偶然交錯
これから話すのは、私の一夏の経験である。その時の私は大卒しばらくの社会人で年は二十四、職には就いておらず、不毛な日々を送り続けていた頃だ。私はその時、確か高校の時分に知り合った友人と久々に食事に行くことになり、天秤にかけるならば渋々、その食事とやらに伺おうとしていたのだ。
それはある夏の蒸し暑い日だった。そんなこともあって、私は無心に弱冷車で涼みながら、車窓から見える田舎びた街々を眺めていた。海がすぐそこにあると言えるくらい近くにあり、遠目に微かな海が見えるらしいが、あいにくその日は晴れ晴れしていたにも関わらず見えなかった。そんな細かいことまで、今でもよく覚えている。何せその日は、私の人生の歯車が、いい意味でも悪い意味でも狂った日でもあったのだから。
その日の午後であった、猛暑の中で友人との食事、とは言っても、海辺でバーベキューをするというものだが、急行列車のアナウンスが流れてきて、ともかくあと二駅で到着というところで、私の耳に入ってきたのは、電車の中で起きたであろう喧騒の声だった。
見ればそこには猿が一匹、いやそれは私の錯覚だったのだが、ともかく男の手の先には女が一人、それは遠目から見る限りでは猿が手を出すのは無理もないと頷けるほどスタイルが抜群である。ここでいうスタイル抜群とはただ単にモデルのように細くすらっとしていることを言うのではない。いかに女性らしさが溢れ出ているか、もちろん溢れ出すぎていても猿は目をつけないだろう。程よい、程よい、程よい…猿はこうして三度脳内で感嘆の声を上げながら、その女を品定めしたことだろう。品定めという言い方は非常に失礼であり、その言葉を用いたことには謝罪するが、それが猿の心境を表すのにもっともな表現であることは理解していただきたい。
さてその車内での喧騒だが、あいにく同じ車両には人が少なく、加えて休日のこの時間帯となると、見える限りでは戦力にもならなそうな老婆や気の弱そうな華奢な男がいるばかりである。もっぱら私だって、普段は猿にせがまれて嫌がっている女を助けようなどということは考えない。行動に移したところで喧嘩になるだろうし、私は喧嘩か嫌いだ。
しかしその時の私は違っていた。私は強い衝動に駆られていた。どこから湧き上がってきているものなのか、そんなものは当初分からなかったが、ともあれ私は猥褻なその男の手を取ると、思い切り捻ってやった。それだけで堅強な男といえど呻き声を上げてやめてくれとせがむものだから、久々の人への暴力も悪くないものだと感じた。堅強な男はそこらの野蛮族のような格好をしており、髪も染められてた。しかし見た目のボリュームがでかいだけで、態度はそんなこともなかった。私が男の手を取り腕を取り、今にも骨を反対向きにするかもしれないというところまで曲げてやると、男は呻き喘ぎ、手を放してやっても反撃はおろか尻尾を巻いて逃げていった。
私はその時、後ろの女のことをすっかりと忘れていた。ただ男に力で勝ったかのような優越が胸を占めていた。生物とはもとより、男は力をもってして女を奪うことを伝統としている。この場合、私が力をもってして男を蹂躙し、女を手にしたことになる。それを考えるだけでも、当初の私は愉快な気持ちとなった。しかし後ろの女が礼節に御礼を申し上げてきたものだから、私のその気持ちは一旦お預けとなり、女の方へと頭を向けた。
その時私は霹靂に撃たれたかのごとく強く衝撃を受けたのを覚えている。その女の抜群の体と服装。アルビノではない、程よい白さを帯びた肌に、それと対蹠な神々しい黒く長い髪、美しさが際立つ顔立ちに、けしからんくらいに短いミニスカートに上のジャージ一枚だけを羽織っているだけの服装。その服装に関しては、一目で海で泳いできたあるいはプールで泳いできただろうことが分かる服装であった。ともかくそれが、女の体が遠目からでも伺えた理由だったのだ。
私はいえいえと莞爾を浮かべて頭を下げて、女に背を向けた。
その後に車内アナウンスが私の目的の駅をコールしたのは、私の身に起きたこれらの出来事が、ほんの、たったの二駅の間で起きたチンケな出来事だったことを暗示している。見れば、私の後ろの女もここの駅で降りたではないか。女は私のことを尻目に見ながら、私を抜かしていった。その時の尻目で私を見る女の顔が忘れられなかった。艶やかな黒髪を揺らしながら私を脇目に見据える彼女の目、それはこの世の何事にも変えがたい美しいものであった。刹那、咄嗟に私は女の肩を掴んで強引に引っ張り、女の体をこちらに向けた。品定めをしたら、ああ…麗しく美しい顔と程よく膨らんだ体、私が見惚れた理想、全てがそこにはあった。普段は宝物庫にすら興味を持たず脇を去ってしまうであろう私とて、その時は野蛮な猿のような卑猥な顔を浮かべていた。
「ライン、交換しましょう」
普段おとなしい私が野蛮な猿に取り憑かれたかのように女にラインの交換をせがんだ。女はそんな私を見て何を思ったのか…それは分からなかった、しかし、女の顔は笑っていたと思う、それだけはこの二つある目ではっきりと見たことである。
「それくらい、いいですよ」
私の期待を裏切るように、女はさっぱりとした対応をした。私はこの時、例えづらい功勲のようなものを体感した。しかし、二人だけの時間はそれだけたった。この日、友人と会った私だが、再開の嬉しさというものはとうに忘れていたようだ。面倒くさいけれど仕方なく赴いたというのもあるかもしれないが、それよりもおそらく、この女に会いたいという衝動が私の中に燃え盛り続けていたからであろう。飯も美味しいとは感じなかった。あの女と一緒に食べることができていればきっと最高に美味しい飯になっていただろうに…男とはそんなものだ、常に儚い想像が脳裏にへばりついているのだ。
北へ向かう帰りの電車でも、ひょっとしたらあの女が…なんて思ったりもした。それは男特有の妄想癖、残念で無意味なものに過ぎない。しかしそれを分かっていながらも、私は妄想を止めることはできなかったのである。
家に帰ってまず感じたのは、とんでもない虚無感とその根本にある満足感であった。
翌日になっても、その欲望は消えなかった。あの女にもう一度会えればそれでいい、その時の私は直接的ではなくとも、間接的に女に支配されていた。そう言うと語弊が違う気がするので、ここでは、私は頭の中から女を離すことができなかった、としておく。
ともかく私は思い詰めた。昨日私がラインの交換をせがんだ時に女が浮かべた笑顔の意味を必死に探ろうとした。何をもって女は笑顔だったのだろうか、これは認めづらい答えだったが、つまり私が美形であったが故に女も私に惚れたのではないかと仮定をつけた。その仮定というものは、まさしく私のエゴイズムであったが、当時の私にはその答えしか考えることができなかった。エゴで満たされただけの答えに浸り、満足していた猿のような男がそこにはいた。
女のことで頭が一杯であった私は、夏の暑さも三度の飯も忘れていた。今日もその時と同じで、狭い狭い私の部屋の周りでは蝉がミンミンジンジン鳴いている。そんなうるさい蝉の声ですら耳に届くことはなかった。
私の我慢は限界であり、欲望は独り走りして、私は昨日彼女と交換したばかりのラインに早速コメントを打った。それは結果としては愚行であったのかもしれないが、当初の私はそんなこと微塵にも思っていなかった。私は工夫をした。ストーカーや変質者と思われないように文面に工夫を凝らし、そうして試行錯誤の末に辿り着いた二行ほどの単純な文章
(今度よければ、食事に行きませんか?)
そう書き留めてラインに送った。返事が返ってくるまで、既読という二文字が私の送った文章につくまで、そして返信をもらうまで、私は複雑な期待と不安の気持ちから、ラインの画面から離れることができなかった。
五分程待つと既読がつき、やがて簡潔な文書でまとめられた返信が返ってきた。
(今週の日曜日とか、どうですか?)
私は束の間も待たずに承諾の返事を返した。
その時の功勲勲功に浸る私の顔はさぞ気味の悪いものだったことであろう、しかし、いくらそれに対する誹謗中傷やら暴言やら吐かれたところで、その時の私には馬の耳に念仏だったことだろう、なぜなら私の心は満たされたからである。
今週の日曜日まであと三日、文香の地元で会うことになった。私は待ちきれなかった。一刻も早く女に会いたい気持ちしかなかった。こうして長い長い三日が過ぎた。私は運命の日曜日、人生最大の勝負に出る、それくらいの過剰な意気込みをもって、予定よりも三十分も早く集合場所の堺の西の方の某公園に着いた。
「おはようございます」
待ち合わせの時刻、朝九時よりも十分早く女は到着した。夏である故にお互い肌の露出が多く、特に女は短パンを履いて颯爽とした雰囲気を漂わせていたが、それでもしっかりと体は見ることができた。そんな女が遠目から歩いてくる、ただそれだけで私の心の臓の鼓動は一段と高まった。緊張と期待と不安と…いろいろな思いで胸が張り裂けそうになる気持ちであった。
私は女をエスコートしようと必死に口を開き続ける努力をした。
「あなたの名前は?」
そう尋ねると、女はその美しい顔を上げて微笑で答えた。
「文香です」
私は女…文香と、まずはお互いの素性について語ろうとした。それについては向こうも同じことを考えていたらしく、お互いを十分ニ十分に知ろうと、お互いが様々な質問を投げかけては答え、レストランに向かう間の、そうやって二人仲睦まじく話すことが何より楽しかった。
「へぇ〜、結構北に住んでるんですね」
「まあそうなんです…へへ」
「私はラインでも申しましたが、この辺りに幼い頃から住んでます。ここは緑が豊かで、それはそれは大好きな故郷ですよ」
「いいことですね。私の故郷なんてビル群の中ですから」
「いえそんな…でも堺はいいところですよ」
後述になってしまうが、私は大阪市内の方に在住している。生まれた時から常に周りにはビル群がそびえ立っており、緑とは無縁であった。幼少期、小学生の頃は体操をしていたが中学入学の時に辞めて、そこから堕落の中学生活を送り、受験も失敗し、高校に入っても何もやることがなく、女にも恵まれず、大学も成り行きで決めた。サークルには入ったものの面白くないのでいつしか幽霊メンバーとなり、単位はギリギリで取得したものの就職できず、四半世紀何一つ取り柄のない人生を送ってきたと言っても過言ではないのだ。
しかしこの期に巡ってきた人生最大の勝負所をむざむざ見逃すわけにはいくまい。私の黒い歴史は全て包み隠して、私は必死に自分のいいところを見つけようとしたが、見つけることなど到底できずに、彼女に嘘をつく羽目になってしまった。
「へぇ〜、すごいですね!」
私だって、初めは嘘をつこうとはさらさら思っていなかった。しかし自分を誇張しようとしたあまり、金持ちで学歴も優秀でなどという無様な嘘をつくことになってしまった。しかし文香の溌剌とした褒め言葉を聞ければそれでよかった。文香の声が聞ければ、罪悪感も和らいでいった。きっと私は最低だ。
「あ、着きましたよ」
およそ三十分歩いただろう、文香が私を連れてきたのは、決して華美なレストランなどではなく、なぜかごく平凡な、その辺りにでもいっぱいありそうなファストフード店であった。
「こんな店で悪かったですか?」
文香が覗き込むようにして私に問うてきた時に、私の中の直感に電撃が走った。文香は私を試しているのだ。この時の私は自意識過剰で神経質過ぎたかもしれない、が、文香が男と入る店にわざわざこんな安っぽい(ファストフード店が安っぽい訳ではないが、これはあくまで私の怒りである)店を選ぶことが気になったのだ。私と入る店に、わざわざ高級なレストランを選ぶ必要なんてない、私はそんな品のある人間じゃないというメタファーだったのか、いや、これはおそらく、私の器を試しているのだろう。ここで文香がこの店を選んだことを責めて咎めだとすると、文香は間違いなく私のことを器が小さくて短気で自己愛が強い人間だと見なすことだろう。ここはその可能性も考慮して、私はここで優しい言葉をかけることにしたのだ。
「いえ、この店は大好きなので」
「そうでしたか、良かったです」
淡々と話が進んだが、とりあえずこれで文香にとって好印象を押し付けることができたと当時の私は思った。店に入ると、狙い通り、まだ人は少なく快適な空間が広がっていた。早過ぎるお昼ではあるが、楽しいデートになれば何でもいいのだ。
店に入り、私と文香がパスタを頼んだ。パスタが来た後も、私の大車輪の活躍により会話は順調に弾み、いつしか文香からも話を振ってくれるようになっていた。
好きなもの、趣味など、交流の初歩的な段階の会話が多かったが、文香と私では意外に共通点が多くて、それはそれは楽しい会話となった。さらに、文香は飲み物がなくなると、毎回水を入れてこようかと聞いてくれて、私はそれに甘んじるのだ。こんなにも楽しいことがあるだろうか。こうなれば、私は神に感謝するしかなかった。そして目の前のパスタを食べ終わってしまうことを躊躇った。




