雷神 三
ハンス・タルホッファーは、パウルスの道場の敷居をまたいだ途端、思わず足を止めた。
ヨハネスが道場を畳んで以来、久しく姿を見なかったジークムント・アイン・リンゲックが、パウルスやヨハネスと稽古をしていたからだ。
ハンスは、ジークムントと特別に親しい間柄ではなかった。
入門時期こそ一年違いだが、年齢は向こうがひとまわりも上。彼の生真面目で融通の利かぬ性分とも、どうにも馬が合わなかった。
またハンスに含む所がある訳ではないが、ジークムントがザルツブルク大司教ヨハン二世と折り合いが悪いという噂は耳にしていたから、その従者である自分としては居心地が悪かった。
ジークムントが上バイエルン=ミュンヘン公の武芸教師になってからは、なおさらだ。
とは言え、それでジークムントとヨハン二世の関係(臣従礼)が絶たれた訳ではない。
当時は、複数の主君を持つ家臣は珍しくなく、一〇人、二〇人と違った主君から知行を受ける家臣すらいたからだ。
ハンスが敬して遠ざけていた気配は、自然と相手に伝わるものだろう。
ジークムントの側も、進んで距離を縮めようとはしてこなかった。
──ところが。
パウルスと刃を合わせるジークムントの身のこなしを目にした途端、胸の奥で予感があった。
これは、混ざらねば損だ、と。
そして彼と自由稽古をしてみれば、想像以上に愉しかった。
幾年も同じ釜の飯を食った仲であれば、互いに二手三手先まで読み合う。その読みを踏まえた駆け引きが成り立つ。
他流の道場では避けがたい、余計な気遣い──面子を立て、怪我を避け、時に技量の足らぬ相手に合わせねばならぬ倦怠──そうした雑味が一切ない。
精神も技も、全身そのままぶつけられる相手のありがたさを、この数年で骨身に沁みて悟った。
最近ではパウルスがその飢えをよく満たしてくれるとはいえ、同じ相手ばかりでは、さすがに手応えが薄れてくる。
ハンスは、ジークムントの存在がどれほど貴いか、いまさらながら思い知り、むしろ胸中に感謝の念すら湧いた。
「はっはっは! 先輩、息があがってやすぜ。ちょいと腹が出過ぎじゃございやせんか?」
「うるさい! これは脂肪ではない、貫禄というのだ!」
ハンスが軽口を叩けば、ジークムントも負けじと言い返した。
ザーラも、パウルスの道場の敷居をまたいだ途端、足を止めた。
見知らぬ年配の男性がいて、珍しくリヒテナウアー大師も、タルホッファー殿も稽古に参加している。
ジークムントを紹介された後、稽古の準備をしている時に、用事を思い出した。
「そういえば、パウルス殿。ハイデルベルク城での試合の際、かなり年代物の鎧をお使いだったと聞きましたが……」
この物語冒頭で語られた、オットー公主催の武術試合の事である。
「……? その鎧なら、ここにありますが、どうかしましたか?」
長持の中に詰め込まれていたのは、鎖帷子と鉄板を内に留めた胴着だった。これは鎖帷子から全身甲冑への移行期の鎧で、四角い箱型鎧より古い型だ。
「何かあった時に、こんな古臭い鎧を着られては、閣下の恥になります」
「えぇ……。私の身体によく馴染んでるんだが……」
「駄目です。今時、そんな物使ってる方、いません」
戦士と聞けば、質実剛健、先祖伝来の鎧兜をそのまま受け継いで戦場に立つ──ついそんな姿を思い浮かべがちである。
だが、この頃の騎士という者は、案外に流行に敏い連中であった。
新たな意匠の鎧が世に出れば、たちまち諸侯・騎士のあいだで評判となり、ほどなく戦場の装いも、敵味方を問わずその様式へと傾いていった。
それを可能にしたのは、イタリアのミラノ、南ドイツのニュルンベルクといった、大規模な甲冑工房を抱える都市の存在である。
これらの都市では分業と流通網が整い、一つの流行が、広く諸国へと瞬く間に広がっていった。
「アウクスブルクに腕の良い甲冑師がいるそうです。ヨルグ・ヘルムシュミードという方で──諸侯からの注文のみ請けている名工との事なので、父に紹介状を書いてもらいました」
「えぇ……。ニュルンベルクの鍛冶屋の、数打ちの品でいいじゃないですか……」
「選帝侯の武芸教師なんですから、そういう訳には参りませぬ」
まだパウルスはごねていたが、ザーラは押し切った。
いずれアウクスブルクに甲冑を注文に行く、という言質をとったので、満足して試合用の模造剣を手に取った。
そんな弟子たちのやり取りを、ヨハネスは剣を振りながら眺めていた。
ふと、振り上げた剣が半拍だけ宙に止まる。
ハンスの笑い声、ジークムントの応じる低い声、ザーラの叱咤、パウルの声が重なって耳に届くたび、彼の視線はそちらへ吸い寄せられるように揺れた。
握った柄の力が、いつしかそっと解けていた。
誰にも気づかれぬほど小さく、口の端が上がった。
ヨハネスは剣を肩へと休め、しばし道場の様子に目を細めた。




