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鉄壁の宰相は知らない——書記官令嬢の足音を、自分が回廊の端から聞き分けていることを

作者: 歩人
掲載日:2026/04/30

午後三時。


 私はペンを止めた。


 止めたのは、私自身だった。書類は半ばで終わっており、墨の含みもまだ充分にある。手の痺れもなければ、目の疲れもない。執務室の窓から差し込む光は均質で、外気の温度は——本日の朝、侍従の報告で確認した通り——昨日より〇・五度ほど低い。条件は揃っている。ペンが止まる理由は、どこにもない。


 ところが私は、止めた。


 そして、止めた瞬間に、自分が回廊の足音を数えていたことに気づいた。


 扉までの距離は、三十二歩。並みの足取りで歩けば、その数字に収束する。だが、いま回廊を歩いている者は、私が知るかぎり、二十六歩でこの扉の前に立つ。歩幅が小さく、運ぶ書類の角度を保つために身体の揺れを抑え、踵を立てずに足裏を平らに置く。だから足音が静かで、その静けさが、私の耳には逆に鮮明に届く。


 いま、彼女は十五歩目を踏んだ。


 あと十七歩で、この扉が開く。


「——なぜ、私は数えている」


 声に出してから、まず自分の声に戸惑った。


 二十八年生きてきて、私はこの種の戸惑いを経験したことがない。私は、私が何を考えているかを、常に把握している側の人間だ。少なくとも、そう自負して職務を全うしてきた。判断はデータで行い、判断の根拠は言語化できる。言語化できないものは、保留する。それが私の流儀であり、王国宰相としての職業倫理だった。


 ところが、いまの「あと十七歩」は、どこから来た。


 書類を捌くために必要な情報ではない。誰かに報告するために計測している数値でもない。意識の表層に浮上したのは、ペンを止めた瞬間だ。つまり——意識の下では、もっと前から数えていた。


 扉の手前で、足音が止まる。


 二度、低く扉が叩かれる。律儀に二度、それ以上でも以下でもなく。


「——失礼いたします。本日の機密分、お持ちしました」


 扉が開き、書記官の制服を着た若い令嬢が、書類束を抱えて入ってくる。


 お辞儀の角度は、十五度。


 この女がする辞儀は、いつも十五度だ。深すぎず、浅すぎず、定規で測ったように同じ角度。背筋の伸びと、抱えた書類の角度の保ち方も含めて、揃っている。私は、その角度を、彼女が初めてこの執務室に来た日から、無意識のうちに記録していたらしい。


 ——いつから。


「閣下、午前中の機密会議分は分類済みでございます。重要度別に上から金印・銀印・白印の順で並べてあります」


 彼女——リューネ・アシュベリン子爵令嬢——が、書類束を私の手元に置く。


 その束の上下を、私はちらりと確認する。並びは、いつも通りだ。

 いや、「いつも通り」と表現できるほど、私は彼女の並べ方を覚えている。


 金印は左上、銀印は中央、白印は右下。彼女の並べ方は、私が無意識のうちに右手で取りやすい順序になっている。最初の三回ほどは、彼女は単に重要度順に並べていた。ところが、四回目から——私の手の動きを観察したのだろう——並べ方が変わった。並べ方が私のために変わったのではなく、私の取りやすい順に整えられている、と気づくまでに、三か月かかった。


 気づいたのが、いま。

 いま、この瞬間。


「不要だ」


 私は、自分の声がいつもより一拍遅れたことを認識した。


 不要、というのは、彼女に向かって言ったわけではない。自分の頭の中で動こうとしている思考に向かって言った言葉だ。だが、リューネは、それを自分への命令として受け取り、すっと一歩下がった。


「失礼いたしました。何か追加のご指示がございましたか」


「——いや」


 私は、彼女を見ない。机の上の書類束に視線を戻す。


「ご苦労」


「はい。失礼いたします」


 お辞儀は、また十五度。


 彼女は静かに退室する。扉が閉まる音すら、ほとんどしない。彼女は扉を閉めるとき、把手を最後まで握ったまま、ゆっくりと放す。だから蝶番が鳴らない。私はそのことも、いつから気づいていたのだろうか。


「——閣下」


 声は、扉の脇に立っていた男から発された。


 ハインツ・ベルガー秘書官。私の十年来の腹心であり、宰相府の業務日誌をすべて記録している男だ。茶髪を整え、眼鏡を少し下にずらし、手には次の決裁書類の束。


 彼は、笑いを噛み殺している。


「貴官、何だ」


「いえ。何でもございません」


「言え」


「閣下、ペンが止まっておりました」


「気のせいだろう」


「気のせい、で結構でございます。ところで——」


 ハインツは、書類を私の机の右側に静かに置きながら、続けた。


「あと一分で例の書記官嬢が見えますよ、と申し上げようとしたのですが、申し上げる前にご自分で扉の方をご覧になったので、申し上げる必要がなくなりました」


「貴官、そういう余計な観察は記録に残すな」


「日誌に残す欄はございません。ただ、頭の中の欄にはすでに記録済みでございます」


 私は、ペンを再び動かした。動かしながら、自分の指先がまだ「十七歩」のリズムを引きずっていることに、気づきたくないと思いながら、気づいた。


 ——なぜ私は、足音の歩数を数えていた?


 その自問を、私は午後の決裁が終わるまで、保留することに決めた。


---


 保留にはした。


 だが、保留したものは、いつか開けねばならない。


 その夜、私は書斎に戻ってから、過去三か月の業務日誌を机に並べた。


 業務日誌は、ハインツが日付別に整理しており、私の決裁件数、会議の所要時間、会議参加者、書類処理の遅滞時間まですべて記録されている。隣国ザールヴェントとの外交関係が緊迫している現在、宰相府の業務量は通常の一・五倍に膨張している。日誌を捲るのは、単に職務の確認のためであり、それ以外の理由はない——と、私は自分に言い聞かせた。


 最初に確認したのは、リューネ・アシュベリンの配属日だ。


 二年前、麦熟月の十三日。下級書記官として宰相府に登用。配属部署は、機密文書整理課。配属当初は、書庫の整理と分類が主任務だった。


 配属から最初の三十日、私と彼女の接点は十二回。これは、機密書類の決裁という業務上の必然の回数であり、特異な数字ではない。


 配属から三十一日目。

 ここで、ある変化が起きている。


 私の決裁書類のうち、機密分類の処理時間が、十五分から十一分に短縮されている。

 原因は、書類の並べ方だった。


 彼女は、私が金印を最初に取り、銀印で会議文脈を確認し、白印を最後に処理する手順を観察し、それに合わせて並べ方を最適化した。私はそれを「並べ方が変わった」とは認識せず、ただ「処理が速くなった」とだけ感じていた。


 配属から六十日目。

 食堂で初めて、彼女と廊下ですれ違った。

 お辞儀の角度は、十五度。


 以後、私と彼女が廊下ですれ違うたびに、そのお辞儀は十五度を保っている。記録を残しているわけではないが、私の中で「十五度」という数字が、いつのまにか彼女の代名詞のようになっていた。

 深くもなく、浅くもなく。

 その角度は、私を「畏れ」もしないが、「軽んじ」もしない、宰相と書記官の最適な距離を、彼女が無言で示している角度なのだろう、と——私は、そう解釈した。


 その解釈を、私は、誰にも告げたことがない。


 配属から九十日目。

 彼女が提出する報告書の句読点のリズムが、揃いはじめる。

「、」と「。」の打ち方が、独特なのだ。長い文では、句点の前で息を整えるように読点を一つ多く打つ。短い文では、読点を省略する。読み手の呼吸に合わせるかのような律動。


 私は、彼女の手で書かれた報告書を、見ただけで識別できる。


 他の書記官の手による文章も、もちろん識別できる。しかし、リューネの文章だけは、識別の確度が異常に高い。九分九厘、外したことがない。最近では、最初の一行を見ただけで、彼女の手であることがわかる。


 配属から百二十日目。

 ある朝、私が執務室に入ったとき、机の上の決裁山の脇に、薄い羊皮紙の冊子が置かれていた。表紙には、隣国ザールヴェントの貴族の家系図が、簡略化された形で書き写されていた。三代分。母系を含む傍系まで。

 その冊子の筆跡は、リューネのものだった。


 ハインツに確認すると、「閣下が前夜、外交局の報告書を読みながら『ザールヴェント貴族の系譜が頭に入りにくい』と独り言を漏らされたのを、隣の卓におりましたリューネ嬢がお聞きになったようです」と返ってきた。

 彼女は、その晩のうちに、機密書庫に入って、独自に系譜を写し取ったのだ。

 翌朝までに、私の机に、簡略化した冊子を置けるように。


 頼んだ覚えは、私には、ない。

 評価する資格は、もちろん、あった。職務上の能力としては、誉めてしかるべきだ。

 しかし——彼女がそれをした動機は、何だ。


 動機の問題に、私は、まだ踏み込まなかった。


 配属から二年近く経った最近のこと。

 彼女は、夜遅くまで宰相府に残る日が、月に数回ある。

 ハインツによれば、それは「翌日の機密会議の準備」のためであり、職務上の必要性は説明できる、と。

 ただ、説明できる、ということと、説明する必要が彼女にある、ということは、別だ。

 彼女が自主的に残業しているのだ。

 残業した彼女が、翌朝、私の机に並べる書類は、いつも完璧で、いつも、私の取りやすい順に並んでいる。


 現に、先週もそうだった。

 夜半、決裁中の私の机に、追加の照合資料を一束、彼女が運び込んできた。宰相府は午後七時に外門が施錠されるが、内部で勤務する者は、当直の許可があれば残ることができる。彼女は、その許可を、毎月のように取得していた。

 書類を置いて退室する彼女のお辞儀は、夜であっても、十五度。蝋燭の薄明かりの下でも、その角度は崩れなかった。


 ——観察の精度が、異常に高い。


 私は、書斎の机に肘をつき、額に手を当てた。


 異常に高い、と自分で言語化したことに、わずかに動揺した。

 観察の精度が異常に高いのは、彼女が異常な書記官だからではない。私の観察が、彼女に対してだけ異常な精度になっているからだ。


 他の書記官のお辞儀の角度を、私は記憶していない。

 他の書記官の足音の歩数を、私は数えていない。

 他の書記官の句読点のリズムを、私は識別できない。


 ——これは、何だ。


 私は、業務日誌の頁を、もう一度最初から繰り直した。

 今度は、彼女の出勤日と、私の決裁件数の相関を確認する。


 数字は、明確だった。


 彼女が出勤した日、私の決裁件数は通常の一・四倍。

 彼女が休暇あるいは外勤の日、私の決裁件数は通常の〇・八倍。


 私は、自分の決裁速度が、彼女の出勤の有無に従って変動しているという事実を、業務日誌の中に発見した。

 発見した、というよりは、目の前に突きつけられた。


 彼女が来る日、私は速い。

 彼女が来ない日、私は遅い。


 なぜ。


 私は、合理主義者である。データに対しては誠実でなければならない。誠実に解釈するならば、答えは一つだ。


 ——彼女がいると、私の集中力が増している。


 いる、とは、物理的に同じ部屋にいる、という意味ではない。同じ宰相府の建物の中にいる。回廊の向こう側にいる。あるいは、書庫で書類を整理している。あるいは、食堂で昼食を取っている。私の視界に直接入っているわけではない。だが、彼女が「この建物のどこかにいる」という事実が、私の処理速度に影響を与えている。


 私は、自分の指が、ペンの軸を握り直したことを認識した。


「——なぜ私は、君のことを考えている」


 声に出してから、また戸惑った。

 今度は、自分が「お前」ではなく「君」と呼んだことに、戸惑った。


 「お前」は業務、「君」は個。


 私は、彼女のいない書斎で、誰にも聞かれない場で、彼女を「君」と呼んでいた。


 書斎の燭台の灯りが、紙の上で揺れた。

 私は、業務日誌を閉じ、ゆっくりと深く息を吐いた。


 ——保留できる事案ではない。

 しかし、いまこの瞬間に結論を出せる事案でもない。


 明日、ハインツに、何かを問わねばならないのかもしれない。

 そう思った瞬間、自分が部下の助言を必要としていることに、また戸惑った。


 戸惑いの数が、今日だけで三度を超えた。

 二十八年の人生で、こんなことは、一度もなかった。


---


 翌日の朝。


 ハインツは、いつもより早く執務室に来た。


 私が机に着いた時点で、彼はすでに当日の決裁順序を整え、隣国関連の機密書類を金印の山に積み、王宮内政の通常書類を銀印の山に分けていた。眼鏡をいつもと同じ位置に下げ、業務日誌の頁を捲りながら、私を見ずに口を開いた。


「閣下、本日は隣国ザールヴェントの使節団に関する書類が三件、優先処理が必要でございます」


「承知した」


「それと——」


「何だ」


「閣下、そろそろ我慢の限界なのは閣下のほうですよ」


 私は、ペンの軸を握ったまま、視線をハインツに移した。


 ハインツは、私を見ない。書類を整理する手も止めない。ただ、その声だけが、いつもと同じ平坦な調子で、しかし内容だけがいつもと違っていた。


「貴官、何の話だ」


「閣下が、リューネ・アシュベリン嬢が出勤する日と欠勤する日では、書類処理速度が一・四倍違うことに、お気づきですか」


「——」


「私は、業務日誌をつけている人間でございます。数字を見れば、わかります。閣下、貴方は、彼女のいる日には速く、いない日には遅い」


 私は、答えなかった。

 答えるべきことは、すでに昨夜、自分の書斎で確認していた。日誌の数字は、ハインツが私に告げる前から、私自身の手で確かめていた。

 しかし、それを口に出すことが、私には、できなかった。

 口に出した瞬間、私はもう、後戻りできない。


「それから、もう一つ」


 ハインツは、ようやく顔を上げた。眼鏡の奥の目に、いつもの軽口の色はなかった。


「彼女のお辞儀の角度を、閣下は、記憶しておられますね」


「——」


「他の書記官のお辞儀の角度は、閣下、お答えになれますか」


 私は、答えなかった。

 答えられなかった、と言ってもいい。


「お忙しい職務の中で、貴方は彼女の足音、お辞儀の角度、書類の並べ方、句読点のリズム、これらをすべて、無意識のうちに記録なさっています。そして、彼女がいる日には速く、いない日には遅い。閣下、これを、何と申し上げればよろしいですか」


「——観察対象だ」


 私は、ようやく口を開いた。

 声は、自分が思っていたより低かった。


「優秀な部下に対する観察として、適切な範囲だと考える」


「閣下」


 ハインツは、深く溜息をついた。

 そして、もう一度、業務日誌に視線を落としながら、こう言った。


「閣下、それは、観察の領域を、すでに、超えております」


 私は、応えなかった。


 ハインツは、それ以上は言わない。彼の流儀だ。彼は、必要なことを伝えたら、必要以上には踏み込まない。決定するのは、私だ。決定の責任を負うのは、私だ。


 書類を捌きながら、私は、自分の中で「観察」と「執着」の境界線を引こうとした。


 線は、引けなかった。


 線が引けない、ということは、その境界はもう超えている、ということなのかもしれない。


---


 その日、リューネは午後二時に出勤した。


 午後二時というのは、彼女の通常の出勤時刻ではない。通常、彼女は午前八時に出勤し、書庫整理を済ませてから、午後の機密書類を運んでくる。午後二時に到着するのは、午前中に外部の薬師組合へ届け物をしていたためだと、ハインツがさりげなく報告した。


 私は、その報告を聞いた瞬間に、自分が「彼女の遅刻ではない」と確認したくて聞いていることに気づいた。


 また一つ、戸惑いを増やした。


 午後三時。

 回廊から、足音が近づいてくる。


 私は、ペンを動かしている。動かしているのに、回廊の足音が聞こえる。動かしているのに、十七歩、十六歩、十五歩、と数えている。


 扉が、二度叩かれる。


「失礼いたします。午後の機密分、お持ちしました」


 リューネが入ってくる。

 お辞儀は、十五度。


「ご苦労」


 私は、彼女の顔を見ない。書類束を受け取り、いつもの位置に置く。


 受け取るとき、彼女の指先が、ほんの一瞬、書類の角を支えた。インクの染みが、薬指の第二関節に薄く残っていた。今朝の届け物の最中に、何かを書き記したのだろう。私は、その染みを認識し、それから、認識した自分を認識した。


 いつもの位置に置きながら、私は、自分が「彼女がいる」ことに、わずかに息を吐いていることに気づいた。

 息を吐く、というのは、緊張が緩む、ということだ。

 緊張が緩む、ということは、それまで緊張していた、ということだ。

 彼女が遅刻したから、私は緊張していた。

 遅刻ではないと知って、私は緊張を緩めた。


 ——気づいた。


 観察ではない、と。

 ハインツの言う通り、これは、すでに観察の領域を超えている、と。


 その瞬間、私は、彼女に向かって何かを言いそうになった。

 何を言うつもりだったかは、自分でもわからない。

 ただ、口を開きかけたとき、ハインツが扉の脇から咳払いをした。


「閣下、午後三時十分から、外交局との打ち合わせがございます」


「——承知した」


 私は、口を閉じた。

 リューネは、私の言いかけた何かに気づいたかどうか、わからない。お辞儀の角度はいつも通りで、退室する所作も静かだった。


 扉が閉まる。


 ハインツが、私の机の脇に来て、低い声で言った。


「閣下、いまは時期が悪うございます」


「——」


「ザールヴェントの動きが、ここ数日、不穏でございます。彼らの諜報員が、王都内に入っていることが確認されております。機密書庫が、最も狙われやすい場所でございます」


「承知している」


「機密書庫の構造を熟知している人物は、宰相府の中でも限られております」


「——」


「リューネ嬢は、その一人でございます。今夜から数夜、警備強化の一環として、書庫付の書記官にも当直を割り振ることに、私の権限で致しました。彼女の名も、その輪番に組み込んでおります」


 私は、ペンを置いた。

 置いた、というよりは、置かれた、と言った方が正確かもしれない。指の力が、抜けた。


「ハインツ」


「はい」


「警備の二倍を、機密書庫前に配置しろ」


「すでに配置済みでございます」


「——彼女の動線にも、護衛をつけろ」


「閣下、それは、私的な指示でございますか」


 ハインツは、笑わなかった。

 笑わずに、ただ、答えを待っている顔をしていた。


 私は、しばらく沈黙した。

 沈黙の中で、自分が初めて、私的な指示を出そうとしていることに、気づいた。

 二十八年の人生で、職務と私的を分けることが、私の最大の倫理だった。

 その倫理を、私は、いま、超えようとしている。


「——彼女は、宰相府の機密書庫を熟知している。彼女が狙われる可能性は、職務上、無視できない。ゆえに、護衛は、職務の指示として出す」


「承知いたしました」


 ハインツは、それ以上は問わなかった。

 ただ、退出間際に、こちらを見ずに、こう呟いた。


「閣下、職務の言葉に、私的な感情を混ぜるのは、お上手でいらっしゃいますね」


 私は、応えなかった。


---


 その夜は、来た。


 来るべくして来た、というのが正しい。

 ザールヴェント諜報員の侵入は、深夜の二時、機密書庫の北側通用門から発生した。


 警備官の急報が、私の書斎に届いたのは二時四分。

 私が剣を取って書斎を出たのは二時五分。

 私の脳裏では、二つのことが、同時に起こっていた。


 第一。戦術判断。

 警備隊を東棟に展開、北棟通用門を封鎖、機密書庫前室で迎撃。隣国の諜報員は通常二名一組、隠匿の魔素法を用いる。気配を消しているため、視覚と聴覚だけでは捕捉が難しい。深夜帯は王都の魔素濃度が薄まる。私は、その薄い魔素を限界まで絞って静音法に振り、空気の流れを読みながら接近する必要がある。


 第二。

 ただ一つ、戦術ではない計算。

 ——リューネは、いま、書庫にいるか?


 私は、その計算が、戦術判断と同じ重さで脳裏を占めていることに、もはや戸惑わなかった。

 戸惑う段階を、私は、すでに、終えていた。


 書斎を出ながら、私は、自分の手の平が、剣の柄の感触に集中していないことに気づいた。集中しているのは、別のものだった。

 彼女の足音。

 彼女が深夜に書庫で残業する日があると、ハインツは私に伝えた。今夜は、その日かもしれない。今夜でないかもしれない。

 わからない、ということが、いま、私の身体の芯を冷やしていた。


 わからない、で済ませてきた事案を、私はこれまで、いくつ抱えてきただろうか。

 いま、わからないことが、これほど耐え難い理由は、何だ。

 答えは、もう、私の中にある。私は、それを、口に出していないだけだ。


 ハインツが、書斎の前で待っていた。

 彼は、すでに警備官の隊長と話を終えていた。


「閣下、まず書庫を確認します」


「——同行する」


「閣下が前線に出るのは、宰相府の規定上、許されません」


「承知している。しかし、今夜は、私が出る」


「理由をお聞かせ願えますか」


「——」


 私は、答えられなかった。

 ハインツは、答えを聞かずに、ただ、頷いた。


「では、私が先導いたします。閣下は、二歩後ろをお願いします」


 二歩後ろ、というのは、護衛の常識的な配置だった。

 私が先頭に立てば、私が標的になる。私が二歩後ろに立てば、ハインツが先に標的になる。

 私は、その配置を、十年来の腹心に、許した。

 許したのは、私が自分の判断力を信じていないからだ。


 信じていない。

 なぜなら、私の脳裏では、ずっと、リューネのことが回っていた。


 書庫前の廊下に着いたとき、警備官たちが、緊迫した面持ちで待機していた。

 隊長が、報告した。


「閣下、書庫内に、人影が二名。一名は侵入者、もう一名は——」


「誰だ」


「——リューネ・アシュベリン嬢でございます」


 私は、剣を抜いた。

 抜いた、と意識する前に、剣は、私の手の中にあった。


 ハインツが、静かに私の腕を押さえた。


「閣下、落ち着いてください。彼女は、まだ無事です。書類で身を守りながら、刺客の目を引きつけているようです」


「——なぜ、そんなことを」


「彼女が逃げれば、機密書類が刺客の手に渡ります。彼女は、それを理解しております」


 私は、息を吐いた。

 息を吐いた、というよりは、息が漏れた、と言うべきだろう。


 彼女は、命を賭けて、機密書類を守っていた。

 守っていたのは、王国のためだ。宰相府のためだ。私のためでも、自分のためでもない。


 私は、その瞬間、自分の中で起こった変化を、初めて、明瞭に、言語化した。


 ——私は、君を、失いたくない。それだけだ。


 言語化した瞬間、私の身体は、もう動いていた。


---


 書庫の扉を、私は静音魔素法を解いて、勢いよく開けた。

 刺客は、私の気配を察知して、振り返った。


 黒衣の男。隠匿魔素法の遣い手。短刀を逆手に構えている。

 顔の下半分を黒い布で覆い、目だけが燭台の明かりに鈍く光っている。


 その短刀の切先は、リューネの首筋に向かっていた。

 彼女は、書類束を盾のように構え、後ろの書架に背を付けて、刺客と距離を保っていた。

 栗色の髪が乱れ、頬には掠り傷の血が一筋。

 書記官の制服の袖は、薬瓶か何かを掴もうとしたのか、インクで黒く染まっていた。


 しかし、目は、まっすぐに刺客を見据えていた。

 恐怖はあるはずだった。だが、彼女は、その恐怖を、言うべきところに使っていた。

 刺客の視線を自分に縛りつけることだけに、その恐怖を使っていた。


「リューネ・アシュベリン」


 私は、彼女の名を呼んだ。

 声は、自分でも驚くほど、低く、平静を保っていた。

 保っていたのは、彼女の前で動揺を見せないためだ。動揺を見せれば、彼女の集中が乱れる。集中が乱れれば、刺客の短刀が、彼女の首筋に届く。


 彼女が、私の方を見た。

 その目に、初めて、安堵の色が浮かんだ。


「閣下——」


 刺客の短刀が、私に向け直された。


 私は、剣を構えた。


 刺客は、速い。隠匿魔素法を維持したまま、踏み込んでくる。

 私は、静音魔素法で空気の流れを読み、彼の踏み込みのリズムを捉える。

 一合——金属が触れる前に、空気が一段、重くなる。彼の呼気が、私の頬に届くより半拍早く、私は剣の角度を寝かせた。

 二合——彼の足は、軸足を変えた。利き腕の側面に重心が移る。床石を擦るかすかな摩擦音が、私の左耳の奥で像を結ぶ。

 三合——逆手の短刀が、私の脇腹を狙って下から跳ね上がる。私は、半歩引いて躱す。


 四合目で、刺客の刃が、私の左肩を斬った。

 血が飛び、私は痛みを感知した。

 しかし、痛みを感知した時点で、私の剣の刀身は、彼の右肘の関節を、骨ごと打ち据えていた。短刀が、彼の指から離れ、宙で半回転する。


 刺客は、悲鳴を上げる前に膝を折った。

 短刀が、書庫の石床に乾いた音を立てて落ちる。

 その瞬間、警備官たちが書庫に踏み込み、両側から彼を取り押さえて制圧した。


 私は、剣を下ろした。

 下ろしたのは、刺客が無力化されたからだが、同時に、私の身体が「彼女の方へ向かおうとしている」ことを、私自身が認めたからだった。


 書架の前で、リューネは、書類束を抱えたまま、立っていた。


 私は、彼女の方へ歩み寄った。

 歩み寄りながら、自分の左肩から血が滴っていることに気づいた。

 しかし、その血は、いま、二の次だった。


「——無事か」


 私は、彼女の頬の傷に、指で触れた。

 触れてから、自分が触れていることに気づいた。


 リューネは、目を見開いた。

 それから、書類束を抱えたまま、微かに肩を引きながら頷いた。


「は、はい。閣下こそ——お肩が」


「——問題ない」


 私は、いつもの言葉で答えた。

 いつもの言葉だが、今夜のそれは、いつもとは違う温度を帯びていた。


「治療が必要でございます。すぐに医務室へ」


 ハインツの声が、背後から聞こえた。

 彼は、書庫の入口で、警備官たちに後処理を指示していた。


「リューネ嬢、貴方が、閣下の手当てをしていただけますか」


「——わたくしが?」


「貴方が一番、閣下の傷を診るのに、適しております」


 ハインツは、それだけ言って、私たちを書庫から出した。

 医務室に着いてからも、当直医官が縫合を終えると、ハインツは「あとは閣下の腹心としてこちらで引き取ります」と告げて、医官と警備官を退室させた。腹心の権限を平然と振るうハインツに、医官は怪訝そうな目を一度向けたが、結局は黙って一礼し、扉の外に立った。


 彼は、嘘を言った。

 彼女が宰相の傷を診るのに「適している」根拠は、職務上、ない。

 しかし、彼女が宰相の傷を診ることが、いま、最も「正しい」ことを、ハインツは知っていた。


 知っていたから、嘘を言った。


 彼の十年来の腹心としての判断を、私は、受け入れた。


---


 医務室は、宰相府の地下にある。


 夜の医務室は静かだった。当直の医官が私の肩を縫合し、止血を確認したあと、ハインツに付き添われて退出した。

 残されたのは、私と、リューネと、扉の外で待機するハインツの気配だけ。


 リューネは、薬瓶と包帯を手に、椅子に座る私の肩の傷に、薬を塗布している。

 彼女の手の動きは、書類を扱うときと同じく、丁寧で正確だった。指は震えていない。怖がってはいないのではなく、怖がっていることを表に出さない訓練が、彼女には染みついていた。


 私は、彼女の手を、見た。

 見ながら、ずっと、何かを言わなければならない、と思っていた。

 しかし、何を言えばいいのか、わからなかった。


 言うべきことは、決まっている。

 しかし、その言葉を発するために、自分の中の何かを、ひとつ、剥がさねばならなかった。


 二十八年、私が築いてきた「鉄壁」を、剥がさねばならなかった。


「リューネ」


 私は、彼女の名を呼んだ。

 名を呼ぶのは、執務室で書類を受け取るとき以外、初めてだった。

 いや、執務室でも、名を呼んだことはない。「ご苦労」と言うだけで済ませていた。


 彼女の手が、わずかに止まった。


「はい、閣下」


「——私は、君が出勤する日と欠勤する日では、私の書類処理速度が一・四倍違うことに、気づいた」


 彼女は、私の言葉の意味を、即座には理解しない顔をした。

 理解しない顔のまま、しかし、手は動かさず、私の言葉を待った。


「私は、君の足音を、回廊の端から聞き分けている。

 私は、君のお辞儀の角度を、十五度だと記憶している。

 私は、君の書類の並べ方が、私の取りやすい順に整えられていることに、気づいている。

 私は、君の句読点のリズムを、見ただけで識別できる」


「——」


「これらが、何を意味するか。私は、ずっと、観察と評価の範囲内である、と自分に言い聞かせてきた。

 だが——」


 言いかけた私の指先に、肩を縛る包帯越しに、彼女の指の温度が伝わった。

 二十八年、これほど鮮明に他人の体温を感じ取ったことは、なかった。


 私は、息を吸った。

 息は、思ったより、深く入った。


「——もう、説明する必要は、ない」


 リューネは、薬瓶を、ゆっくりと机に置いた。

 置いたとき、瓶のなかの薬液が、わずかに揺れる音だけが、医務室に響いた。

 彼女の指は、もう動かなかった。


 それから、私の方を見た。

 目に、驚きと、戸惑いと、そして——わずかに、笑みが、宿った。

 彼女が笑うのを、私は、初めて、正面から見た。

 笑顔は、十五度のお辞儀よりも、ずっと角度の幅が広かった。


「閣下、それは——」


 彼女は、言葉を選んだ。

 選びながら、ほんの一瞬、視線を膝の上の自分の手に落とし、それから、もう一度、私の方を見た。

 選んだあとで、口元を、ほんの少し緩めた。


「——それは、効率的ですね」


 私は、彼女の言葉の意味を、即座には理解できなかった。

 いや、理解はしていた。彼女は、私の言葉を、受け入れた、ということだ。受け入れた上で、私の流儀に合わせた言葉で、応えた、ということだ。


 効率的、と。


 私は、自分の口元が、わずかに動くのを、感じた。

 二十八年で、こんなふうに口元が動いたのは、何度目だろうか。

 数えるほどしか、ない。


「——そうか」


 私は、それだけ言った。


 扉の外で、ハインツが、低く呟くのが聞こえた。


「ようやくか」


 その呟きを、私は、聞こえなかったことにした。

 聞こえなかったことにしたが、口元の動きは、止まらなかった。


---


 数日後。


 宰相府の執務室の隣室——以前は使われていなかった小部屋——に、新しく書記官の机が一つ、運び込まれた。


 その机は、リューネ・アシュベリン子爵令嬢のものだった。

 彼女は、引き続き、宰相府の下級書記官として勤務する。

 ただし、配属が「機密文書整理課」から「宰相直属書記」に変わった。


 配属変更の決裁書類を捌きながら、私は、ハインツに尋ねた。


「ハインツ」


「はい」


「——この配属変更は、職務上、合理的であると、宰相府の上層部に説明できるか」


「説明できますとも、閣下。隣国ザールヴェントとの外交関係が緊迫している現在、機密書類を扱う書記官の安全確保は、最優先課題でございます。隣室で勤務させることで、護衛の効率が向上し、機密漏洩のリスクが低下いたします。完璧に合理的でございます」


「——よろしい」


「ところで、閣下」


「何だ」


「リューネ嬢に、宰相府の家紋入りの上着を、新調なさいますか」


 私は、ペンを止めた。


「——保留する」


「保留、でございますね」


 ハインツは、笑いを噛み殺しながら、業務日誌に何かを書き込んだ。

 書き込みながら、独り言のように、こう言った。


「保留、と書いておきます。ただし、保留期間は、長くて数か月、と推察いたします」


 私は、応えなかった。

 応えずに、ペンを動かした。


 動かしながら、回廊の方から、静かな足音が聞こえてくることに気づいた。

 歩幅が小さく、踵を立てずに足裏を平らに置く、あの足音。


 あと十七歩で、扉が開く。


 今度は、私は、その数字を、戸惑わずに、待った。


---


【あとがき】


最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「鈍感自覚型」の溺愛ストーリーです。冷徹だと言われる男が、自分の溺愛に気づくまでの過程を、データと観察で描きました。


 ヴァルターが「足音の歩数」を数えていることに気づく瞬間が、本作の起点です。鉄壁の宰相は鈍感ではない。むしろ繊細すぎて、自分の感情を「合理的に説明」しようとして混乱する——そのコメディとシリアスの境目を楽しんでいただければ。


 副官ハインツの「閣下、そろそろ我慢の限界なのは閣下のほうですよ」、本作で最もお気に入りの一行です。




◇◆◇ 「冷徹男くろぬし溺愛シリーズ」 ◇◆◇




「冷徹だ」と言われている男たちが、ある女性にだけ無自覚に甘くなる。

そんな攻め視点・ざまぁ抜きの溺愛短編シリーズです。




▼ 公開中


第一作: 「冷徹辺境伯は気づかない——飯を運んでくる薬師見習いの少女を、自分が三度の戦より楽しみにしていることに」




毎週更新中!


☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!

最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「鈍感自覚型」の溺愛ストーリーです。冷徹だと言われる男が、自分の溺愛に気づくまでの過程を、データと観察で描きました。


 ヴァルターが「足音の歩数」を数えていることに気づく瞬間が、本作の起点です。鉄壁の宰相は鈍感ではない。むしろ繊細すぎて、自分の感情を「合理的に説明」しようとして混乱する——そのコメディとシリアスの境目を楽しんでいただければ。


 副官ハインツの「閣下、そろそろ我慢の限界なのは閣下のほうですよ」、本作で最もお気に入りの一行です。




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そんな攻め視点・ざまぁ抜きの溺愛短編シリーズです。




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