白銀の影、苦い一杯
潮の匂いだけが残った砂浜を、二人は並んで歩いていた。
先ほどまで世界を呑み込むかのように押し寄せていた津波も、今は幻だったかのように静まり返っている。
「……街、大丈夫なんですか?」
蒼が恐る恐る問いかける。
ゼオはわずかに肩をすくめ、涼しい顔で答えた。
「大丈夫だ。あそこには地下シェルターがある。住民は慣れているさ」
「慣れている……」
戦場を「慣れ」という言葉で片づけるゼオに、蒼は返す言葉を見失った。
だが、確かに街並みは無傷だった。あれだけの潮汐力を扱う模倣者が現れたにもかかわらず――建物ひとつ崩れていない。
それは、ゼオという存在の「抑止力」を示す証そのものだった。
恐ろしいほどに強大で、しかし本人はそれを当然のように受け止めている。
潮騒の残響が、逆に耳を痛くするほど静かに響いた。
オルト=ラグランの本部に戻ると、冷ややかな空気が出迎えた。
戦いの余韻も、血の匂いも、ここには存在しない。ただ無機質な壁と光る記録端末が整然と並んでいるだけだ。
待っていたのは記録官だった。痩せぎすの男で、細い指をせわしなく動かしながら端末に何かを打ち込んでいる。
彼は顔を上げるなり、最低限の挨拶だけで切り込んできた。
「街で模倣者が現れたそうですね。情報班の報告では“潮汐力”を扱う個体で、フェーズ3まで到達していたとか」
「その通りだ」
ゼオは短く答える。
「……で、その後については? 情報では、戦闘の途中で急に痕跡が途絶えたとありますが」
蒼は思わず身を乗り出した。
「あの……実は“白銀の――」
「今はいい」
ゼオの低い声が、その言葉を封じた。
視線だけで、それ以上の追及を許さない。
「……」
蒼は口を閉ざした。
記録官は二人のやり取りに眉をひそめたが、興味を持つことなく打鍵を再開する。
カタカタと乾いた音が部屋に響き、やがて冷ややかな声が落ちた。
「では、“潮汐力”個体は殲滅済み、という報告でよろしいですね?」
「そういうことにしておこう」
ゼオは淡々と告げる。
記録官は満足そうに頷き、端末に最終入力を打ち込む。
「……はい、確認完了。報告は以上です」
まるで戦いの詳細など数字の羅列にすぎないと言わんばかりだった。
蒼の胸には、言い知れぬ違和感だけが残った。
さっき見た光景――“白銀の天使”のことを、どうしても心の中から追い出せない。
けれどゼオの横顔は、何も語らせない壁のように沈黙を守っていた。
報告を終え、二人は本部の長い廊下を並んで歩いていた。
白い壁に足音だけが反響し、先ほどの戦場との落差がひどく現実感を奪っていく。
「……なんか、報告ってすごく簡素なんですね」
蒼がぽつりと口にした。
「ああ。この報告は生存確認の面も強い。それにあの人たちも効率しか頭にないからな。とくに記録官の上の偉い連中は、筋金入りの効率厨だ」
ゼオは肩をすくめ、苦笑混じりに答えた。
「効率厨……そんな言い方するんですね」
「事実だからな。彼らにとって戦闘報告なんて数字と処理の羅列にすぎない。細かい経緯を伝えたところで“はいはい”で流されるだけだ」
「……でも、本当に“倒したことにする”でいいんですか?」
蒼は足を止め、思わず問いかけた。
ゼオも立ち止まり、しばし沈黙のあとに短く返す。
「いいんだよ」
「どうして……?」
「情報は多ければいいってもんじゃない。余計なものを持ち込めば、あの人たちはかえって混乱する。必要なのは“処理しやすい結果”だ。事実そのものよりな」
歩き出したゼオの背中を追いながら、蒼は唇を噛む。
その言葉が本心のようには思えなかった。何か別の意図が感じられた。
「でも、あの“白銀の――」
「蒼」
呼び止められ、息を飲む。
ゼオの声は柔らかいはずなのに、逆らえない重みを帯びていた。
「お前には、いま考えるべきことが別にある。それで十分だ」
その横顔は笑っているようにも、突き放しているようにも見えた。
廊下の白い光の中で、蒼はただ頷くしかなかった。
数刻後、第Ⅱ部隊の拠点。
小さな休憩スペースのテーブルに、湯気の立つカップが二つ並んでいた。
「派手に戦ったせいで、街の住民はだいたい地下シェルターに避難しちゃったからな」
ゼオはさらりと言い、肩をすくめる。
「海沿いのカフェはまた今度だ。今日はこれで我慢してくれ」
蒼は恐る恐るカップを手に取り、一口。
「……苦っ!」
思わず顔をしかめる。
対面のゼオは平然とカップを傾けていた。
「隊長、これ……味覚、壊れてません?」
「いや、普通だ」
「嘘だぁ……」
蒼の愚痴混じりの声に、ゼオの口元がほんのわずかに動いた。
笑ったのか、それとも気のせいか――蒼には判別できなかった。
カップを置き、蒼は深く息を吐く。
口の中に残る苦味はどうしても慣れそうにない。けれど、不思議と心は落ち着いていた。
――地球にいた頃も、こんなふうにコーヒーを飲んでいた。
大学近くのコンビニで買った紙カップ。値段は安く、味も大して良くはなかった。
それでも、眠気覚ましには十分だった。研究室に戻っては、膨大な数式やシミュレーションに没頭する日々。やりがいも感じていたが院生としての日々は決して楽ではなかった。
だが今は――。
目の前には、物理法則そのものが歪んだ異世界。
重力や慣性の解釈が揺らぎ、能力者がそれを「観測」して操る世界。
普通なら、戸惑いと恐怖ばかりが募るはずだった。
だが、不思議と心は沈まなかった。
ゼオやユーラ、カイ、ミレイたちと並んで座っていると、研究室での雑談のような空気すら感じられる。
(……ここは地球じゃない。けど、組織の空気にはどこか懐かしさがある)
蒼はそう思った。
言葉にできない安心感。
まるで自分の知らない誰かが、すでにこの場所に“地球の匂い”を残していったかのように。
陶器のカップは重く、手に伝わる温度も不揃いで、地球の均質な紙コップとはまるで違う。
けれど、その不完全さすら、なぜか心地よかった。
蒼はカップを置き、ふと気になっていたことを口にした。
「そういえば……フェーズ3って何なんですか? ユーラさんからはフェーズ2までしか聞いてないんですけど」
ゼオは軽く眉を上げ、背もたれに寄りかかる。
「お、そうか、まだ知らないのか」
わずかに口角を上げて、彼は指を一本立てた。
「まずはおさらいだ。フェーズ1は“自分限定”の覚醒段階だ。能力は基本的に自分の体にしか作用しない」
「……はい」
「フェーズ2は“拡張”。他者や武器、環境にまで作用できる。自由度も一気に増える。ユーラの槍がその典型だな」
蒼は思わず頷いた。戦場で見た光景が鮮明によみがえる。
「そしてフェーズ3――これは“領域”だ」
ゼオの声色が少しだけ低くなる。
「能力が空間そのものに作用し、局所的な物理法則を上書きする。今回の模倣者が展開した潮汐力の場もそれに当たる」
蒼は息を呑んだ。
「空間を……支配する?」
「そういうことだ。ただし同じフェーズ3同士がぶつかれば、より精練された方がその場を奪う。だから単純な力比べじゃなく、経験と相性がものを言う」
「でも……そんなの、普通の人には絶対勝てないじゃないですか」
「普通の人は到達すらできん。だから“限られた者だけの領域”なんだ」
ゼオはカップを持ち上げ、もう冷めた液体を飲み干す。
「ただな――その代償も大きい。法則を捻じ曲げ続ける負担は常軌を逸する。長く維持できる奴はほとんどいない」
蒼は黙り込む。
領域を展開する模倣者の姿が脳裏にちらついた。あの圧迫感。あの閉ざされた空気。
自分には到底立ち入れない、別世界の戦いに思えた。
ゼオはカップを空にして、軽く息を吐いた。
「……じゃあこれからの話をしようか」
蒼は姿勢を正した。隊長の声色が、少しだけ真剣なものに変わったのがわかった。
「この二週間で、君はまだまだ未熟だが、それでも大きな肉体的成長を遂げた。だが当然だが――宙規戦で戦う相手は、君よりもずっと長い訓練を積んでいる。身体だけで挑んだら、一瞬で押し潰される」
蒼はごくりと唾を飲む。
「だから、これからは能力を鍛える。今までの身体訓練は、最低限、戦場で体を動かせるようにするためのものだ。もちろん今後も継続するがな」
「……能力を」
「そうだ。君は以前、重力を操っていたな? あれは――観測によるものだろう?」
蒼は小さくうなずいた。ゼオの視線が鋭くなり、同時にどこか懐かしむような色が宿る。
「見たところ、君には固有の能力はない。だが……観測能力が飛び抜けて高い。僕の友人にも、かつて似たような奴がいたよ」
「友人……?」
「ま、詳しい話は今度だ」
ゼオは軽く笑って流す。
「重要なのは――君は観測次第で、何者にでもなれるってことだ」
蒼の胸に、言葉の重みが沈んでいく。
「だから、これからはそれを徹底的に伸ばす。……今日は軽く筋トレして休め。明日からが本番だ。能力を伸ばす訓練に入るぞ」
ゼオの言葉に、蒼はただ強くうなずくしかなかった。
蒼は深く息をつき、湯気の消えかけたカップを見つめる。苦いはずのコーヒーが、不思議と胸を温めるような気がした。
「……はい。やってみます」
口にしたその一言に、震えはなかった。
ゼオは満足げにうなずき、椅子を鳴らして立ち上がる。
「よし。それでいい。明日からは容赦しないからな」
「……はい」
廊下に出たときには、拠点の灯りがほとんど落ちていた。遠くで夜勤の兵が交代する靴音だけが響いている。
疲労で重くなった体を引きずりながらも、蒼の足取りにはどこか確かなものがあった。
――観測次第で、何者にでもなれる。
ゼオの言葉が、頭の奥で何度も反響する。
眠気に引き込まれながらも、その言葉だけは薄れずに、胸の底に刻まれていた。
こうして、蒼にとって本当の意味での“訓練”が始まろうとしていた。
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