第一章(1)
「……ううん」
俺は目を覚ました。頬に冷たく硬い感触が伝わる。どうやら俺は床に倒れているようだった。自分の部屋ではないことが床の様子からわかった。滑らかな石畳の床、こんなところは俺の家の中にない。つまり俺は自分の家にいたはずなのに今は違うということだ。この事実がまだぼうっとしていた俺の頭を急速に働かせ始める。
「こ、ここはどこだっ?」
俺は慌てて起き上がった。
「え?」
俺は自分の目を疑った。俺がいるのは自分の家の中なんて場所とはまったくかけ離れた場所だった。
「ここは……」
俺はまるで神殿のようなところにいた。左右に立ち並ぶ何本もの巨大な柱、女神を形取ったであろう優美な彫像、少し高い位置に設けられた荘厳な祭壇。それらのすべては白く美しい石材で作られており神々しいまでの雰囲気が辺りを包み込んでいる。
「う、まぶしいな」
上を向くとちょうど屋根の部分はサッカースタジアムのように大きく開いている構造になっていて、空からは強い日の光が俺を照らし出すように燦々と降り注いでいた。
「やはり、ここは神殿のようだな」
俺は一人うなずく。しかもこの神殿、俺には不思議と見覚えがあるように感じられた。
「テレビか本で見たんだろうか。例えば映画とか歴史の教科書とか……いや、違うかな……」
と、俺が頭を悩ませ始めたとき。
「おい」
急に横から声が飛んできた。俺は反射的に声がした方を振り向く。
「あっ!」
俺のすぐ側にはいつの間にか二人の人間が立っていた。一人は背の低い中学生くらいの女の子。もう一人はいかつい巨体の中年男性だった。
「おい、おまえ」
すぐに少女の方が俺に声をかけてきた。
「な、なんだっ?」
俺は及び腰になりながらなんとか返事をする。すると少女は言った。
「おまえ、勇者トーイチか?」
「は?」
俺にはこの少女の言った言葉の意味がよく分からなかった。今、こいつは俺になんて言った? 勇者? そう言ったのか?
「えっと、あの、その……なんだって?」
俺がとまどいながら聞き返してみると、少女は少しいらついたようにもう一度言った。
「だから、おまえは勇者トーイチかと聞いているんだ!」
「勇者トーイチ?」
「うむ、そうだ」
「ゆ、勇者だって?」
「だから、さっきからそう言っているだろうが!」
「勇者って、あの魔法使いとか戦士とかゲームの職業に出てくる勇者のことか?」
「ほかにどの勇者があるっていうんだ! バカか、おまえは!」
うおっ。い、いきなりののしられたぞ。なんだ、この子。気が短いなぁ。
「わかった、わかった。ちゃんとわかったからそんなに怒らないでくれ」
「うーうー!」
まるでエサを横取りされたネコのように肩をいからせている少女。
「お、落ち着け。どうどう、どうどう」
俺は彼女をなんとかなだめながら考えた。
うーん、確かにこいつは俺のことを勇者と呼んでいるな。これはいったいどういうことだ? 俺はただの何の変哲もない高校生だ。しかも運動も勉強もたいしてできない。勇者なんてとんでもないぞ。人違いか。しかし、こいつは俺のことを名前の灯一で呼んでいるしなぁ。本当にどういうことだろう。
とりあえず俺ははっきりしていることだけを答えた。
「勇者かどうかは知らないが、俺の名前は確かに灯一だ。広川灯一、日本の高校生だ。さっきまで家にいてゲームをしていたところを急にこんなところまで連れて来られたんだ。それ以外のことは何にもわからないよ」
それを聞いて少女の表情が晴れた。
「おお、本当か。やはりおまえは勇者トーイチか。いやー、よかったよかった。どうやらわたしの魔法は大成功だったみたいだな!」
今までずっと黙っていた巨体の中年男性の方も口を開く。
「ほう、うまくいったか。さすがはノルノ。これで俺たちの計画もまずは一安心というものだな」
ノルノと呼ばれた少女は男に笑顔を向ける。
「うん、バムントさん。本当によかった。いくら魔法の天才であるこのわたしでも異世界からの召喚魔法なんて初めてのことだったからな。うまくいくかは本当に半信半疑だった。まさかこうもたやすく成功するとは。これもわたしが真の天才だからこそなせる業だな、わっはっはっはっは!」
高笑いを上げるノルノ。バムントと呼ばれた男の方も満足そうに彼女の様子を見つめている。
「……なんなんだ、いったい」
一人、状況に取り残される俺。ただ、そんな俺の頭にはある考えがむくむくとわき上がってきていた。
「ノルノとバムントだって?」
俺はこの二人の名前をはっきりと知っていた。いや、名前だけではない。俺はこの二人の容姿も見慣れているし素性についても分かっていた。
「ノルノ・ウィサンス……」
年の頃なら十二、三才くらい。まだまだ幼い顔立ちの中にはくりっとした大きな瞳が小動物のように愛らしく輝いている。もちもちとした肌は白く、伸ばした銀髪には大きな黒いリボン、体には白いブラウスと黒いローブとスカート、足には長い白黒しましまソックス。見事なまでに全身を白と黒で覆われた少女だった。手に持っている体に不釣り合いなほど大きな杖は彼女が一流の魔法使いである証であった。
「バムント・ツァー……」
年は四十くらい。身長は二メートル近くあり、剣闘士のように鎧の隙間から隆々とした筋肉が目立っている。頭はスキンヘッドに近い短髪、目つきはやたらと鋭く、腕にはいくつもの入れ墨が彫られている。この男、子供なら見ただけで泣き出すぐらいにおっかない風貌をしている。ただし、見た目とは裏腹に性格はきわめて真面目。教養も豊かでとても思慮深い人物だ。職業は戦士。腰に提げた大剣は強い魔法の力が宿っており、使いこなせる者は彼を除いて少ない。
「ノルノとバムント……まさか……」
呆然とする俺の様子に気がついてノルノは言った。
「おっ、トーイチよ。ようやく理解したようだな。ここがどこか、ということを」
「ああ。ここは……もしかして……」
俺は震える声で続けた。
「ゲーム『しかし世界は救われなかった』の中の世界なのか?」
俺にはそうとしか思えなかった。なぜならこのノルノとバムントは『しかし世界は救われなかった』の中で勇者である主人公の仲間だったキャラクターたちだからだ。名前も見た目も性格もまったく一緒。だから俺は彼らのことを知っていたんだ。
そう言えばこの場所、この神殿もどこかで見た場所だと思ったらゲームの中に出てくる場所だ。思い出したぜ。名前はハルト神殿。まずゲームが始まったら勇者はここから旅に出発する、という設定の場所だ。ということはやはり俺が今いる世界はゲームの中の世界で間違いないということだろうか。信じられないことには違いないが。
「うむ。そうだな……」
ノルノはにやにやと俺を見ながら言った。
「トーイチよ。おまえの答えは半分正解、といったところかな」
俺は眉を寄せる。
「半分正解? どういうことだ?」
「うむ、どう説明すればいいかな。そうだな。まず大切なのはここはゲームの中の世界ではない、ということだ。ここは実際に存在する世界だ。おまえたちが住む世界とは少しだけ物理法則が異なる兄弟のような世界、ゲームの中と同じように魔法が使えるし多くの人々が暮らしているし魔王やモンスターたちも存在する世界、それがこの世界だ」
俺がぽかんと口を開けているとノルノは続けた。
「そして、この世界の様子を忠実にゲームとして再現したものが『しかし世界は救われなかった』というゲームソフトなんだ。わたしたちはわずかな数だけこのゲームを作っておまえたちの世界に送った。それをみごと手に入れてプレイしていたのがおまえ、勇者トーイチというわけだ。それから、わたしたちは真面目にゲームの攻略に取り組むおまえを見て、おまえをこの世界に呼び寄せた。だから、おまえは今ここにいる、ということだ。わかったか、トーイチ?」
「う、うーん……」
つまり俺はゲームの元となった実在する別世界にいるというわけなのか。
「す、すぐには信じられない話だな」
「しかし、真実だ。真実とは尊いものだ。真実からは目を背けることはできないぞ。真実を受け入れるのだ。されば真実の方もおまえを受け入れてくれるであろう。がんばれ!」
「う、うん……」
なんかわけのわからない別世界でわけのわからない子供からわけのわからないことを偉そうに諭される俺。なんだこれは? こんな異常な状況にさらされて俺は頭がどうにかなりそうだぜ、まったく。夢なら早く覚めてほしいものだ。俺にはこんなおかしなこと、到底付き合いきれないぜ。
「それで、俺をこんなところに呼び出してどうするつもりなんだ。さっきも言ったが俺はただの高校生だ。勇者でもなんでもないんだぞ。早く俺を元の世界に帰してくれ」
ノルノはかぶりを振る。
「いや、それはできないな」
「どうしてだ!」
「おまえにはわたしたちと一緒に魔王と戦ってもらうからだ」
「な、なんだと! じょ、冗談じゃない!」
俺は声を荒げる。
「俺が魔王と戦うだって? そんなことできるわけないだろ! 下手をすると死んでしまうんだぞ、俺は!」
ここはゲームの中の世界ではない。実在の世界だとノルノは言った。ならば殴られれば痛みを感じ、刃物で切られれば血は流れる。血が多く流れれば死に至る。それはごくごく当然の出来事だろう。まともにケンカもできないこの俺が魔王なんかと戦って無事ですむわけがない。そんなこと火を見るよりも明らかだ。
「嫌だ! 俺は魔王とは戦わない。俺は自分の世界で平和に暮らしたいんだ!」
だがノルノの方も引かず、
「トーイチ、おまえ!」
手にした杖を俺に向けて、
「わたしたちの世界を救いたいんじゃなかったのか! わたしたちの世界では日々、魔王との戦いで人々が苦しんでいる。おまえはそんな人々を救いたいんじゃなかったのか! わたしたちはそんなおまえの気持ちに心を打たれたからこそおまえをこの世界に呼び出したんだぞ!」
「うっ……」
それを言われて俺は言葉が詰まる。
「た、確かに……」
ノルノの言うとおり俺は人々を救いたいと思ってゲームをプレイしていた。しかも、この世界の人々はゲームではなく本当に魔王との戦いに苦しんでいるわけだ。それを思うと俺は急に心が重くなるのを感じた。
「し、しかし……」
俺なんかが魔王に勝てるわけない。魔王やその手下たちの強さはゲームを通じて俺はよく知っている。絶対に勝てるわけがない。やっぱり死ぬのはごめんだ。自分の命が一番大切に決まっているじゃないかよ。
「駄目だ。俺はやっぱり……」
俺があきらめの気持ちを口にしようとしたとき。
「おい、二人とも!」
突然、バムントさんが叫んだ。
「敵だ! 上を見ろ!」
バムントさんの声に俺とノルノは空を見上げる。神殿の屋根に空いた大きな穴からは何かが空を飛んで俺たちの方へと近づいてくるがわかった。
「あ、あれはっ! モ、モンスター?」
「そうだ」
「……なんてこった」
いきなりこんな恐ろしい世界に連れてこられて、しかもいきなりモンスターに襲われてしまうなんて。俺には自分の境遇を呪うしかできない。
「そ、それにあのモンスターはっ」
よく見ると今俺たちの方へと向かって来ているモンスターのことを俺は知っているようだった。ゲームの中で何度も戦ったことがある相手だ。闘牛のような体と長く鋭い角、背中からは大きな翼が生えており空を自由に飛び回ることができる。あのモンスターの名前は……。
「魔獣ジャファンクス!」
「そのとおりだ」
バムントさんが剣を抜いて構える。
「魔獣、数いるモンスターの中でも魔王のように非常に高い魔法力を持ったモンスターのことだな。さらにジャファンクスは魔獣の中でもかなり手強い部類に入る相手、やっかいだな」
ノルノも大きな杖をしっかりと握りしめてジャファンクスが飛んでくるのを凝視する。
「おのれ、ジャファンクスめ。魔獣は魔法の力に敏感だからな。どうせ召喚魔法の大きな魔法力に引かれてふらふらとやって来たんだろう。まあいい。この天才魔法少女であるわたしが返り討ちにしてくれるぞ!」
そして、すぐに。
「グオオオオオ!」
地響きにも似た咆哮を上げて魔獣ジャファンクスが俺たちの上にはっきりと姿を現した。




