天魔 十八
ヨハン少年は裏口を抜けて、宿屋の敷地に入った。
既にパン職人たちが正面を突破して、雪崩れ込んでいた。
意気込んだパン職人たちが無暗と走り回っているが、大勢は決したようで剣げきの音は少ない。
松明を持った武装した男たちが近くに来る度、少年は警戒するが、逆にパン職人らはヨハンを認識して武器を下げてくれた。
そんな中、身の毛がよだつ断末魔が聞こえたので、少年はそちらに足を向けた。
するとうまやの入り口で、警吏ピーターが戦っていた。
彼の前に二人の賊が槍を持って並び、次々と突き掛けていた。
しかし彼は巧みにを殺人斧を振るって、穂先を打ち払っている。
そしてヨハン少年に気付くと、二人を引き付けて、ヨハン少年に背が向くように仕向けた。
ヨハン少年は忍び寄って、賊の尻を一突きした。悲鳴を上げる傭兵崩れ。
残る一人が、ぎょっとして一瞬こちらを見た。
その隙に、警吏ピーターが前に出た。柄を両手で握って、単純に対面の賊を押し出す。
押し込まれた賊は数歩下がり、尻を抱えて倒れてる賊に蹴つまづいて、ひっくり返った。
あとはもう、畑を耕すように殺人斧を振り下ろすだけだった。
強力な一撃や、巧妙な技を繰り出した訳ではない。
しかし明らかに、狙ってやった。
ヨハン少年が頭の片隅でそう思う間にも、彼は首を振って周りを視ていた。
「中だ! 入れ!」
警吏ピーターが指さして、ヨハン少年に指示をした。
咄嗟に、うまやに飛び込んだ。
中に馬はおらず、馬房の中に、あの黒衣の中年女がいた。
もっとも、その黒い長衣は脱いで、女の子を包んでいる。
その下は、ピーターと同じような、詰め物入り厚手上着を着ている。
アポロニアだ! ぐったりしてる? 怪我か?
ヨハン少年は、頭から馬房に滑り込んだ。
「大丈夫。大きな怪我はしてない。眠っているだけ」
たしかヴィ―と呼ばれていた中年女が、ヨハンに言った。
ヨハンを見て、少し驚いているのがわかった。
それから、片方の口角を吊り上げて、不敵な笑みを見せた。
「小さな騎士殿、お姫様を守る覚悟はできてるかい?」
ヨハンがうなずくと、中年女は少女を背負うと、軽々と立ち上がった。
「ピーター! 突破するよ! あんたが先鋒、小僧が後詰だ!」
まるで夜空を斬り裂くような、鮮烈な声だった。
走り出した中年女に引っ張られるように、ヨハン少年も走り出した。
突入するまで身を潜めていた岩陰まで戻ると、黒い馬が待っていた。
中年女は馬にまたがると、自分の前に少女を座らせて、今度は松明の灯りを持って市に戻って行った。
それを見送った後の事は、ヨハン少年はよく思い出せなかった。
疲労と負傷で、限界だったからだ。
途中からは、パウルスの背中に背負われていた。
警吏ピーターが、ルールマン親方をなだめている様子を覚えている。
その後、皆で市に戻る際に、何故か先導するピーターが、道を見失ったり探したり、もたもたしていたのを覚えている。
皆が疲れてたとは言え、あれでたぶん、小一時間ぐらいは時間を無駄にした。
大先生が、ピーターに、
「この度は、我らを上手く使って頂けたようで、何よりだ」
と、声をかけていた。
パン職人たちの興奮した話から漏れ聞こえるだけでも、この初老の剣豪の活躍が伺い知れた。
「そう言ってもらえれば、ありがたいです。一番の達人を囮にするのも心苦しかったのですが」
と、ピーターが持ち上げて見せれば、
「いやいや。よく熟れた采配で、あんたの経験のほどが判った。差し支えなければ、今度、ご一献いかがですかな?」
と、ヨハネスが返していた。
翌日の夕方になって、ホーホベルク家の客人用の寝床で、ヨハン少年は目を覚ました。
滑らかな肌触りの寝具に少年が目を回していると、一家の夕食に招かれた。
綺麗な服を汚す事への怖れと、見た事も無い上手い料理を貪りたい欲求に挟まれて苦しんでいると、ゲルトルートがヨハン少年に前掛けを結んでくれた。
「ヨハン。この度、お前が示した勇気と献身は、この件に関わった者みなが認めている」
ヨハネス・リヒテナウナーが、少年に声をかけた。
「それは、お父上がお前に残したものなんだろう。きっと、誇りに思われるに違いない」
ヨハン少年は、うつむいて鼻をすすった。
食事の後、昨晩の後始末の成り行きを聞いた。
あの宿屋の主は、うろんな輩と親しく、色々と便宜を図っていたそうだ。
その中には戦場用の武具の預りや、盗品の故買といった違法行為も含まれていた。
しばしば彼らは私戦の下働きもしていたらしい。
残党は戦時担当委員が追っていて、ほどなく縛り首になる見込みだそうだ。
「それと、アポロニアの事なんだが――」
パウルスが、言いよどんだ。
ヨハン少年は、彼の顔を見た。
「当面、彼女はヘルツォーゲンアウラハの女子修道院で暮らす事になった」
ヘルツォーゲンアウラハは、ニュルンベルクの北方20kmほどの所にある町である。
ヨハンネスは困惑した。
「修道女に、なっちゃうんスか」
「いや、しばらく修道院に預けるだけだ。祈祷と労働の生活を送るが、正式な誓願は立てない」
「……なんでッスか」
かろうじて出てきたのは、その言葉だけだった。
「有り体に言えば、今回の件で、彼女の評判に傷が付いた。口さがない世間の人々から彼女を守る必要がある」
「そんな、だって、あのコは何も悪くないじゃねぇか!」
少年は抗議した。
自然と涙が溢れた。
「まあ、待て。これはルールマンさんが言っていた話なんだが。もし五年ぐらいして、立派な市民が彼女に結婚を申し込むなら、検討してもいいと言っていた。彼としては娘はできればニュルンベルクの市民に嫁がせたいそうだ」
パウルスにそんな事を言われ、ヨハンネスは目を丸くした。
「……アポロニアには、会えるんスか」
「体調が回復するまで、しばらくは無理かもしれない。ただヘルツォーゲンアウラハに向かう準備も必要なはずだ。その間にいくらでも時間はあるだろう」
パウルスの返答に、ヨハンネスはうなずいた。
団ぐりを食べて肥えた豚が解体される季節になった。
翌日、ヨハネスは聖霊施療院を出る事になっていた。
ルールマン氏のたっての希望で、住み込みの徒弟として彼の元で修行を積む事になったからだ。
パウルス、老ドロテーア、孤児アルノー、施療院の奉公人や修道士たちが参加する食事会が催された。
食後に、蜂蜜菓子が出た。蜂蜜と香辛料入りの焼き菓子で、扁桃や砂糖漬けの橙皮が乗せられ、見た目にも鮮やかだ。
ニュルンベルク周辺では、修道会でよく作られている。
「ヨハン、あたしはもういいから、あんたお食べ」
皆が舌鼓を打っている時に、老ドロテーアがそんな風に言って、菓子が一切れ残った皿を少年の方に押しやった。
老女が甘い物が好きなのを、少年は知っていた。
菓子が欲しい訳ではないが、少年は老女に甘えたかった。
「じゃあ、はんぶんこにすっか」
手を伸ばして、菓子を手で割り、半分を口に運んだ。
少年は何十年も経っても、その味を幸せな記憶と共に思い出すことができた。
後年、彼が作成を監督した武術書の中で、彼の名は「ヨハネス・レックヒュナー(Johannes Lecküchner)」と記されている。
この苗字は、Lebküchner(レープクーヘン職人)の転写間違い、またはなまって転じたものだとされている。
これにて第六話「天魔」終了でございます。お付き合いいただき、ありがとうございました。
1441年は、あとイベント二つあります。
・最終的にニュルンベルクが168騎の騎兵団を出陣させる事になる「ヴァルデンフェルスのフェーデ」の起点となる出来事
・ベルリンでユダヤ人の追放が始まる。「すべての禁じられた術と邪信と魔術の書」の著者、ヨハネス・ハルトリープ(第四話で顔出ししました)が裏で糸を引いています。
この二話を挟んで、次がまたヨハン少年の話になるかと思います。
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