朝妻滉のこれからは
異世界に飛ばされたときの記憶は、曖昧だった。朝妻滉が気付いたときにはもう、彼は檻の中にいた。
今となっては思い出したくない出来事が連続した。自分と同じように檻に閉じ込められていた異世界の人間たち――言葉も分からず右往左往するしかなかった。ダンジョンに放り込まれ、異形の魔物に追われる日々。命からがら逃げのびても誰も労うことなく、何の成果もないことを叱られる。
どうやら魔物を倒さなければならないということは、すぐに察した。魔物を倒した人間にはまともな食事を用意されたが、そうでない人間には水と残飯を与えられるだけ。しかし滉は戦う力を持たなかった。空腹に耐えかね、小型の魔物と正面からやり合ったが、傷一つ負わせることかなわず、腕を負傷した。
そしてあっさりと見限られた。治療をしてくれることさえなかった。奴隷商人と思しき男が滉を引き取り、馬車で長い旅をした。傷が酷く痛んだが、それ以上に熱が出て息が苦しかったのが辛かった。意識は朦朧として、その辺の記憶も曖昧だった。
闇市に出され、そこでも劣悪な環境に置かれた。召喚局が闇市に乗り込み、滉たちを巨大な車の中に押し込めた。召喚局に着いてすぐ、奴隷たちは2グループに分けられたが、恐らくは能力の有無で分別されたのだろう。
それからまたどこかに連れ出された。そこでもまた檻の中。もううんざりだった。色んなところを連れ回され、人間としての扱いを受けない。ここで死ぬのだという諦念が頭の中を占め、傷の痛みを紛らわせることばかり考えていた。
「私は今、あなたをカネで買いました」
ツバキの言葉。日本にいた頃にそんなことを言われたら、反感どころの話ではないだろう。しかし滉は今、突如飛ばされてきたこの異世界の環境に絶望を感じているところだった。優しそうな女性の真っ直ぐな眼差しとその温もりある声音に安堵を感じ、張りつめていた気持ちがプツンと切れた。滉は気絶し、目の前の女性に自らの運命を委ねることを暗に了承したのだった。
そして次に目覚めたとき、滉は傷が完治していることに真っ先に気付いた。あれほど痛んでいた傷が塞がり、衣服も新品に整えられている。
ベッドに横たわっていた滉を、心配そうにツバキが見ていた。滉が躰を起こすと満面の笑顔を見せてくれた。
「どこか痛いところはないですか? 今なら無料で追加の治療施術を受けられますが」
「大丈夫、大丈夫だけど……」
滉は異世界に飛ばされてから、魔法だの魔物だのを目にしていたから、自分の躰がすっかり治っていることに驚きはしなかった。きっと治療魔法でもかけてくれたのだろう。しかし代わりに、今自分がいる部屋の様子に驚いていた。清潔で、温かく、仄かに薬品の匂いがする。こんな上等な部屋で休むのは初めてのことだった。
滉が立ち上がると、ツバキが手を差し出した。滉はそれをじっと見つめる。
「朝妻滉さん。これからよろしくお願いします」
「ああ、はい……。どうも」
滉はツバキと握手を交わした。ツバキは女性としては中肉中背、滉より頭一つぶん小さいくらいだった。赤みがかった金髪と、人懐こそうな顔が印象的で、衣服は滉が今着ているものよりみすぼらしい。
「ツバキと申します。父と母が異世界人で、二世ということになるんでしょうか」
「ツバキさん、か……。俺は朝妻滉。あの、俺はこれからどうなるんだ……?」
「これからの話は後で。滉さん、こちらの世界のことをよく理解できていないでしょう?」
「それは、まあ……」
ツバキはしっかりと頷く。
「まずは説明をしないといけません。ここで話をしてもいいですが、ここはまだ“館”の中なので、そろそろ出ないと怒られそうです。街に出ましょう」
「あ、ああ……。あの、ツバキさん?」
「何ですか」
「どうしてあんたは俺に親切なんだ? 見るからに貧乏そうだし、俺を買うのだって、結構きつい出費だったんじゃないか?」
「ああ……」
ツバキは少し気恥ずかしそうに笑んだ。
「打算がないわけではないんです。滉さんに働いてもらえたら、私にとっても旨味があるわけです。ですから、そう負い目に感じることはないんですよ」
「ああ、そっか……」
そうだよな。単なる親切心から助けてくれるはずがない。この女性も自分をあの恐ろしいダンジョンに放り込むつもりなのだろうか。まだ安堵するには早いかもな……。滉は気を引き締め、ツバキと共に“館”を出て行った。
館の外は夜になっていた。街灯の光はどれもこれも変わっていて、赤いものや青いもの、虹色に変化するものもあった。気紛れな光の配置は、街灯のランプの中の妖精たちの趣味のようだった。
「アレの名前はなんていうの。妖精みたいなの」
「妖精で合っていますよ」
ツバキが即座に答える。
「滉さんの世界にも、妖精のような存在がいたのですか」
「いない。いないよ。あれ、便利だよなー……。照明だけじゃなくて、火を起こしたり、水の流れを変えたり、鉄材を変形させたり、色々できるらしいじゃないか」
ツバキが意外そうな顔になった。
「どこで知ったのですか? 今までこちらの言葉も理解できなかったはずなのに」
「旅の途中で色々見たんだよ。傷を負って、頭がぼうっとしていたはずなのに、結構見ているもんだよな……」
「そうですか」
ここでぐぅっ音が鳴った。滉は自分の腹を押さえたが、ツバキも同様だった。赤面っぷりからしてツバキの腹の虫が暴れ出したようだ。
「しっ、失礼しました!」
「お腹空いているの? まあ、俺もだけど……」
ツバキが通りに面している飲食店を指差す。
「あなたを買う為に節約していましたが、今なら思う存分食べることができます! あそこに入りましょう」
二人はその飲食店に入った。夕食の時間ということで店内は8割がた埋まっていた。店主はツバキと面識があるらしく、カウンターの奥で手を上げた。
「ああ、お嬢さん。生きてたんだね」
「おかげさまで」
ツバキは苦笑し、懐から貨幣の入った袋を示した。
「何とかお金の都合がつきましたので。今日はちゃんと払いますよー」
「そりゃ良かった」
ツバキと滉はカウンター席についた。そこで料理を注文する。壁に貼り付けてあるメニュー表を難なく読むことができた。日本語で書かれているわけでもないのに読めるのはなかなか不思議な感覚だった。
「あまり表記を信用しないほうがいいかもしれません」
ツバキがメニュー表を指差して言う。
「翻訳魔法は万能ではありませんからね。異世界の料理を端的に言い表す単語が、あなたの使っている言語の中に無い場合、わりといい加減に翻訳しますので」
確かにメニュー表にある「ボルシチ」だの「スパゲッティ・ボンゴレ」だの、異世界には似つかわしくない料理名だ。それに似た料理を指しているということか。
「ええと、じゃあ、グラタンで」
「私もそうしましょう。飲み物はココアでお願いします」
「あいよ」
料理を待っている間にもツバキの腹が鳴る。彼女は恥ずかしそうに俯いていた。
「……よっぽどお腹が空いてたんだな」
「三日も何も食べてませんでした。普通、断食すると、腹の虫もそうそう騒がなくなるものなんですけど、もうすぐ食事にありつけると油断した途端、冬眠から醒めるようですね」
「み、三日も? ええと、こっちの世界の三日って、俺の知ってる三日と同じだよな?」
「はい、同じです。そもそもこちらの世界に召喚する異世界人は、こちらの環境にすぐ適応できるよう、厳選されています。あなたの住んでいた惑星と、こちらの世界の星の大きさはほとんど同じのはずです。衛星の有無や恒星との距離や自転速度、あるいは大気中の酸素濃度や身体の構成物質、免疫能力等々。ですから時間の感覚もおおむね一致していると見て良いでしょう」
「へえぇ? なんというか、色々と条件をつけて厳選していたら、呼び出せる人間なんてほんの僅かな気がするけど」
「おっしゃる通りです。しかし異世界の数は無限です。条件に合う世界を探し出すのは根気の要る作業ですが、条件に合う世界を一度見つけ出せば、そこから複数人の人間を召喚することが可能です」
滉は腰を浮かしてツバキに驚きの眼を向けた。
「……ってことは、俺の他にも、ここの世界に召喚された日本人がいるってことか!?」
「というか、いますね。あなたへの翻訳が一瞬で完了したのは、既にニホンゴを話す人間がこちらの世界に来て、言語の解析を受けていたからです。そういった解析データは、翻訳魔法の遣い手の間で共有され、翻訳作業の簡略化に一役買っています」
「……気になっていたんだけど、ツバキさんの両親って、日本出身じゃない? ツバキって名前が日本的なんだけど」
ツバキはきょとんとした。
「いえ……。私の父はノルグダ、母はピレスという世界の人間でした。ノルグダは星の大部分が氷に覆われている厳しい環境の世界で、おかげで父は毛むくじゃらです。ピレスは水の惑星で、陸地がほとんどなく、母の指の間に水かきがついていましたね」
召喚する人間を“厳選”していると言っていたが、水かきが付いているくらいなら、召喚しても問題ないのか。まあ、地球人の指の間にも水かきの名残のようなものはあるわけだが。
「そっか。でも、不思議だな……。全く別の世界の住民同士が交配できるのか」
「できませんよ」
ツバキはあっさりと言う。滉は驚いた。
「――できないの!?」
「ええと、生々しい話になるのでアレですが、ええと、その、“行為”自体はもちろん可能です。でもそれで子供が生まれることはありません」
「じゃあ……」
「魔法科学の賜物ですね。人工的に交配させてしまうのです。優れた能力を持つ異世界人の特性をかけあわせて、より強力な種族を生み出そうとしているわけです。まあ、それで良い結果が出るとは限りませんが」
それって、キメラじゃないか。いや、でも、見た感じツバキは普通の人間の容姿に思える。というか、髪の色を除けば日本人と言われても納得できる。ツバキに日本人の血が流れているのではないかと滉が最初思ったのはそういう理由もある。
「じゃあ、ツバキさんにも水かきとかついているわけ? 実は体毛が凄いとか」
ツバキは顔を赤らめた。
「ふ、普通、女子にそういうこと聞きます? あなたの世界ではそういうデリカシーがないんですか?」
「いや、あるけど、ごめん」
ツバキは頬を膨らませた。
「まあ、別にいいですけれど……、体毛は別段濃くないと思いますね。あなたと同じくらいだと思います。で、水かきもほとんどないですね」
「お父さんとお母さんの身体的特徴をあまり受け継がなかったわけだ」
ツバキは頷く。
「そういう例は少なくないそうです。ただ、ええと、隔世遺伝という言葉は知ってますか?」
「ああ、うん。学校で習ったな。劣性遺伝子の影響が孫世代以降に出てくるとか、そういう感じの」
「そうです。ですから私の子孫にそういう特徴が出てくる可能性はありますね」
顔は母に似てるんですけどねー、とツバキは言う。そのとき店主が料理を持ってきてカウンターの上に置いた。
「はい、お待たせ。これはサービスだよ」
頼んだ料理は一品だけのはずだが、豪勢な肉料理をはじめ、二人の前が皿でいっぱいになった。ツバキはあたふたしている。
「ああ、お、お金そんなに持ってませんよ、私!」
「サービスだって。腹減ってるんだろ? 遠慮するなって」
店主が何でもないことのように言う。ツバキが満面の笑みになって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
滉も頭を下げた。そして滉の腹の虫もようやくご馳走にありつけることを察したのか、ぐぅと鳴った。
「あ」
滉を見てツバキは笑っていた。
「滉さん、たくさん食べてくださいね。これからあなたには働いてもらわないといけませんから」
「働く、か……。どんなことをすればいいのかな」
「うーん、一番手っ取り早いのは攻略済みダンジョンの掃除ですかね。危険も少ないですし」
「ダンジョン……」
あまり良い思い出がない。ツバキは早速料理を頬張りつつ、
「私も手伝いますよ。どうせここの食事代を払ったら無一文になってしまいますからね、生きる為にはダンジョンに潜るしかないわけです」
無一文って……。この人、よほどの覚悟を持って滉を買ったのだな。行き当たりばったりというか、何というか。滉が全くカネを稼げなかったらどうするつもりなのだろう。
そもそもどうしてツバキはカネを払ってまで滉を買ったのか。ダンジョン攻略とやらに執心しているのか。でも、ツバキ自身がダンジョンに挑むというのなら、わざわざ滉を買わなくとも、他の異世界人と共闘して挑戦すれば良さそうなものだが、そうしなかったのはどういう理由だろう。
こちらの世界について分からないことはたくさんある。この機会に全ての疑問を解消してしまおう。料理に手を伸ばしつつ、滉はそう思った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
○翻訳魔法の威力
異世界から召喚した人間の言語能力を解析し既知の言語への翻訳を行うのが、翻訳魔法と言われる技術。一度解析した言語をデータベース化し、翻訳魔法の遣い手の間でそれを共有することで、翻訳作業の簡略化に一役買っている。日本語の場合、いちいち純粋な日本語とカタカナ英語のような外来語の区別をせず翻訳に利用するので、日本人が日常的に使っているような言葉を再現できる。朝妻滉はフェリーグに来た最初の日本人ではないので、彼自身が知らないような難しい日本語も、翻訳の結果出力されてくる可能性がある。翻訳の影響が固有名詞にも滲み出てくることがあり、ツバキの名前が妙に日本人っぽいのも翻訳魔法の弊害である可能性が高い。




