わざわざここまで足を運んで珈琲を嗜んでくれる人なんて今やもうゼロだ。いや、君たちがいたけどね……ありがとう。君の言葉に僕は救われたよ。ずっとずっと、毎日お客さんのことを思って、店の掃除は一日たりとも疎かにしたことがなかったし、店の経営が厳しいからって、珈琲の質と値段は落とさなかったし……神様、ありがとう。僕は、この店をやってて、良かったです」

外野の声を除いて、私たちは神秘的な沈黙に包まれた。その沈黙を、まさしく神がかったタイミングで、文香は打ち払った。

「この珈琲、今まで飲んだ中で、一番美味しかったです」

文香がそう言うと、マスターは涙を流した。ぼろぼろと、下の床に、小さな水たまりができるまで泣いた。泣いて声がかすれていた。

「別嬪さん、名前は?」

「文香、です」

二人は私を蚊帳の外にしながら、涙笑った。

そうこうしているうちに、私は珈琲を飲み干した。確かに、今まで飲んだ中だ一番うまくて癖になる珈琲だった。前から近所にこんな美味しい珈琲を入れてくれる店があることを知っていれば、きっと定期的に足を運んでいただろう。

「ありがとうござぃした」

マスターは私たちに深く頭を下げて、とびきりの笑顔で、とびきりの挨拶をしてくれた。彼の、おそらく最後のお客様への挨拶、噛んでしまったことには気づかないフリをした。

私たちの胸は、感動で満たされた。

「さて、次は花火でしょ?」

「え…なぜ分かった?」

「分かります、それくらい」

どうやら次のデートスポットはお見通しのようだ。私たちは随分と人が減ったショッピングモールを後にし、夏祭りが行われる大きな公園へと出発した。

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