天魔 五
少年は、パウルス・カルに言われた聖霊施療院《ハイリヒ=ガイスト=シュピタール》を訪れた。
市の中心部、ペグニッツ河が二股に別れる辺りの北岸に、その施設はあった。
河筋に沿って、赤茶けた瓦屋根の建物群が折れ曲がりながら連なり、川と街路の間に、ひとまとまりの区画を形づくっている。
屋根は急勾配で、屋根窓の小さな突起が規則正しく並び、棟と棟の継ぎ目に塔状の起伏が見えた。
同じ色の瓦が、施設全体を一つの大きな「家」に見せている。
その大きさに、少年は圧倒された。
敷地の外を回ってみると、いくつかの建物が連なって外周を作り、中庭もあるようだった。
出入口は複数あって、常に色んな人々が出入りしている。
どこから垣間見ても、清潔で、活気がある。
とても老人や病人が集まる所とは思えない。
少年が呆然と施療院を見上げていると、背後の通りのパン屋から威勢の良い声があがった。
朝一のパンの販売が始まる知らせだ。
見れば、大きく開いた窓から三尺ほども売り板が道にせり出し、その上に乗せた籠に、パンが山積みにされている。
そして中に中年女性が立ち、焼き立てを求めて並んだ市民達が差し出す銀貨と、底が平たい半球形のパンを交換していた。
また、パン屋の戸口からは、パンを満載した大きな籠を抱えた少女が出てきた。
小走りに施療院の入り口の一つに駆け込んでいく。
そして、空になった籠を抱えて、すぐに店に戻ってきた。
またパンを補充して、施療院との間を往復する。
年の頃は、ヨハン少年より少し上だろうか。
大青で染めた、ゆったりとした外衣を着ている。
袖に洒落た釦が連なっている。
要所に飾り布で補強が入っているので、暖かそうな毛織なのに、すっきりとした見た目だ。
彼女が近くを通り過ぎる度に、結われたお下げが麦穂のように揺れ、パンの匂いがした。
青い瞳だった。
彼女の親は、この瞳と合わせて外衣を選んだに違いない。
そういう風に、少年は思った。
もう一度、施療院の切妻屋根を見上げた後、少年は立ち去った。
それから、一週間が経った。
あの日以来、ヨハン少年は施療院を訪れていない。
今日も、ぶな林でしばを刈っていた。
焚き付けとして売って、幾ばくかの食べ物を得られないかという算段だ。
その最中に、一人の老女に出会った。
背が低く、小太りで、左手につえを突いている。
比較的背筋は伸びているものの、足が悪そうで、つえに寄りかかるように歩いていた。
頭に亜麻布を巻き付け、その上から飾り布を被り、裾を首に巻いている。
灰色の婦人服を重ね着しており、華美ではないが暖かそうだった。
彼女も、右腕にしばを抱えて歩いてた。
先に見つけた少年が様子を伺っていると、老女が転んだ。
釣り合いを崩して、ゆっくり座り込むように倒れたので、怪我は無いように思えた。
しかし、抱えていたしばは散らばってしまったし、老女自身も起き上がれないようだ。
杖にすがるように、もがいている。
少年は、落ち葉の積もる斜面を横切り、老女に近付いた。
彼女がこちらを見て、自分を見て警戒する表情になったのを、少年は気付いた。
若干、気分を害したが、まあ、仕方ない、と少年は思う。
ゆっくりと歩み寄り、老女に手を差し出した。
あまり清潔な手ではないが、それはしば刈りをしていた老女も同様だろう。
「どうぞ、お構いなく」
気取った声で、手を取る事を老女が断った。
少し気難しい人のようだ。
「立てねーんだろ?」
少年は、差し出した手を戻さずに、揺すった。
ためらった後、老女は結局手をとった。
引っ張って立たせると、思いのほか重く、足を踏ん張らなければいけなかった。
それから少年は散らばったしばを集め、老女に渡した。
「じゃ、これで」
少年は、そういうと背を向けて立ち去った。
一つ尾根を越えた向こうの斜面で、しば刈りを続けようと思った。
背後で老女で礼を言ってたが、振り返らなかった。
Aerial Nuremberg Heilig-Geist-Spital © Nico Hofmann Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0




