天魔 八
冬枯れの平野が鉛色の空に押しつぶされ、畑の畝は黒く湿っていた。
雪解けの水が小川へ集まり、岸のあしの枯れ穂を揺らす。
背後の松林だけがこずえの密な緑を残していた。
パウルス・カルの道場では、数名の市民が長包丁を模した木剣を振るっていた。
門弟のハンス・ペグニッツァーが彼らの指導を行っている。
二十歳手前の赤毛の青年。
近郊の農村の次男で、司祭に手習いしていた読み書きを買われて、ホーホベルク商会に奉公に出た。
彼は昨年の一件以来、ホーホベルク家を辞して、道場に住み込んで雑事を引き受けている。
初心者向けの稽古は任せて差し支えなくなり、パウルスの手すきの時間はぐっと増えた。
そして、市民に混じって木剣を振るうヨハン少年の姿があった。
羊毛の不織布のつば無し帽子をかぶり、亜麻布の肌着。
脱色してない羊毛の長靴下を履いて裾を折り、腰紐に吊っている。
同じく脱色してない羊毛の上着は脱いで、腰に結び付けている。
地面に打ち立てた柱を、ヨハン少年は木剣で叩いた。
呼吸を弾ませながら上下左右に素早く打ち分ける。
どうにも息が続かなくなると、手を止めて休むが、回復したらすぐに打ち込みを続けた。
「坊主、ずいぶん追い込むじゃねぇか」
隣で同じく柱打ちをしていた中年の門弟が、ヨハン少年に声をかけた。
こちらは自分の呼吸で、休み休みやっている。
「チッ、うっせーよ。俺ぁチンタラやってる暇ねぇんだ」
肩で息をしながら、ヨハン少年が答えた。
まだ呼吸も整わないうちから、打ち込みを始める。
頭の高さで左右に切り返して叩こうとして、柱に当たった木剣の跳ね返りが顔に当たった。
「ぐあ」
ヨハン少年は痛みにひっくり帰った。
「大丈夫か」
ハンス・ペグニッツァーが、心配して声をかけた。
ヨハン少年に怪我はなさそうで、彼は、気をつけろよ、と笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そうこうしているうちに、パウルス・カルが戻って来た。
今日は珍しく、父親を伴っていた。
五十歳過ぎの巨漢、剣客ヨハネス・リヒテナウアー。
ヨハン少年が入門してから、彼がパウルスの道場に姿を見せるのは初めてだった。
「大師!」
ハンス・ペグニッツァーが背筋を伸ばして駆け寄った。
「おお、おお。よくやってくれているようだな」
ヨハネスも、相好を崩して、初学者を預かる労をねぎらう言葉をかけた。
「自分の稽古も怠らないようにな。これで精の付く物でも食べてくれ」
そう言って、ペグニッツァーにペニヒ小銀貨を数枚握らせた。
「ありがとうございます!」
喜ぶペグニッツァーにうなずいた後、横眼でジロリとヨハン少年を見た。
少年は、反射的ににらみ返した。
「あれが、お前が拾ったというガキか。犬猫でもあるまいし」
ヨハネスは、厳しい声音でパウルスに言った。
「孤児と寡婦の保護は、騎士様の徳目だからな。おだてられて、一介の剣士風情が騎士気取りかよ」
パウルスは、恐縮したように目を伏せる。
ペグニッツァーと門弟たちは、突然の緊張感に息をのんだ。
「おい、お前。何をしてもいいから、かかってこい。どうせ、たいして物にならん。それをわからせてやる」
ヨハネスは、ヨハン少年に向き合って、手招きをした。
いかにも嘲るような表情。
しかしヨハン少年はそれより、父親に詰られたパウルスを気にしていた。
見る間にまなじりを吊り上げ、眉間から炎のように眉を逆立てる少年に、パウルスは胸を打たれた。
止める間もなく、ヨハン少年がヨハネスに跳び掛かっていった。
六尺の大男の頭上まで飛び、頭を蹴り飛ばさんとする。
だがヨハネスは頭を振ってそれを避けると、ヨハン少年の身体をがっちり抱き抱えた。
そのまま、ヨハン少年を背中から床板に叩きつける。
「かはっ……!」
背中を強く打ったヨハン少年は、弓なりにのけぞって床の上で悶えた。
パウルスは少年に駆け寄って、負傷の程度を確かめた。
まだ分からないが、頭を強く打ったり、骨折しているという事はなさそうだった。
ヨハネスは、赤くなった頬の骨を確かめるように押した。
少年の蹴りが、かすめていたのだ。
それから、長靴下に隠された、少年の巨大なふくらはぎを観察した。
「まれに、こういった人間もいるものだが……。天使の御加護か、はたまた悪魔のそれか」
独りごちると、パウルスの背中に声をかけた。
「パウル、今のを見ただろう。俺でなかったら、この子はひと一人、蹴り殺してしまったかもしれん。お前、人を助けるという事を、決して軽々に考えてはいかんぞ」
パウルスは、ぎょっとして父親を見た。
最近、父の真似事をして、人をたらし込むのが癖になっていた。
自分にあるとも思っていなかった才能。
それを使って人を唆す事に、悦びを感じていた。
不自然な絡み方をしてきたから、何か意図があるのだろうとは思っていたが、意外な方向からの叱責に、若い剣士はひたすらに恥じ入った。
その様子を見て、ヨハネスはため息をついた。
「保証人になったのなら、その子が道を誤らないように、力を尽くせ。あだや疎かにするでないぞ」
そう言うと、ヨハネスは今度は門弟たちにわびを入れた。
「稽古を邪魔して、すまんな。代わりに長包丁の妙手を一手、指南しよう」
パウルスは、ヨハン少年を抱き抱えて、奥の間に移した。
しばらくして、ヨハン少年は、パウルスの寝床で身を起こした。
あばらを気にしているのか、恐る恐る息をする。
意識を失っていた訳ではないので、パウルス親子の会話は、耳には入っていたかもしれない。
「なあ、別に保証人になってくれなくって、いいんだぜ」
勝気な表情で、パウルスに言う。
その額を、パウルスは指で弾いた。
「子供が生意気を言うんじゃない。それより、とっさに出るのが足じゃなくなるように、剣術を叩き込むからな。覚悟しておけよ」
そう言って、少年の髪をかき回した。




