天魔 一
一四四一年一月。
当時、ニュルンベルク市の南西の市壁沿いに、”女小路”という歓楽街があった。
西寄りのシュピタール門と、南向きのフラウエン門。
その二つの門に挟まれたこの辺りは、町へ出入りする者の流れが自然と吸い寄せられる。
そのため、仕事を探す旅の職人や、巡礼者、旅の楽師、下男の口を探す季節労働者などが逗留する安宿が多い。
空の色が、深い藍色から黒に変わる頃。
”女性たちの家”と呼ばれる市営の売春宿から、大柄な男がぬっと出て来た。
男は、あかね色に染めた飾り頭巾を洒落た形に頭に巻いている。
赤ら顔で、鼻歌などを歌いながら、提灯を持って夜の道を行く。
この男、仲間内ではファビアンと呼ばれ、流れ者の職人をやっている。
仕事を求めてニュルンベルクにやってきて一年経つが、何一つ長続きせず、その日暮らしのような事をしていた。
その男が、急に路地に引き込まれた。
いくぶん乱暴に突き飛ばされ、路地の壁に背中を打ちつけられる。
突き飛ばしたのは、小柄で白い肌の青年だった。
山高の詰め物帽に毛皮の外套を羽織っている。
「ファビアン。実入りがあったのなら、金を返せるな?」
きれいにひげをそった柔和な顔立ちをしているが、今は眼光鋭く、ファビアンを問い詰めた。
青年の名はパウルス・カル。
ニュルンベルク郊外に道場を構える剣術師範である。
憎憎し気にパウルスを睨むと、唾を吐く。
「……ユダ公の犬がよぉ。市民の癖に恥ずかしくねぇのか!」
「借りた金を返さないほうが、よっぽど恥ずかしいと思うがな」
「……ンダ、コラ! スッゾコラ! オア!?」
爆発的に激怒して見せた男が、長包丁を抜いた。
提灯の灯が、刃にぎらりと映った。
「……テメェ、ブッ殺すぞゴラァ!?」
「……抜いたな? 五ポンドの罰金だぞ?」
パウルスも、提灯を持った左手を前に半身になり、長包丁を抜いた。
右手をぶらりと垂らし、切っ先を後方に向ける。
「ザッケンナ? ォォシャルラオッタズオ!」
「……」
無頼漢の怒号に、パウルスはみじんもひるまない。
ファビアンは、歯ぎしりをして顔をゆがめた。
やがて男は決死の形相で、一歩踏み込んで長包丁を突き出した。
しかし切っ先はパウルスに届かず、三尺ほど手前をうがっただけだ。
「気をつけた方がいい。暗い所で刃物を振り回すと危ないぞ」
パウルスが、嘲笑った。
歯を剥き出して、うなり声を上げた男が、再び長包丁を繰り出す。
右手に長包丁を持った人影が、路地の壁に躍った。
しかし間合いが遠すぎ、パウルスは二、三歩前後するだけで、長包丁を打ち合わせる事すらしなかった。
やがてファビアンは立ち止まり、肩で息をし始めた。
「転ぶなよ。転んだ時に手をつくなよ。それでよく、自分を刺してしまうんだ」
パウルスが、今度は若干真剣な面持ちで声をかけた。
無頼漢は、唾を吐き、肩を息をした。
表情に、迷いが現れていた。
尚もパウルスが待っていると、ついに諦めたようにため息をついた。
「チッ、ダりぃなぁ。クソ、持ってきやがれ!」
ファビアンは、上着の裾をめくった。
腰紐に結び付けていた巾着を外し、放る。
巾着は石畳に落ちると硬貨の詰まった音がし、口から数枚の銀貨が零れ落ちた。
そしてファビアンは、パウルスを見ながら後退り、一目散に逃げ出した。
それを見届けると、パウルスは自分も長包丁を鞘に納めた。
ため息をつくと、ゆっくりと銀貨を拾い集める。
路地の暗がりに身を潜め、それを観察している小さな影があった。
パウルスが歩き出すと、小さな影はひそかに後を追った。
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聖母教会前の広場は、人熱れで白くかすんでいた。
今日は、市が立つ日だった。
広場の外縁、荷車が寄せやすい側には、鍛冶職人が集められていた。
蹄鉄が幾つも重ねられた台。打ち損じの欠片や釘が放り込まれる木桶。
隣では刃物職が、包丁を手に取り、野菜を切って実演販売をしている。
その少し内側には、細かな品を扱う小間物商の台が続く。
真鍮の留め金、環、鉤、飾り釘、秤の分銅……。
並べられた光り物を確かめる客の手が止まらない。
教会に近い側では、琥珀の十字架が浅い木箱に並ぶ。
数珠玉や小さな聖画像が、同じ箱に混じって売られていた。
見物客が、陽光に透かして蜜色の透明さを確かめている。
革細工は一か所に固まらず、用途ごとに散っている。
腰の袋物や細いベルトは小間物の台に混ざり、丈夫な革の馬具や太い帯は蹄鉄の匂いの近くに置かれていた。
広場は勝手気ままに見えて、何をどこで売るか、市当局から細かく規制されていた。
最も目につくのは、晴れ着を着た職人親方や、その家族。
街の正式な市民たち。
次に目に付くのは、その市民たちに売る物を運んできた行商人たちだ。
直接、食料品を持ち込んでいる農民もいる。
大方は自家製のパンだが、それ以外にも、野菜、鶏、卵、売れる物は何でも、ござに並べられている。
数は少ないが、街の都市貴族や豪商の旦那衆も目立っていた。
布地の多い、きらびやかな装いで、家族や使用人を連れて練り歩いている。
彼らは、毛織物・香辛料・金属/鉱石・塩といった品物を扱う貿易商だ。
これらは市の日とは関係なく、彼らの指示で都市から都市へ動かされている。
その為、今日の市に繰り出している旦那衆は完全に物見遊山だ。
一方で、物乞い、芸人、傭兵崩れ、遍歴職人といった、市民からは、うろんに思われている流れ者の姿も多かった。
芸で稼げたり、下男の口を見つけられるのは、運が良い方だ。
大多数は、荷役の日雇い仕事にありつければ、御の字といったところ。
そうでなかった者たちは、昼間から路地裏に屯していた。
当時の建物は、上階になるほど道に張り出していて、路地では空が狭い。
そんな路地である“ごろつき小路”から強面の声が上がった。
声は、こそこそと表通りの影を歩く少年を呼び止めた。
「ゲジゲジ! おう、てめぇ、何してんだ?」
そう呼ばれた少年は、もつれるように足を止め、振り返った。
たぶんここ2~3日で集中的に投下します




