女武芸者 六
ザーラは、オットー一世の現在の側妾が産んだ娘ではない。
まだ彼が遺領を受け継いだばかりの頃、救貧院の設立に尽力したことがあった。
そこで出会ったボヘミア出身の修道女シャールカとのあいだに授かったのが、ザーラである。
シャールカはその後、修道生活を離れ、オットーの側室として迎えられた。
しかし、ザーラを生んだ翌年──一四二〇年の夏、病を得て世を去った。
こうした事情のためか、彼女の存在は世間にほとんど知られていない。
さらに、シャールカが亡くなるとまもなく、ザーラはオットーの家臣で、アウクスブルク近郊に所領を持つ騎士ハインリヒ・フォン・レヒフェルトの養女として引き取られることになった。
というのも、ちょうどその頃、ボヘミアのフス派蜂起に対抗する十字軍編成の噂が強まり、
「ボヘミア女との間の子を認知するのはまずい」
という家臣団の反対があったからである。
レヒフェルトは、ザーラを連れて自領へ戻った。
その際、オットーが周辺の土地をいくらか買い与え、こう言ったという。
「ザーラを頼む」
ただそれだけだったが、言葉を向けた際のオットーの眼差しには、ひどく熱のこもったものがあったそうだ。喉が詰まり、声がわずかに震えていたと伝えられている。
こうした事情をヨハネス・リヒテナウアーに教えたのは、旧市街――ユダヤ人たちの住まう区画の奥、狭い裏通りにひそかに訓練場を構える剣客、オット・ジャッドであった。
「ひそかに」と言うのは、ニュルンベルクにおいてユダヤ人は、金貸しや質屋といった限られた生業を除けば、公然と身を立てる道がほとんど閉ざされていたからだ。市民権は与えられず、市参事会へ保護税を納めて滞在を許される――それが彼らの現実である。
オットは生涯、妻をめとらず武術の道へ没入し、独自の境地をひらいた。小さな道場でありながら、名門の子弟が門人に多いのは、その腕と人柄ゆえであろう。彼らが借家の名義を引き受けるなど便宜を図り、訓練場は市内に息をひそめて存続していた。
オットー公の家来のなかにも、この訓練場へ稽古に通う者がいる――そのことを、ヨハネスは以前から知っていた。ゆえにこそ、彼はオットを訪ねたのである。
ヨハネスとオットが特別に昵懇の間柄というわけではない。だが、互いに名を知らぬ仲でもなかった。
七年ほど前に……。
ヨハネスはオット・ジャッドと、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯アルブレヒト・アヒレスの面前で試合をし、引き分けになったことがある。
この試合は、オット・ジャッドが辺境伯宮廷へ武芸指南役として仕官するための、いわば試験のようなものであったが、オットの勝ちとならなかったので、仕官は見合わせということになった。
ヨハネスがオットの相手にえらばれたのは、辺境伯家臣にヨハネスの門人がいて、
「ぜひとも、ヨハネス先生を指南役に……」
と、言上した故もあった。
ヨハネスにも、仕官の機会があった、という事である。
二人の立ち合いは、双方ともに試合用の刃引きの長剣を構えて、睨み合うこと約一刻(二時間)にわたったという。
武芸者は、様々な闘法に長けている。
オットはその中でも、組討ちを得意としてきた。
強い一撃で斬り結び、鍔迫り合いまで間合いを詰め、そこから組み付いて投げ倒す事に絶対の自信を持っていたが、ヨハネスの技量がそれを許さなかった。
奇しくも、ヨハネスも斬り結びからの近間の攻防に特色を持つ剣士だったのだ。
失敗に終わった最初の攻撃でそれを悟ったオットは、それ以上攻め込む事ができなくなったが、ヨハネスも攻め込む事をしなかった。
後になってオット・ジャッドは門人たちへ、
「あのときは、ヨハネスさんが引き分けにして下されたのだ。おれはしまいに呼吸があがってきて、どうにもならなくなったが、ヨハネスさんはびくともしなかった。あの大きな体がさらに二倍にも三倍にも見え、いやどうにも、手も足も出なかった。ヨハネスさんが引き分けてくれたのは、それとなく、おれの仕官が首尾よくはこぶようにしてくれたのであろうよ」
と、いったそうだ。
その後。一、二度、何かの宴席で二人は会っている。
久しぶりにヨハネスを迎えたオット・ジャッドは大よろこびで、客間へ招じ、酒でもてなしてくれた。
まだ四十歳のオット・ジャッドだが、温厚でいて語ること少なく、みずから実践することによって、おのずから門人たちを指導して行くという人物であった。
こうしたオットだけに、ヨハネスはいっさいを包み隠さず打ち明け、ザーラ・フォン・レヒフェルトについて問うたのである。
「ま、ヨハネスさん。一度、ごらんになられたらよい」
「ザーラさま、をか?」
くっくっと笑いながらオット・ジャッドが、
「あのむすめごなら、なるほど、おのれより強い亭主でなくてはおさまりますまい」
「ふむ……おもしろいですな」
「それにしても、ヨハネスさんのご子息へ、ハルスドルフ家の用人が……?」
「せがれに、ザーラ・フォン・レヒフェルトの腕の骨を折らせようとしたのでしょう。そんな事をして、オットー公の機嫌を損ねるだけのような気がするが……」
「ははあ……! で、いかがなさる?」
「ここまでわかれば、十分です。せがれは金を突き返して、ことわった。それで話は終わりです」
「なれどヨハネスさん……ご子息のかわりに、別の、どこかの剣客がハルスドルフ家の依頼を受けたやも知れませぬな」
「む……それはあるやもしれません」
二人は顔を見合わせ、しばらく黙っておもいにふけった。




