天魔 十六
それからほどなくして、上流から小舟のかいをこぐ音が聞こえてきた。
近づいてくる小舟の上には、幽鬼のような人影が二つ。
ろうそく行灯を手に持っている。
小舟は、水車小屋に横付けした。
行灯の光に照らし出されたのは、右手を背に隠したヨハン少年。
左手を眼の辺りにかざして、視線を逸らしている。
行灯を掲げたのとは別の人影が、船端を越えて水車小屋に飛び乗り、少年に長包丁を叩き付けてきた。
イエルクリングだ。
ヨハンは、普段と逆側から攻撃されているのに突然気付いた。
当たり前だが、イエルクリングは右腕を失っているので左手で長包丁を扱っている。
このままでは右拳に切りつけられてしまう。
慌てて手を引いて逃げるが、船底の横木に足を取られて、ひっくり返ってしまった。
あばらが痛む。無視。
勢いのまま後転して立ち上がった。イエルクリングの追撃。突き。
表刃のねじり斬りで反らし、裏刃の流し目斬りで反撃した。すぐさまイエルクリングの剣先が引かれ、外旋する前腕を刃で抑え、押し斬ろうとしてくる。
慌てて手を引きながら、飛び離れる。かかとが何か当たる痛みは無視。前腕は浅く斬られたが、動く。
イエルクリングは、遣う。
罠にかける。
真横から斬り付けた。
ただし正対するイエルクリングに向けてではなく、一人分ぐらい右に向けて長包丁を振り出す。
これは見分けが付かないはず。
予想通りイエルクリングは長包丁の刃を立てて、横斬りを受けようとした。
刃が打つかる直前に、ねじり斬りの要領で前腕を内旋させる。
すると、立てた刃の外側から包み込むように、ヨハン少年の裏刃が打つかる。
師の得意技、裏刃斬り。
切っ先はイエルクリングの喉元を向いてる。
そのまま、右前に一歩踏み出してイエルクリングを突こうとして、突然のあばらの痛みにヨハンは背を丸めてしまった。
その隙に、イエルクリングはヨハン少年の腹を蹴った。
少年は、身体ごと河面に投げ出される。
イエルクリングは後を追って飛び込もうとしたが、自らの隻腕に気付いて舌打ちした。
「おい、止めを刺せ」
行灯をかざしている男に命じたが、彼は、それどころではない、という様子で河岸を指さした。
河岸に、松明を持った男たちが集まってきていた。
「そこにいるのは、誰だ!?」
誰何する声が響く。
イエルクリングは怒りの声を上げたが、結局は下流へ舟を向け、逃亡した。
暗い水中に落ちたヨハンは、恐慌に陥って水を飲んでしまった。
無我夢中で手足を振り回した。
時間の感覚が無くなり、どれくらいそうしていたのか思い出せない。
ただ、これで死ぬのだ、と思った事をはっきり覚えている。
気付いたら、胸を強く押されていた。
あばらが折れそうだ。
痛い、やめてくれ、と手を振り払ったら、誰かに当たった。
目を開けると、知らないおばさんに口づけをされていた。
真っ白な肌、抜けるような金髪。
誰だと問おうとしたら、口からたくさんの水が溢れた
むせ返り、背を折って、噴き出すように水を吐いた。口と鼻から、泡立った水がどっと流れ落ちる。
息も絶え絶えになっていると、ぐっと引き起こされ、鼻の下に何か刺すような匂いの油を塗られた。
「西洋当帰の油。一口だけ、飲みなさい。」
さきほどの女性——真っ黒な黒衣を着ている——に言われて、陶器の小さい瓶に口を付けた。
ひどい味。
そこで、パウルスや、ハンス・ペグニッツァー、パン屋ルールマン、ヨハネス・リヒテナウアーや警吏ピーターに囲まれているのに気付いた。
全員、服がすっかり水を含んでいる。
「さて、ヨハンも無事なようだし、連中を追わねばな」
ヨハネスが、顎ひげから水を絞りながら、言った。
「それについては、オレの奥さんに任せてください」
警吏のピータ―が言った。
怪訝な顔をする男たち。
「ヴィー、頼む」
ピーターが黒衣の女性に言うと、彼女は口笛を吹いた。
やがて、闇の中から行灯の灯りの中に、真っ黒な馬が現れた。
ひづめに、布を巻き付けてある。
ヴィ―と呼ばれた女性は、馬の頭を抱えるようにすると、何事かささやく。
そうしながら、懐から陶器の瓶を取り出して、何か赤黒い液体を手に取ると、馬の首筋に刷り込んでいった。
異様な光景に男たちが息を呑んでいると、女性は黒馬にまたがった。
闇の中、明りも灯さずに歩き去る人馬。
「彼女が先行して、道しるべを落としてくれます。私らは、それを追いましょう」
警吏ピーターが、そう言って立ち上がった。
「え、あれって魔女……」
ハンス・ペグニッツァーがぼそりと漏らしたが、ヨハネス・リヒテナウアーが肘で小突いて黙らせた。
他の男たちは、何も言わない。
警吏ピーターは、それを見てうなずいた。
「ルールマンさんは、一度小ハラー門に戻って、親方衆を連れてきてください。ヨハン君の面倒を見る人を一人残しましょう」
「では、私が」
パウルス・カルが手をあげた。
「では、残りの方々は、私と一緒に夜の追跡行です。行灯は覆って、足元だけを照らしてください。私語は慎んでください。行きましょう」
やがて、警吏と、遅れて来たパン職人たちが、河原から立ち去った。
一方、ヨハン少年は横たわったまま、起き上がれずにいた。
死ぬ所だったという認識が、足元が崩れるような感覚をもたらした。
そのヨハンネスの足元に、パウルス・カルが立った。
「大丈夫か?」
青年の表情と声音に、少年は目にあふれる物をこらえきれなくなった。
少年は前腕を上げて眼を隠すが、しゃくり上げる声は隠せない。
「遅ぇんスよ、アニキ」
「すまん」
青年は詫びると、腰を下ろした。
少年が落ち着くまで、待つ。
「俺、もう耐えらんねぇよ」
少年は、弱音を吐いた。
「俺ぁ、多分ずっと、こんなだ。必死こいてやってきたけど、もうウンザリだ」
せきを切ったように、言葉があふれた。
「死にかけて、分かったッス。俺は独りなんスよ。独りでおっ死んで、葬式もされずに腐ってくんス。寂しいってのが、こんなに怖ぇ気分だと知らなかったっス」
少年の独白に、青年は立ち上がった。
「……これからイエルクリングを追い詰め、パン屋の娘を取り戻す。お前も来い」
「無理だ。次はもうねぇ。くたばっちまう」
「そうしたら、私がお前を葬ってやる」
そう言って、パウルスはヨハン少年に手を差し出した。
一拍の間が空いて、ヨハンはゆっくりその手を握った。
パウルスは、引っ張りあげるように、ヨハンネスを立たせる。
「今日からは、私たちは兄弟だ」
空いた腕でヨハンネスの肩を抱いて、ホアキムが言った。
少年は、額をパウルスの胸に預け、しばらくそのままでいた。
「それは、アニキが入ってる何かの兄弟団に入れてもらえるとか、そういう事っすか…?」
やがて、少年は尋ねた。
「いや、今から作る。うちの流派の剣士たちが助け合う為の、どちらかというと結社だな」
パウルスは、そう答え、そして唇の端を持ち上げて笑みを見せた。
「お前が、最初の兄弟だ。お前が良ければ、だが」
そう言われてしまえば、ヨハン少年はまた目頭が熱くなってしまうのだった。




