若獅子 九
タルホッファーとヴィレンバッハの司法決闘の、ひと月前のことである。
ザルツブルク市内の大司教宮殿の正門に、召喚状が釘で打ち付けられた。
召喚状は、ヴェストファーレンの秘密裁判からのもので、六週間と三日以内に出廷を求めていた。
更にはヴィレンバッハの訴えにつき、大司教自身の申し述べと、タルホッファーへの尋問の結果を取りまとめ、速やかに報告せよとの沙汰である。
ここで、秘密裁判について説明しなければならない。
ヴェストファーレン地方に存在した特殊な裁判制度で、権限の元として皇帝の名を掲げつつも、実際には地域独自の慣習と結社的な組織に基づいて運営されていた。
召喚状は被告の家の扉に釘で打ち付けられ、出廷しなかった場合は欠席のまま死刑判決が出ることもあった。審理はしばしば非公開で、判決は即日執行され、絞首刑が典型だった。
十五世紀には広域的な権限を主張し、他地域の紛争まで扱おうとしたため、恐れと反発の両方を招いた。
特に南ドイツでは、競合相手をこの裁判に告発して損害を与える、という手法が流行しており、複数の領邦君主が、領邦平和同盟からの追放刑を宣告されている。
現代で例えれば、正規の司法制度とは別に、密告によって動く超法規の私刑組織がある……というような状況である。
丁度この時代(一四三〇年代)、ジギスムント王の肩入れによってにその権威が最高潮に達したが、以後急速に衰えていく事になる。
その秘密裁判所に対して、ザルツブルクは次の旨を回答した。
ひとつ、タルホッファーを拘束、尋問した所、ヴィルヘルム・フォン・ヴィレンバッハ殺しを自白した。
ひとつ、これをニュルンベルク商人ヤーコブ・アウアーからの依頼を受けて行ったと自供した。
ひとつ、つまりこの件にザルツブルク大司教は関係しておらず、秘密裁判に出廷する必要を認めない。
ひとつ、ただしハンス・タルホッファーについては召喚に応じさせるので、そちらで裁かれたし。
ハンスはその事を、大司教ヨハン二世の秘書官から申し渡された。
タルホッファーとしては、本望ですらあった。
私生児である自分を厚遇してもらった恩を、返すべき時だ。
実際の所、ヴィルヘルム排除はニュルンベルクの意向であった可能性も高いとハンスはにらんでいた。その三年前に隊商を取り押さえられたアウアーらが、迂回路としてザルツブルクの塩の道を使っていた、という読みである。その場合は、ザルツブルクも何らかの利益を供与されて、黙認あるいは協力していた事になる。
また一方で、皇帝ジギスムントが関わっている可能性もあった。大司教ヨハン二世らが主催するバーゼル公会議(世界各地の教会から司教などの代表者が集まり、教義や典礼、教会法などについて審議・決定する最高会議)が、現在の教皇との対立姿勢を深めているからである。教皇側に与する皇帝が、ヴィレンバッハを用いて大司教に圧力をかけていた、という線もあり得る。
いずれにせよ政治の話で、自分に詳細は知り得ない。
ただ、父から直接言ってもらえなかった事が、思いのほか心残りで、自分でも驚いた。
事情が変わったのは、秘密裁判に出廷すべく、ドルトムント市に赴く旅路の最中であった。
国元からの早馬の使者によれば、大司教ヨハン二世からの回答を元に、秘密裁判所は大司教への訴えを退けたとの事であった。
再審は無いので、これでどうあっても大司教が罪に問われる事はない。タルホッファーひとりの事であれば、法廷で抗弁する事ができる。
早速、タルホッファーはニュルンベルクの軍司令官エルハルト・ハレルに手紙を書いた。
『ニュルンベルクの騎士、誉れ高く揺るぎなきエルハルト・ハレル卿、
私の慈悲深き御主人に、この身より謹んで申し上げます。
畏れながら御機嫌を伺い奉り、
ハンス・フォン・フィレンバッハの件につき、ここにご報告いたします。
かの男は、
「タルホッファーがニュルンベルクの御方々の名の下に、自分の弟を殺した」
と私を訴えてまいりました。
このゆえに、私は彼をヴェストファーレンの高等裁判所へと引き出しました。
ところがその後、
あろうことかフィレンバッハは、ザルツブルクにおいて、
私を捕縛し、牢に繋ぎ、彼の望む事を言わせようとしたのです。
慈悲深き御主人よ。
私は今、神の御心と、あなた様の賢明なるご助言と、
天にまします全能の御裁きにすがり願い上げます。
もしも私が命を拾ったゆえに、
「ニュルンベルクの人々が、フィレンバッハの弟を殺した」
などと申し上げたことがあるならば――
それはすべて虚言でございます。
命を救うための偽証にほかなりません。
もし私が、フィレンバッハの望むままに
「ニュルンベルクの者たちが犯した」と言わなければ、
彼は別の者を連れてきて、私はその場で処刑されていたでしょう。
しかしながら私は、市参事会については一切語っておりません。
彼らに罪はないと申しております。
いま私は釈放されました。
ゆえに、これより先は、書状によっても、口頭でも、行動によっても、
ニュルンベルクの方々に関し私が述べたことは、
すべて邪悪かつ虚偽の言であったと証明してまいります。
それはただ、命を守るためであった――
そうでなければ私は死んでおりました。
このことは、皇帝陛下へも、諸侯へも、諸都市の評議会へも、
私自らが上申し、明らかにいたします。
つきましては、ニュルンベルクの御主人方に取り成しを願い上げます。
どうか、一年間の安全通行を賜りたく、
御方々およびその家臣から私の身が守られますよう願い奉ります。
慈悲深き御主人よ。
この身はすべて神の御心に委ね、
あなた様の仰せのままに従いましょう。
ハンス・タルホッファー (Hanns Dalhoffer)』
ヤコブ・アウアーを陥れる証言をしたが為に、タルホッファーはニュルンベルクから五十マイル以内/三年の追放刑を受けていた。
この条件でニュルンベルクの街道警備隊に捕縛されると処刑される。
ニュルンベルクに立ち入る事は難しくとも、近隣の街道を通れるようにはしたい所だった。
この時代、自白の強要はさして大きな問題とは捉えられておらず、ザルツブルクに迷惑がかかる事はない。
こうした手紙がいくつも発送されたのは、アウクスブルクからドルトムントに向かう途上の都市からである。
法廷においても、タルホッファーの闘争意欲は衰えを知らなかった。




