英雄 二
日を改めて、パウルスは平日の昼過ぎの時間に、家族塔を訪れた。
父ヨハネスではなく、義母ゲルトルートへの取り次ぎを希望し、彼女の執務室を訪れた。
そこは、彼女がおびただしい量の書状をやり取りする書斎だった。
今も彼女は、何かを書きつけていて、机の前に立ったパウルスに顔も向けない。
しかし仕事中に、突然訪ねたのはこちらである。
彼女から声をかけてもらうまで、待つのが礼儀だとパウルスは考えた。
やがて、書状を書き終えたゲルトルートは顔を上げ、パウルスを見た。
パウルスは、口角を上げて微笑んだ。
ゲルトルートは、困ったような表情をした。
「あの人に言われてるから、お金なら出せないわよ」
「でも助言も駄目だという言い方ではなかったですよね? 知恵をお借りしたいんです」
そう言って笑うと、頬にえくぼができて、嫌味でない愛嬌がある。
なるほどこれは、あの人の子だなぁ……と、ゲルトルートの頬も緩んだ。
「仕方ないわね。何を聞きたいの?」
「お金を借りる先を探しています。やっぱりユダヤ人を頼った方がいいのでしょうか?」
「何故、ユダヤ人だと思ったの?」
ゲルトルートは、逆に尋ねた。
「え? だってキリスト教徒同士は、利息をつけてお金を貸しちゃいけないんですよね? だから借りるならユダヤ人から、と思っていたのですが……」
例えば、旧約聖書の「レヴィ記」には次のような記述がある。
“お金であれ、食料であれ、利息が求められるようなものはなんであれ、兄弟には利息付きで貸してはならない“
もちろん、パウルス自身は聖書を見た事もないし、具体的にこの文言を知っている訳でもない。
グーテンベルクの最初の印刷聖書が出来るまで、まだ十五年あるし、パウルスはラテン語を解さない。
ゲルトルードは深刻な顔でパウルスを眺め、しばし考えあぐねた。
日がな一日、剣を振り回している剣士なら、こんなものかもしれない。
だがヨハネスは長年道場を経営してきただけあって、世間擦れしているし、パウルスは今、無知故に困難に陥りかけている。
彼は色々な事を学ばなければいけないし、自分はその手助けをするべきだ、とゲルトルートは心を決めた。
そうなってみれば、オットー公やヨハネスが突き放した態度を取っている事の意味も見えてくる。
ゲルトルートは、椅子を自分の隣に持ってきて、パウルスをそこに座らせた。
そして、机の上の、今しがた自分が書いた書状を読ませる。
それは、以下のような内容だった。
_____________________
神の名において。
一四四一年、次の聖燭祭を期限に、
この第一の証書をもって、
ヴェネツィアのマルコ・コンタリーニ商会は、
同市に滞在するヨハン・ヴァイスに対し、
四十ドゥカート金貨を、正当かつ遅滞なく支払われたい。
右の金額は、ニュルンベルク在住の女主人、
ゲルトルート・ホーホベルクが、
先にレーゲンスブルクのヴァイス商会より
六十グルテンとして受け取った
前払い金に相当するものである。
同女主人は、
ヴェネツィアに送付した商品の売上の中より、
本支払いがなされることを承知し、
その指図として本証書を振り出す。
受領ののち、
しかるべき受取証をもって
勘定帳に記帳されたい。
神の加護が、
正しい取引の上にあらんことを。
ゲルトルート・ホーホベルク
ニュルンベルクにて
_____________________
「これは、支払い手形と呼ばれる物よ」
ゲルトルートは、そう説明した。
マルコ・コンタリーニ商会は、ゲルトルートの取引先である。
ゲルトルートはここに(今回の場合は)毛織物を卸し、それをコンタリーニ商会は個々の顧客に小売りする。
ただヴェネツィアは遠い。多額の貨幣を輸送するのは危険であるし、マルコ・コンタリーニ商会も、毛織物の代金を、一括で支払える現金の用意が無いかもしれない。
そこで、間にレーゲンスブルクのヴァイス商会をかませるのである。そうする事によって、ゲルトルートは速やかにグルテン金貨建てで収入を得られる。
一方、コンタリーニ商会も毛織物を売り払い終わった後に、同じ市内の相手にドゥカート金貨建てで支払える。
ヨハン・ヴァイスなる者は、レーゲンスブルクのヴァイス商会の縁者で、事実上のヴェネツィアにおける代理人である。彼らは、貸金と受取金の差額として、手数料を得る。
「ここまでは、わかった?」
そう尋ねながらも、ゲルトルートは良い答えを期待していなかった。
中世の人間にとって、信用取引の概念はあまりに馴染みがないからだ。
だが、書状を見つめていたパウルスは、不意にぼそっと、
「これ、利息が付いた借金と同じでは……?」
と、呟いた。
パウルスの理解力の高さを、ゲルトルートは喜んだ。
「そうよ。実際に商品を送らなければ、融資として手形を使えるの。だから、教会の教えに背いている訳ではないわ」
パウルスは、手元の書状をしげしげと眺めた。
そんなへ理屈がまかり通って、キリスト教徒同士で金貸しをしている、という事に内心、衝撃を受けた。
だが、義母を不信心者とはそしれない。
弥撒や灯明行列は欠かさないし、贖宥状(いわゆる免罪符)を熱心に買っている。
それから、様々な羊皮紙が溢れる執務室を、パウルスは慄いたように見渡した。
「これが全て、手形なんですか?」
「半分くらいかしら? ちなみに貴方のお給金も、ハイデルベルクの宮廷から手形で届いて、うちで換金してるのよ」
自分の給金が、ゲルトルートから手渡しされている理由を、パウルスは初めて知った。
単に、留守居役がいないので、代わって預かってもらっているのだと思っていたのだ。
思ったよりも、手形というのは世の中に浸透しているようだ。
これが商人が富を生む仕組みなのだと、パウルスは思った。
——三年前の黒死病の流行は、こういう商売に対する神罰だったのではないか?
一瞬浮かんだ考えがあまりに怖ろしく、パウルスは無理やり意識を逸らした。
こういった心性は、当時の人々にとって珍しいものではなかった。
度々起こる黒死病の流行と、西欧のほぼ全域で絶え間なく続く戦乱。
中部ヨーロッパでは、気候不順も多発したようである。
それらは人口減を招き、小麦の生産量は前世紀の中頃に比べて五~六割程度に落ち込んだという研究もある。
租税収入が落ち込んだ領邦君主たちは借金に苦しんだ。
教会も首脳部が分裂し、二人、ときには三人の教皇が同時に立って対立した。
人々が、悲観的に、抑うつに囚われがちになるのも、無理はないのである。




