55話 水の魔物
扉のドアノブを回して引く。ドアが軋む音と共に感じたのはどうしようもない悪臭だった。
開いた先は別の通路につながっているわけではなかった。小部屋の奥には牢屋のような格子と、その奥を埋め尽くすほどの大きさの水の塊。ゼラチンを固めたような半透明な物質が悪臭を撒き散らしながらあぶくのような泡を吐き出している。目を凝らさずともその泡が恐ろしいまでに濃密な水エーテルを内包していることが分かった。
自然に発生するはずのない異常なエーテルを持つ存在。きっとこれは魔族、あるいは魔物と呼ばれる存在だ。とっさに水のエーテルから私たちを守るべく、火のエーテルで薄い膜を作り出す。
「ひっ……」
後ろからヤーラカーナの小さな悲鳴が聞こえる。けれど私の瞳はその怪物と、下に描かれた魔法陣へと縫い止められていた。描かれていた紋様は見たことがなかったが理解はできる。ティターンと一緒に暮らしていた時に教えてもらった紋様を幾種類か組み合わせていたものだった。
「あの魔法陣……多分、上に乗っているものの魔力を特定の場所へ転送するためのものだわ」
「……っまったく、ひどい水のエーテル量だ。こうしてるだけでも溺れ死にそうじゃないか!」
キリトが吐き捨てた言葉にゼータがハッと何かに気がついたような顔をする。
「……もしかして、だけど。これが……元凶ではないか」
「ええ。きっとそうよ」
間髪入れずに同意したのは、私だ。
この部屋に満ちる水のエーテルは悍ましいと形容できるほどで、例えば一ヶ所の土地に集中して注ぎ込めば一気にエーテルバランスを崩壊させられるだろう。定期的に下の魔法陣を発動させて各地にエーテルを注げば、今頻発している水の事故が起きることは十分にありうる。
でも誰が?何のために?肝心なところが分からない。分からないが放置はできない。
「……この魔物を倒すわ」
今回は偶然が重なり部屋に入れたが、次もそんな保証はない。放っておけばこの魔物はいくらでも水エーテルを吐き出し続けるだろう。
「無謀ですわ!」
「あんな水エーテルに偏ったやつ、倒せばここがどうなるか……!!」
ヤーラカーナ、そしてキリトの制止が聞こえてくる。
キリトの言う通りだ。この空間には先日私が教室を満たした量とは比べならないほどに水のエーテルで満ちている。おそらくこの魔物を倒せば、一瞬で溺れるほどのエーテルが小部屋を満たすだろう。分かっていても引けなかった。
「でも……ここで倒せば、水の始祖を急いで選出する必要はなくなるはず」
まだ皆と一緒に学園で過ごしたい。これは私のわがままだ。水の始祖があれば十分に対処できることを、選ばれたくないから危険を承知でやるなんて。
「皆はさっきの扉から外に出ていて。きっかり三分数え終わったら少しだけドアを開けて、中の様子を伺ってほしいの」
「…………何とかできる手立てはあるのか?」
「まあ、ね。私に任せておきなさい」
髪をかきあげるがこれは見栄だ。余波を全て殺すことはできないだろうし、最悪水エーテルに溺れてしまう可能性は十分にあった。
その言葉を聞いたキリトとヤーラカーナは顔を見合わせて「無理だと思ったらドアを開けなよ?」「万一の治療はお任せくださいませ」と口々に言いながら出ていく。残る一人、ゼータを私は改めて見つめた。
「ゼータ。あんたも危ないから出てなさいよ」
「君を一人にはしたくない。……僕に何かできることはないか?」
相変わらず居心地が悪くなるほどに生真面目な人だ。手をひらひらと横に振る。
「ある訳ないでしょ。ここにいたら余波で倒れる可能性もあるんだから、早く出てなさい」
「倒れるような恐れがある方法なのか」
まっすぐと言われた言葉と視線に僅かにのけぞった。
「……ゼロには出来ないわ。火のエーテルでバリアを張りながら倒すつもりだけど、あれだけの水エーテルを相殺できる保証はない」
最悪一気に体内の火エーテルを失い死ぬ可能性もある。……とは、流石に口にしないだけの良識はある。それでもゼータも馬鹿じゃない。唇を強く引き結んで視線を魔物へと向けた。
「体内循環で火のエーテルを増強させるのは?」
「人一人の身体が持つ熱エネルギーには限界があるわ」
「なら、二人なら?」
その言葉に振り返る。右手を差し出したままゼータは私から目を逸らさない。
「君が僕を器にして魔力を循環させる。必要なら余剰分を貯めておいても構わないさ。空きなら十分にある」
「……私がエーテルを流すことで火傷する可能性もあるわ」
「その調整はもう慣れただろう?それに多少の怪我は臆さないさ」
ゼータの検査をした結果、彼が内包する火属性エーテル量は少なかった。この中では誰よりも火エーテルが少ない状態で動ける存在だ。一瞬の迷いを後押しするように、真剣な表情が綻んだ。
「友だちが頑張ろうとしているんだ。僕にも手伝わせてくれ」
「はあ……どうなっても知らないわよ」
差し出された右手を握りしめる。
火のエーテルをこれまでよりも多く、強く流していく。二人の熱を受けた火のエーテルが活性化していくのが肌身で感じられた。左手を掲げて高らかに唱えていく。普段は簡略化させている呪文を正当な形で。
「ルヴァイス・フィアー・ラウド・ファイア。炎よ、天幕を掲げ我らを守り賜え」
熱気の壁が私たちを囲う。水エーテルと反応して発生した蒸気が部屋を満ちていき、私も、ゼータも、魔物すら覆っていく。
霧向こう、威嚇するように魔物が膨張していくのが爆発的に増えていく水のエーテルと構築される魔法で感じられた。だが恐れることはない。隣にいる彼の存在は繋いだ手が証明してくれたから。
「ルヴァイス・アロウ・ルウィッパ・ファイア。炎よ、矢となり我が敵を射抜け!!」
焔で生み出された巨大な矢が形成される。魔物目掛けて射出された一撃は、正確に核を撃ち抜いたのだろう。歪な奇声と悪化する悪臭。そして何より押し流すようなエーテルの爆発に、私の意識は眩んでしまった。




