天魔 十三
それから数日後。
アポロニアは、パンを届けに行った折に、施療院の奉公人に尋ねた。
「ヨハンは起きてるんですか?」
奉公人は、首を横に振った。
「今日も、頭が痛いと言って寝床から出てこない」
それを聞いて、アポロニアは肩を落として店に帰った。
その様子を、二階の窓からヨハン少年が見ていた。
震える指先で、微かに持ち上げていた跳ね上げ木戸を締めた。
寝床に座り込み頭を抱え込んだ。
顔色は青白く、頭には包帯を巻いている。
それから、寝床から身を起こして、短衣を被った。
中庭に出ていくと、アルノーと出合した。
病人の為の建屋に寝泊まりしていたヨハン少年は、久々に彼の顔を見た。
「ヨハン、俺、この間の事、謝りたいんだ」
足がすくんで行動を起こせなかったと、アルノーは詫びた。
「気にすんな、仕方ねーよ」
同じ立場になったら、自分がすぐに動けたかというと自信はない。
ヨハン少年はそう言った。
その後、マルティン修道士に呼ばれて、滅多に入る事のない客間に行った。
そこで少年は、帽子を脱いで待つように指示される。
少年の他に、滅多に見ない施療院長や、捨て子担当委員他、市の関連する委員、長老格の修道士、老ドロテーアなどが集まっていた。
「誰が来るんだよ?」
小声で、ヨハンネス少年が尋ねた。
「警吏のピーター・フォン・ダンツィヒという人だ」
マルティンが教えてくれる。
彼いわく、その警吏は、はるか北方、バルト海沿岸のダンツィヒという都市の出身だ。
市の参事会に選ばれる権利を持っている一族というから、ニュルンベルクで言えば都市貴族的な立場の家の出だとの事。
しかし警吏と言えば、豚飼いや路上掃除人と同じく、市に雇われる下男に過ぎない。
遠い北方の都市の良い所の出の人が、何故ここで警吏をやっているのか、皆が不思議に思っている人物だそうだ。
しばらく待っていると、件の警吏が入室してきた。
背の高い、痩せた四十路の中年男だった。
口ひげを貯えているが、体毛が薄い性質らしく、まばらで何となく汚らしい
着ている物は、一般的な市民が着て恥ずかしくないような品質のものだったが、着易さ一辺倒という感じで、今いち風采が上がらない。
唯一、腰に片手剣と小盾を提げている所だけが、警吏らしいと言えば警吏らしい、そんな人物だった。
「やあやあ、皆さんお集りで。オレなんかを、立って待って頂かなくともいいのに。どうぞ座って、お座りください」
ピーターが卑屈にも見える恐縮をして見せ、施療院側の主要人物と一緒に卓についた。
マルティンとヨハン少年は、一歩下がって壁際に立った。
(なんか、頼りなくね?)
(いや、まあ。でも賄賂をせびったりしないから、マシな方だよ)
小声でヨハンが尋ねると、マルティンはそう返した。
市の下男とは言え、市民を逮捕する権限を持っているので、かなり幅を利かせる者も多い。
警吏による、市民への不当な暴力を規制する決まりがあったり、実際に暴力事件として残っている裁判記録もある。
卓では、修道院長が、街路掃除人たちに施療院の者が襲われた旨を訴えていた。
「ああ、あのイエルクリングか? 性質の悪い奴なんだよなぁ……少し前から見かけないんで喜んでたんだが、片腕になって舞い戻ってきたか……」
ピーターが、そう言って嘆息した。
「剣術師範のパウルス・カル殿が、そこのヨハンを助けましてな。その時に受けた傷が、悪化したようです」
その場にいた全員が、ヨハン少年に視線を向けた。
ヨハン少年は、何も言わずにうつむいた。
そして、修道院長からあらましを一通り聞き終わると、警吏は一つうなずいた。
「わかりました。片腕のイエルクリングは、街路掃除人から解雇します。まあ、とっくに姿をくらましているとは思いますが。あとは警備担当委員に、報告書を上げておきます。もし訴追の指示がありましたら、捕縛します」
警吏の言葉に、老ドロテーアが不満の声を上げた。
「ピーター。うちの子たちに何かあってからじゃ、遅いんだよ」
その物言いに、警吏は困り顔になった。
「婆ちゃん、そうは言うけど。この大きい街に警吏が何人いると思ってるんだい? 居留民の子供が、刃物も抜かない喧嘩で打ちのめされたぐらいじゃ、何ともできないんだよ」
そう言った警吏に、今度は修道院長が訴えた。
「この者は大変勤勉で、成人したら施療院で働いてもらおうと考えています。もちろん施療院の運営は市が行っているものですから、これは市の財産が損なわれる危機と考えるべきですよ」
少年は、帽子を握りしめ、床を見つめた。
「そうは仰いますが……無い袖は振れませんよ」
警吏は、ため息をついて、立ち上がった。
それで、面会は終わりだった。
警吏が立ち去った後、施療院の首脳陣は、今後の対策を話し合った。
「当面は、外出時の人数を倍にしよう」
「通いの奉公人たちは?」
「いっそ、当面、家族ごと避難してもらったら……」
そんな会話が交わされるのを、少年は床を見つめたまま聞いていた。




