序章 2
翌日。
三善は気晴らしのために聖典をめくっていたが、すぐに飽きてしまった。頁を静かに閉じると、壊れ物を扱うかのようにそっと机の上に置く。
長年使用している革張りの聖典は、既にあちこちが擦れており、かなり汚れていた。表紙に書かれた文字も手にした当初は金の箔押しとなっていてとても綺麗だったのだが。今はそれらもすっかり剥がれ落ちてしまった。Bibleの文字は既に申し訳程度にしか残っていない。正直、一体どんな形の文字だったか思い出せない域に達していた。
あれはその程度の価値だったのだろうか。ちらりと不穏なことを考えたが、三善は否、と首を振る。
変化とはそういうものなのだ。自分が変わり続けるように、この聖典も変わっただけだ。そう思えるほどに、彼はこの本と長い時間を共にしてきたのだった。
そんなことを考えていると、私室の扉を誰かが叩いた。
「どうぞ」
声をかけると、顔を覗かせたのはホセ・カークランドだった。真っ白な聖職衣に、緋色の肩帯。思えば、三善が知っている彼は初めからこの恰好をしていた。
自分が彼と出会うよりも前から、彼はこの色の聖職衣に袖を通し、その真摯な眸で世界の行く末を見つめて来た。遙か遠くにいるべき人物だと思っていた彼は、いつの間にか近くにいた。再び気が付いたときには足並みを揃えていて、今日を境に彼を追い越そうとしている。不思議なものだ。これは経験してもきっとその良さが分からない類のものなのだろう。
ホセは独特のアイボリーの瞳を三善へ向けると、微笑みながら言う。いつも通りの穏やかな表情だ。
「主席枢機卿が御目通りしたいとのことです。どうかお支度を」
「ああ、うん……。分かった」
少し思うところがあり、三善はつい曖昧な返事をしてしまった。
それをホセはどう捉えたのだろう。ふっと安堵にも似た表情を浮かべたかと思うと、いつもより優しい声色で、
「ヒメ君。……三善」
と噛みしめるように呼んでくれた。
ぴくりと三善の肩が微かに震える。胸の内に走ったのは微かな動揺だ。しかし三善はその動揺すらもなかったことにした。すぐに顔を上げると、苦笑しながらホセに尋ねる。
「他のプロフェット達はもう準備はできているのか? 特に『十二使徒』と『守護聖人』あたりは」
「ええ。本部の職人たちが徹夜で拵えてくれたようです。あなたの衣装も、彼らの衣装も」
「そっか。ならいいや」
そう言いながら三善は椅子から立ち上がった。彼もまた、正装で臨むべく着替えてはいた。しみひとつない、真っ白い聖職衣だ。しかし司教のそれとは異なり、襟元や袖口など、至るところにさりげなく金糸で飾りが施されている。
「よくお似合いですよ。あなたのご尊父様を思い出します」
ホセがそんなことを言うものだから、三善はすっかり困ってしまった。
「ホセ。親父は、どんな人だった?」
彼に会ったのはたったの一度きり。最低限の会話のみ交わしただけので、その人となりはよく知らない。なんとなく諦めの悪い性格は彼に似たらしい、というところまでは察したが。
ホセはそうですね、と慎重に言葉を選び、
「内面はあなたに非常によく似ています。まあ、時々傲岸不遜な面はありましたが……時々思います。あなたの隣にわたしではなくあの人がいたならば、それが最善だったのだろうと」
よせよ、と三善は首を振る。
「あんたがおれの父親だろ。譲らねえよ」
「そしてその減らず口はもう一人の父親に似てしまったと。否……兄、ですか。あのひとは」
「おれは家族にだけは恵まれているな、本当に」
そこまで言うと、三善は椅子の背に無造作にかけていた緋色の肩帯を引っ掴んだ。こちらも聖職衣同様、いつも身につけているものよりも格段に上質なものだ。それを首にかけると、「曲がっている」とホセに駄目出しをくらった。
渋々直してもらうと、三善の耳元でホセが囁いた。
「ところで、あなたの教皇名ですが。ヨハネス二世ではないのですね」
「ん? ああ。親父と一緒の名前は嫌だったんだ。だからと言ってペテロは暗黙の了解で避けるべきだし」
「『事実』なのにね」
「あれは借り物だからな」
そう、ケファの――と呟きかけて、三善は口を噤んだ。
ホセは苦笑しつつ、眠そうにしている三善の両肩を叩く。ヒメ君、と呼びかけながら。
「どこまでいっても、あなたが『姫良三善』であることには変わりない。その名前に込められた願いを、絶対に忘れないで」
逆に戸惑ってしまったのは三善のほうだった。別にホセ自身が名前を変える訳ではないのに、とも思う。しかし、育ての親としてはそのあたりが非常に気がかりだったようだ。それを、三善は否定したくない。否定すべきでもない。
そんなことを考えていると、
「三善」
突然ホセは三善を両の腕で抱きしめた。
彼の行動に驚いた三善は、何が起こったのか分からずに思わず身体を硬直させる。少なくとも、ホセと過ごした八年間のうち彼がこのような行動に出たのはたったの一度きりだ。ホセ? と短くその名を呼ぶと、ようやくホセは口を開いた。
「私たちはあなたにばかり辛い役目を負わせてしまっている。ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」
それはまるで独白のようだった。
三善はしばらく目を見開いたまま凍り付いていたが、ややあって、行き場のなかった両腕をホセの背へ回す。
「なぜ、あんたが泣くんだ」
「あなたが泣かないから、その代わりです」
ホセの肩が微かに震えている。
三善はそのまま彼の背をさすってやり、それからゆっくりと息を吐いた。
「大丈夫だから。――大丈夫、うまくやる。今までだってうまくやれていただろ」
「うまくやれなくてもいいんです」
ホセがぴしゃりと三善の声を遮った。「うまくやれなくても、あなたがいてくれればそれだけでいい」
三善の手がぴたりと止まる。
それから何を思ったのだろう。三善はこのように返した。
「それはあんたの嫁に言ってやれ」
「はっ……」
「あんた、前回はちゃっかり籍を入れることに成功しているんだぞ。要は運とタイミングだ。あとはお得意のごり押しでなんとかなるだろ。ま、頑張ればいいんじゃないの。あの人はなんだかんだでグイグイ来るのに弱いんだから」
そして三善はホセの手からするりと抜け出す。踵を返した刹那、身に纏う聖職衣が円を描いて揺れた。振り返った三善は、何年も見ていない柔らかな笑みを浮かべている。
まるで今この時だけ、時間が戻ったかのようだった。
「おれは大丈夫。……ひとりで大丈夫だから」
「ヒメく――」
そうしていると、戸を控えめに叩く音が聞こえてきた。三善が許可を出すと、そこからジェイがひょっこりと顔を覗かせた。
「ミヨシ君、ジェームズ君が来たけど、どうする?」
三善の表情が、途端に険しくなった。
***
ジェームズに会うたび思うのは、この男も外見があまり変わらないタイプだよなぁ、ということだ。
三善が助祭だった頃には既に五〇歳は超えていたはずだ。随分痩せた気はしないでもないが、それでも比較的若い見た目だということには変わりない。
三善がジェームズに目礼すると、向こうも大体似たようなことを考えていたようで、微かに嘲笑めいた目を向けてきた。三善はにこりと無駄に爽やかな笑みを浮かべながら、
「わざわざご足労いただきありがとうございます。本日はどうぞよろしくお願いします」
「ああ」
互いにニコニコしながら談笑してはいるが、あまりにそれが毒々しいので周りの空気が凍りついている。そもそも彼らの不仲は周知の事実なので、いまさら隠す理由などないのだが。一応建前なるものが彼らには存在しているらしい。
「それにしても、よくあんたが許可したな。おれには教皇の席は空けないと言っていたのに」
「そんなことは一言も言っていないだろう。私が言ったのは、『追いついてこい』、だ」
「似たようなものさ」
当時のおれからしたら、と三善は苦笑し、首に下げていた銀十字に触れた。かつてケファから譲ってもらったものだ。教皇の名を冠したら最後、これはヴァチカンに返還し、新たな十字を頂戴することになる。長く使い続けた十字架とも、あと数時間でお別れだ。
「ところで、君の教皇名は本当に」
「いいんだよ、これで」
三善は思い切りジェームズの言葉を遮った。呆気にとられたジェームズへ目を向けると、微かに唇の端を吊り上げる。
「おれはおれだ。親父はどうだっていい」
だったら今後はそう呼ばせてもらうよ、とジェームズが珍しく苦笑した。そこまで言った時、「ああそうだ」と彼は何かを思い出したように声を上げた。
「あの子供はどこにいる?」
「……一体どの子供のことでしょう」
三善は冷たい一言を投げかけ、以降固く口を閉ざしてしまった。
ジェームズもこれ以上話すことなどないと言った様子で、互いに黙りこくったまま大聖堂へと足を運んだのだった。
***
――戴冠式は順調に行われている。
彼の洗礼の儀の際は一口には言い表せないほど大変なことになっていたが、今回は“七つの大罪”による襲撃の気配はない。まあもっとも、彼らからしてみれば、この大聖堂の中にはかつてヨハネスが任命した『十二使徒』が集まっているので、下手に集まっても勝てる気がしない、というところだろうか。
『最初の祝福(Urbi et Orbi)』が三善の口から告げられる。教皇の祝福を受けることは、すなわち罪の償いの免除に値する。基本的に年一回大々的に行われる礼拝時に行われるものだが、例外として教皇就任時にもそれが執り行われる。時期にちなんだ挨拶と、各国語のお祝いの言葉。それらが次々と三善の唇から告げられるのはなんだか妙な感じだ、とロンは思う。勿論彼もこの日ばかりは儀式用の聖職衣を身に纏っている。
箱館支部では普段日本語が用いられている。だが、蓋を開けてみれば国籍そのものはまちまちだ。当然第一言語は面白いほどにバラバラである。
だから三善は日本語で『最初の祝福』の原案を出したのち、各国の職員に翻訳を依頼して回っていた。その甲斐あってか、比較的難易度の高い『最初の祝福』は滞りなく進んでいる。
喜ばしいことなのだ、彼の教皇就任は。少なくとも彼に味方する人々はそう感じているだろう。
しかし、ロンは正直なところ手放しでは喜べないと感じていた。
式典が始まるほんの少し前の出来事だった。
ロンが身廊へ向かおうとしていると、たまたま出くわしたジェームズに声をかけられた。本来教皇庁所属のロンからすれば、ジェームズは指揮命令者にあたる。挨拶を返しつつ軽い雑談をしていると突然然ジェームズが口を開いた。
ロン・ウォーカー、と。
その名を告げる口唇がロンの思考の一部を叩く。まるで、忘れている何かを呼び起こすような衝撃だった。ずるりと引きずられた生生しい感触が脳内を侵食し始める。
しまった、とロンは思う。
「君は確か、道南地区の担当だったか」
ロンは暫しの逡巡ののち、「ええ」と短く返答した。彼には何も隠す必要などない。
「あれは、どうだね」
「司教……否、教皇のことでしょうか。今のところは特に、なにも」
そう告げると、ジェームズは首を横に振った。
「あれが『白髪の聖女』の末裔だと知ってのことか?」
「その質問には、答えかねます」
「仕事だよ、ロン・ウォーカー」
そして、彼はにこやかな口調で告げたのだった。
もしも彼・姫良三善が次に“大罪”の能力を行使することがあったならば、容赦なく検邪聖省に送ってやれ、と。
ロンは唐突に理解した。ジェームズが何故、彼・姫良三善をわざわざ教皇に仕立て上げようとしたのかを。
その真意は。――その、真意は。
反論しようかとも一瞬考えたが、脳から引きずり出された生々しい感触が再びうごめき始めたのに気付き、慌てて口を噤む。ジェームズには、それ以上何も言うことができなかった。
「……はい」
これは一種の呪いだ。決して解けることのない。抜け出せることのない。
『楔』という名の、永遠の契約だ。
そこまで回想したのち、ロンはゆっくりと長く長く息を吐き出した。
――そんなこと、初めから本人と約束しているのに。
正面へ目を向けると、ちょうど祝福が終わるところだった。彼の口から、締めの一文が紡ぎ出される。いつも通りの、洗練された口調で。
「『Et benedictio Dei omnipotentis, Patris et Filii et Spiritus Sancti descendat super vos et maneat semper.(全能の神たる父と子と聖霊の祝福が諸君らに下らんことを、そして常に留まらんことを)』」
――みよさま、気をつけろ。
ロンは随分遠くに見える彼の姿を見つめながら、思う。
――ぼんやりしていると、はめられるぞ。
三善の前に飾り立てられたトーチに、聖火が灯される。その温かな光が目に入ったと思いきや、三善は『釈義』を展開し、それをすぐに消してしまった。
「『Sic transit Gloria mundi.(この世の栄華はかくもむなしく消え去る)』」
決まり文句を告げると、そっと三善の横にジェームズが現れた。彼の手の中には小箱が握られている。三善の前でそれを開いて見せると、中には金色の指輪が入っていた。
ホセが持参した『漁夫の指輪』である。あの日受け取ったときには印章が潰されたままとなっていたが、今は今後三善が使用する印章が入れられていた。
三善は、微かにその赤い瞳を細める。
この時の彼は、一体何を思ったのだろうか。
ジェームズがその指輪を取り、三善の右手を持ち上げた。血色の悪い白い手が、ぴくりとも動かずにそこにある。その薬指に指輪は嵌められる。
「Siricius, Episcopus Servus Servorum Dei.」
その刹那、このようにジェームズが囁いた。
「Siricius」
それを耳にした三善が呟く。
ジェームズがのろのろとその瞳を持ち上げると、彼の前にいる姫良三善という男は、その炎とも紛う瞳をじっと指輪へ向けていた。
そして反芻するように、もう一度呟くのだ。
「わたくしの教皇名は、」
己に言い聞かせるような口調だった。その声は、まるで祝詞のように緩やかで温かい。それなのに、唇からこぼれるその言葉はどうしてだろう。
「シリキウスだ」
まるでナイフの切っ先のような鋭さを孕んでいた。