天魔 三
それから廃墟となった水車小屋に入り、床板を一つ外して持ち上げると、ボロボロの毛布を取り出し、代わりに銀貨の袋を隠した。
それから少年は、手製の弓引き式の火起こし器で、火種を作った。
集めてきたしばに火を移そうとするが、上手くいかない。
呼吸が荒くなり、怒りの声をあげる。涙が流れる。
最後には、貴重な毛布から羊毛をむしった。
それに火種を入れて、ようやく火を付ける事ができた。
そして石を並べた手作りのかまどにたき火を起こして、かたわらに横になった。
毛布にくるまり、眠ろうとする。
堰に仕切られた騒々しい川面から、冷たく湿った空気が流れ込んでくる。
集めたしばの量では、たき火は長くは持たない事が少年には判っていた。
夜半前に寒さで目が覚め、朝まで震えて過ごす事は怖くなかった。
怖いのは、目覚めない事だ。
この冬、そうやって死んだ者を何人も見てきた。
少年は、夢を見た。
故郷の農村の風景だ。
自分が、黒死病で死んだ父親を引きずって歩いている。
亡くなって日が経ち、蛙のような姿勢で固まった大人は、数えで十歳の自分には重すぎる。
でも、誰も手伝ってくれない。病気がうつるから。
そも、この冬は人が死に過ぎて、誰が、まだ生き残っているのかすら判らない。
それでも、埋葬しない訳にはいかない。
しかるべき所に弔われなかった魂は、天国に行けないからだ。少年はそう信じている。
父親の剥き出しの手足には、黒い斑点が浮き出ている。その皮膚が、固い地面に擦られて、めくれ上がる。
もうそんなに血は流れない。
それでも、少年が父親を引きずった跡には、赤い物が混じった。
地に伏せられた顔は、もう目鼻立ちが判らなくなっているかもしれない。
少年は父親の亡骸をまともに見る事ができない。
村はずれにたどり着くと、そこに大きな穴が掘られ、大勢の遺体が投げ込まれていた。
腐臭が少年の鼻を打つ。立ちすくむ。
これはしかるべき所なのか? だが、墓地はとっくの昔にあふれている。
少年は悩んだ末に、大穴に父を落とす。
固まった身体は、ばたん、ばたんとゆっくりと転がりながら落ちる。
途中で下着が外れて、くそで汚れた尻が剥き出しになる。
穴の底に落ちた父は、少年を見上げて口を開いた。
鼻や唇が削げているので、聞き取り辛い。
「俺は、母さんとちび助たちを、きちんと葬ったぞ。なのにお前は、俺をこんな所に落とすのか? お前なんか、もう家族じゃない」
父に責められ、少年は泣く。
文字通り胸が痛くなり、耐えられない。
突然、背中に衝撃を感じて、少年は目を覚ました。
息ができない。苦しい。
それでも少年は、ここでうずくまれば死ぬ、という危機感から身を起こした。
たき火は消えている。
灯りは金属製のろうそく行灯。
持っているのはイエルクリング。
今にも怒鳴り始めそうな笑みを浮かべている。
鮮やかに染めたあかね色の頭巾は、ファビアンの物だ。
そこまで見てとって、殺して、奪ったのだと少年は確信した。
自分の子分だったのに、面子を潰されたとか、そんなささいな理由で。
少年は、恐怖で身を固くした。
その様子を見て、大男は笑みを深めた。
ゆっくりと、少年に見せつけるように長包丁を抜く。
——ファビアンは、まだわかっけど、何故、オレなんだ!?
少年は、混乱する。
だが心のどこかでは、イエルクリングはそういう奴だと分かっていた。
純粋に、他人を苦しめる事に悦びを感じる化け物。
死ぬよりひどい目に合わされるんじゃないか。しかも長い時間をかけて。
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パウルスは、巾着を切られた事にすぐに気付いた。
捕まえても良かったのだが、足早に立ち去る浮浪児の後ろ姿に、違和感を覚えた。
何がおかしいのかは分からないが、自分の剣士としての勘が働いている。
そう感じたパウルスは、間合いを取って少年の後をつけた。
ハラー小門を出て、ぶな林でしば刈りをする浮浪児を見た。
すぐに疲れて動けなくなってしまう様子を見た。
パウルスは、不機嫌な顔で、沈んでゆく夕陽を見た。
首を振り、市内へ足を向けた。
晩課の鐘が鳴る直前に、ハラー小門に戻る。
そこで、大柄な男とすれ違った。
威圧的な物腰。腰に長包丁。
それだけなら、悪所によくいるうろんな輩だったが、パウルスは血臭を嗅ぎとった。
少し間を置いて振り返ると、輩はヴァイデン水車に向っていた。
そして、彼がかぶっていたあかね色の飾り頭巾に、パウルスは見覚えがある事に気付いた。
「お兄さん! そろそろ閉めるよ! 通るの? 通らないの?」
ハラー小門の管理人が、パウルスに呼びかける。
「すみません。戻ります」
パウルスはそう答えて、輩の後を追った。
剣呑な気配の男は、ぶな林の中に身を潜めた。
パウルスも、それにならう。
やがて、製粉所の職人たちが市内にもどって行った。
日がとっぷりと暮れ、月明りに目が慣れ始めた頃、男が立ち上がった。
ろうそく行灯に火を入れて、水車小屋の方に歩き出す。
後をつけていくと、大男は木橋を渡り、南岸の水車小屋に入っていた。
パウルスが迷っている間に、少年の悲鳴が中から響いた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」
パウルスは、長包丁を抜いて水車小屋の中に飛び込んだ。
そして、中の光景に驚いた。
倒れた行灯に照らされて、暗闇の中を猫のように少年が跳ね回っていた。
そして、剣呑な大男の頭上を飛び越えながら、かかとでその顔を蹴り上げた。
大きな鈍い音と共に仰け反った男が、床に倒れ込んだ。
「ぶっ殺すぶっ殺すぞゴラァッ!」
大男は、勢い良く跳び起きると、長包丁を振りかざした。
行灯のわずかな明りでも、蹴られた直後に関わらず右目がふさがっているのが見て取れた。
かなりの深手のはずだ。
パウルスは、長包丁を下段に構えて、少年を背にかばうように男の前に出た。
大男は、突然現れたパウルスを誰何する事もなく、けさがけに斬り付けた。
弾かれるように左前方に右足を踏み込みながら、パウルスが斬り上げた。
交錯した瞬間、鈍い音がした。
大男が長包丁を取り落とす。
彼は、右の手の平の小指側、手首との境目辺りを左手で抑える。
その抑えた指の間から、鮮やかな血が滴った。
パウルスが長包丁を頭上に掲げて、一歩近寄った。
男は、驚くような大音声で悲鳴を上げ、ためらう事なく逃げ出した。
大声で命乞いを喚きながら走り去る大男に気をのまれて、パウルスは追撃する機会を失う。
仕方なく、パウルスは長包丁を鞘に納めて、少年を振り返った。
少年は、半ば四つん這いの低い姿勢で、パウルスを酷く警戒していた。
さきほどの尋常でない跳躍といい、まるで大きな野良猫のようだとパウルスは思った。
自然と、腰を落として、落ち着いた口調で話しかけた。
「私は、パウルス・カルという。剣術師範をやっている。君は?」
尋ねられた少年は、無言だった。
逃げるか、噛みつくか、考えあぐねているような風情なので、パウルスは口角を吊り上げてみせる。
やがて、少年は口を開いた。
「……ヨハネス」
奇しくも、パウルスの父と同じ名だが、当時の名前はそれほど選択肢がなかったので、よくある事だった。




