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潮騒の影

 オルト=ラグランの外壁を抜けた瞬間、蒼の肺いっぱいに潮の香りが広がった。

 訓練施設の無機質な空調に慣れた鼻には、その香りが驚くほど鮮やかに感じられる。風の温度はやや低めだが、湿り気を帯びてやわらかく頬を撫でた。

 街は、古い石造りの意匠と未来的な構造材が混在していた。地面には灰色の石畳の上に半透明の発光パネルが敷かれ、人々の歩行に合わせて淡く光が流れていく。建物の壁を走る配管には水銀色の液体が脈打ち、角ごとに設置された球体ドローンが天気や混雑状況を告げていた。


「……これが外の世界か」


 思わずこぼれた蒼の言葉に、ゼオは小さく笑う。


「外っていっても、ここも俺たちの守る領域の一部さ。だが……ここは初めてだろう?」


「ええ。こんなに人がいて、こんなに……にぎやかなんて」


 二週間。剣を構えることすらままならなかった自分が、毎日汗だくでゼオの訓練に食らいついた。

 その甲斐あって、今日は初めて「休み」をもらい、ゼオに連れられて街に来た。しかも目的地は、ずっと噂でしか聞いたことのない海沿いのカフェだ。

 通りには、淡い蒼色の布を纏った人々や、背に羽のような装置を付けた配達員が行き交う。商店街の端では、透明な水槽に浮かぶ光る海藻を売る店があり、子どもたちが顔を寄せては歓声を上げていた。

 空を見上げれば、半透明の防風ドームが都市全体を覆い、その外側を雲が低く流れていく。雲の影が街路を横切るたび、発光パネルの色がわずかに変わり、足元が淡い波紋のように揺れた。ドームの境界では、潮風が人工的に濾過され、わずかに甘い香りに変わっていた。市場の一角からは香辛料の匂いが漂い、機械仕掛けの屋台が自動で焼く串焼きの香ばしい煙が鼻をくすぐる。

 人々は厚手のコートに光沢のある防水繊維を織り込み、手首やこめかみには情報端末を装着している。道端では小型ドローンが買い物袋を運び、子どもたちは重力調整ブーツで石畳を軽やかに跳ね回っていた。異星から持ち込まれた果物や、深海鉱石で作られた装飾品が並ぶ露店には、ひっきりなしに客が訪れる。

 そんな喧騒の中、ゼオと蒼はゆっくりと通りを進む。蒼は初めて目にする光景に目を奪われ、視線をあちこちに走らせた。

 ――この世界の人間は、こんなふうに暮らしているのか。戦場ばかり見てきた自分には、どこか遠い光景に思える。


「訓練ばかりじゃ息が詰まる。こういうときは、景色や匂いも“観測”しておくんだ」


 ゼオはわざと大げさに両腕を広げ、潮風を胸いっぱいに吸い込む。


「観測……ですか?」


「そうだ。戦いだけじゃない。この世界の感覚を覚えておくことが、お前の力を磨く」


 その声音は、訓練中よりもずっと柔らかかった。

 蒼は少し笑い、胸の奥が温かくなるのを感じた。――この人は、ただ厳しいだけじゃない。ちゃんと自分を見てくれている。

 ゼオは歩きながら横目で蒼を見やり、


「それにしても君、外に出ると顔が子どもみたいになってるぞ」と笑った。


「……そう見えます?」


「ああ。悪くない顔だ」


 ゼオの後を歩くにつれ、賑やかな通りは徐々に幅を狭め、石畳の隙間に草が覗くようになった。

 大通りの喧騒は遠のき、代わりに港の波音と風の唸りがはっきり耳に届く。

 家々の間を抜けると、倉庫街へと差し掛かった。厚い木板で組まれた建物が並び、壁には潮で白くなった跡がまだらに残っている。

 通りの脇には錆びた鉄製の滑車や網が積まれ、油の匂いと湿った縄の香りが鼻をかすめた。

 風は塩を含み、頬をなめるように吹き抜ける。

 港の外れ、人通りの少ない道に差し掛かったところで――


「君たちはここの戦闘員かい?」


 振り向けば、みすぼらしい老父が立っていた。背は曲がり、衣服は擦り切れ、色も褪せている。だが、その瞳だけは妙に鋭く、まっすぐ蒼たちを射抜いていた。


「ええ。お世話になってます」蒼は反射的に答える。


「そうかいそうかい。いやあ、助かってるよ。こうして安全に暮らせるのは、君たちみたいな能力者のおかげだ。君たちみたいな能力がうらやましいよ。本当に。本当に……」


 言葉が一瞬途切れた後、老父の口元が不気味に吊り上がる。


「……食べたくなるくらいね」


 その瞬間、蒼に向けて腕が伸びた。動きは異様に速い――だが、その腕は何かに阻まれ、寸前で止まった。

 蒼はわずかに後ずさり、心臓が跳ねる音を感じる。


「場所を移そうか」


 ゼオが短く告げる。その声音は冷たく、青い義眼が鋭く光った。

 気づいたときには、海岸沿いの広い砂浜に立っていた。

 足元の砂が、瞬間移動の衝撃でわずかに舞い上がり、遅れて落ちてくる。背後では街の輪郭が遠く霞み、ここが人の目から完全に外れた場所だとわかる。


「ははは……こりゃおもしれえ」


 老父――いや、すでにその面影は消えかけていた――は口角を吊り上げ、黒く濁った瞳でこちらを見据えていた。


「こんなに速く移動ができるとはな。お前……さては、だいぶ強い人間だな。俺はな、強い人間が大好きなんだぜ~」


 皮膚が波打ち、骨格が音を立てて変形する。薄汚れた外套は裂け、節くれだった腕が甲殻のような光沢を帯びて伸びた。人間だったはずの顔が、ゆっくりと異形へと崩れていく。


「蒼、いい機会だ。ここでしっかり能力の使い方を学ぶんだぞ」


 ゼオの声は低く、しかし確かな熱を帯びている。


「……はい」


「おいおい、なめられたものだな~」模倣者は、海風に髪――いや、触角を揺らしながら笑う。


「言っとくが、俺はそれなりに強いぜ」


 変わった模倣者だ。こんなに饒舌に話す個体は滅多にいない。しかも、あの精巧な擬態――さっきまで完全に人間として通用していたのが恐ろしい。


「それなりに、だろ」


 ゼオはわずかに首を傾げ、青い義眼を細める。


「確かに君は強そうだけど、最強には程遠いさ」


 その瞬間、模倣者の身体が視界から弾かれたように吹き飛び、数メートル先の砂に叩きつけられていた。

 気づけばゼオの右手には、刀身むき出しの長剣――黒金の鍔と、光を吸い込むような刃を持つ武器――が握られている。


「……何が起こった?」


 蒼には、あまりにも速すぎて目で追うことすらできなかった。


「うひゃーー。強えぇ。もしかしてあんたが閃牙せんがのゼオか!」


「僕も有名になったものだね」


 そのとき、強い潮風が頬を打ち、砂を巻き上げた。遠くで波が牙を剥くように盛り上がり、海は不穏なうねりを見せていた。

 波が不気味にうねった。

 海面が、まるで見えない巨人に引っ張られるかのように遠くへと引き絞られていく。次の瞬間、足元の砂浜までもが沈み込むような感覚に襲われ、蒼は反射的に後ずさった。


「……引いてる?」


 思わず呟いた声は、轟音にかき消される。


「いい能力だろ。潮汐力を操れるんだ。食ってから何年も経つがいまだに使ってるやつだ。若いうちに食っててよかったよ。本当に。こんな能力うまく扱えられたら怖いもんなー」

 

 模倣者の両腕が、海へと向けて大きく広がった。その掌から伸びた半透明の揺らぎが、海水と大気を同時に引き寄せる。引力と斥力が周期的に反転し、海そのものが呼吸するように前後へと脈動していた。


「地殻の奥まで届く潮の“揺れ”を操る……面倒な相手だな」


 ゼオは静かに剣を構え、青い義眼が戦場全体を射抜く。


「存分に暴れてやるぜ~」


 模倣者は嘲笑と共に、海面を一気に押し返した。

 遥か沖から迫る水の壁――高さ十数メートルの波が、牙を剥いて砂浜を飲み込もうと迫る。

 ゼオの姿が、視界から消えた。

 瞬きの間に波の頂点へと跳び上がり、刃が稲光のように走る。斬撃と同時に波が真横に割れ、巨水の質量が二分されて海へと落ちる。その余波で、空気そのものが震えた。

 だが模倣者は笑いをやめない。

 切り裂かれた海水が渦を巻き、今度は海底から巨大な水柱が噴き上がる。それは槍の群れのようにゼオを貫かんと迫る――。

 青い閃光が一閃。

 水柱は触れる前にすべて霧散し、潮風に溶けていった。

 蒼はただ、息を呑んで立ち尽くすしかなかった。

 目の前の戦いは、ただの戦闘ではない。地形ごと戦場を支配する能力者同士の、常識の外のぶつかり合いだった。

 海岸線が、低く唸るように震えた。

 模倣者が両腕を広げ、足元から海底へ向けて不可視の力を注ぎ込む。潮汐力――惑星規模で働く引力と遠心力の差を、局所的に操る能力だ。

 沖合が、不自然なまでに沈み込む。水面が吸い込まれるように下がり、逆にゼオの足元の砂浜が隆起を始めた。湿った砂が音もなく押し上げられ、まるで大地そのものが波打つように盛り上がる。


「海底隆起……街側に押し返す気か」


 ゼオは即座に状況を見抜く。

 砂浜の奥には街の港湾区。そこを押し潰すように、海底が巨大な盾となって迫り上がってきていた。


「どうする? 見てるだけか?」


模倣者が嘲る。


「……悪いが、守るべきものは後ろだ」


 ゼオの青い義眼がわずかに光を帯びた。

 次の瞬間、刃が砂煙を裂く。ゼオは隆起した砂の稜線を一直線に駆け上がり、頂点で踏み込み、地面ごと斬り裂いた。亀裂が一直線に走り、盛り上がった砂丘が音を立てて崩れ落ちる。海水が一気に流れ込み、隆起は相殺された。

 だが模倣者は一歩も引かない。


「ほぉ、やるじゃねえか。でも潮は一方向にしか流れないと思ったら大間違いだ」


 突如、足元がふわりと浮く。

 蒼は息を呑む。地面が沈むのではなく、周囲の質量が一瞬で軽くなったのだ。まるで重力そのものが引き剥がされたように、砂が舞い、ゼオの立つ位置へと吸い寄せられる。


「今度は局所的なタイプか……器用だね」


 模倣者はまるで糸で操るように、地形の引き剥がしと圧縮を繰り返す。足元の砂や石が引力と斥力の狭間で砕け、爆ぜる。ゼオはその間隙を縫って動き続けるが、わずかに着地の間合いが乱れる。

刀を構え直し、静止する。


「蒼、よく見てろよ。これがフェーズ能力の最高峰だ」


 空気が変わった。

 海風が急に重くなり、音が遠くなる。義眼の奥に、淡い光が螺旋を描き始める。

 蒼は理解した。ゼオが、次の段階へ踏み込もうとしている。


「フェーズ……3」


 呟きと同時に、剣先から放たれる圧が潮の流れを止めた。模倣者の操る海も、地も、その瞬間だけ凍り付くように静止する――。

 その刹那、戦場が一変する。



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