天魔 十五
翌日、ヨハン少年は目を覚ました。
どこで折れたのか左手の薬指が折れていた。
呼吸をすると痛むので、あばらもひびが入っていると思われた。
打ち身も多数。
青とか赤くなっているのはどうという事はないが、黄色くなっているのは筋肉の深い所で内出血しているので時間がかかる。
前歯が一本折れて尖った歯根が残っているので、やっとこで抜いてもらった。
頭は、裂傷があり数針縫った。
熱っぽく、ぼんやりして集中できない。
鈍い鈍痛は常にあったが、特に夜寝る頃になると刺すような痛みが出始めた。
眠る事ができなくて辛い。
それでも一週間ほど経つと頭痛もだいぶ和らぎ、床から出る事ができるようになった。
たった一週間であったが、それでも久々に立つと、足がふらつく。
そんなある日、晩鐘も鳴ってしばらくした頃。
寝床に入ろうとしてたヨハン少年の元に、老ドロテーアがヨタヨタと駆け寄った。
「さっきあんたに、伝言があったんだよ。なんか物乞いを使いに寄こして、“今晩、俺の右手が失われた場所で待つ。来なければ娘の命はない”ってさ」
それを聞いて、ヨハンネスはうろたえた。
「アァ? なんだよそれ――」
途中まで言いかけて、口をつぐんだ。
イエルクリング以外に何があるって言うんだ。
老ドロテーアの顔が、何を言っているんだと怒っていないか心配になり、伺う。
彼女の表情には、ヨハンネスが心配していたような感情は読み取れない。
彼はそう思った。
「今、アポロニアが家に帰っていないんだよ。今、パン職人親方の職業組合が、探し回っている」
ヨハンネスは目まいがした。
自分の視点が頭の後ろの高い所に後退し、部屋がゆっくり傾いて行くような感覚。
「ルールマンの親父には、伝えたのかよ?」
少年は、そう尋ねた。
「もちろんだよ。今、パン職人たちが出入りの支度をしている。れっきとした市民の娘がさらわれたんだ、警吏のピーターも出張って来るはずさ」
「……」
少年は、呆然と座り込んだ。
「それで、お前さん、どうするんだい?」
「どうするって?」
ヨハン少年は、不意を打たれた顔をした。
彼は、自分にできる事はもう無い、と考えていた。
「あの片腕の輩はあんたを狙っているんだよ」
「ア? 俺に、行けってのか? 俺にそこまでする義理があんのかよ? 俺にゃ関係ない」
驚いたようにまくし立てるヨハンネス。
ドロテーアは、彼に失望の表情を向けた。
「じゃあ聞くけど、あんたに関係ある人間ってのは、一体誰がいるんだい? 今生きている人でだよ」
ヨハンは言葉に詰まった。
「あんた、ここで逃げたら、一生、関係ない人しかいなくなるよ」
ドロテーアの叱責を受け、少年は怯え、戸惑った。
いら立ち、恨み、老女の不人情をののしり、ろうそくを持って、裸足で中庭に飛び出した。
べそをかきながら歩いていると、不意に暗闇の中に五月柱が浮き上がった。
ヨハン少年は、その白樺の柱を見上げた。
頭頂部の葉は、すべて落ちてしまっている。
少年は涙を拭い、向きを変えて、ルールマンのパン屋に歩を向けた。
その日の夕刻。
西のハラー小門の内側、衛兵の控室に、長包丁を携えた少年の姿があった。
頭には包帯。左の薬指には添え木。
傍らには、ルールマンと警吏のピーターが立っていた。
ルールマンは石弓と長包丁を持ち、麦わら帽子状の鉄の兜、綿をぎっしり詰めた刺し子縫いの上着といった装いだった。
職人も都市防衛の際には担当部署が決まっており、その為の武装を普段から用意している。
パン職人親方職業組合の面々も、人目を避け、ハラー小門近くの懇意の酒場に武装して集合していた。
「娘の無事が最優先だ。身代金なら払うと、伝えてくれ」
ルールマンは、大柄な男だった。
緊張がにじみ出る声音に、ヨハン少年はうなずいた。
控室に、長剣を携えたパウルス・カルが入って来た。
「傭兵隊長は捕まりませんでした。酒場にでも繰り出しているんでしょう。戦時担当委員は話を聞いてもらえたましたが、市内の治安は彼の権限外だし、動き出せるのは明日になってからになるそうです」
と、報告して、悔しそうにした。
続けて、ヨハネス・リヒテナウアーと、パウルスの門弟ハンス・ペグニッツァーが駆け込んできた。
「話は聞いた。この場はどなたが仕切っておいでかな?」
ヨハネスの問いに、ピーター警吏がのんびりと手をあげた。
「参事会からお役目を頂いてるオレが、やらせて頂きますよ。かのヨハネス師をさしおいてせんえつですが、ご容赦を」
ピーターを見て、ヨハネスがうなずいた。
それを確認すると、ピーターはヨハン少年に声をかけた。
「たぶんなぁ、ヴァイデン水車の所には、パン屋の娘さんはいないだろうよ。イエルクリングの仲間が何処かに閉じ込めてるんじゃないかな。最優先はそこを見つける事だ。だからオレたちは、君がやられても黙って見てる。そして連中の帰り道を尾行する」
警吏ピーターは、ヨハン少年に告げた。
パウルスが何か言おうとして一歩前に出たが、それをヨハネスが押しとどめた。
「それでも、君は行くのかい? 別に行かなくたっていいんだ。連中も、君が現れなけば、どちらにせよ娘さんの所に戻るだろう」
「行くよ。俺が行かなくて、なにか悪い事が起こったら、耐えられない」
ヨハン少年は、そう返した。
それを聞いて、ピーター・フォン・ダンツィヒは、唇を引き結び、小鼻を膨らませた。
「河だ。やばくなったら、河に飛び込むんだ。この暗闇じゃ奴らもすぐに見失うさ。絶対、諦めるなよ」
バシン、と少年の背中を叩いた。
ヨハン少年は、ハラー小門を出て小ヴァイデン水車に向った。
提灯を持ち、ぶな林を抜ける道を歩く。
ずいぶん歩いたのに、全然進んでいない気がする。
橋の真ん中にまで進み、欄干に手をかけて、身を乗り出した。
足を振って、水車小屋の半壊した屋根に着地。
屋根板の無い所から、小屋の中をのぞいてみた。
案の定、イエルクリングの姿は見当たらない。
ヨハン少年は、水車小屋の中に飛び降り、戸の無い出入口から外に出た。
暗闇の中に、眼を凝らす。




