登場人物紹介⑥オットー一世・フォン・プファルツ=モスバッハ
オットー一世・フォン・プファルツ=モースバッハ(1390年8月24日モースバッハ生 ― 1461年7月5日ライヒェンバッハ没)は、1400年から1410年にかけて神聖ローマ王でもあったプファルツ選帝侯ループレヒト三世と、ニュルンベルク=ホーエンツォレルン家のエリーザベトの末子である。
生涯
1410年、父ループレヒトの死によりプファルツ選帝侯領が分割された。
長兄ルートヴィヒが選帝侯位と本領を継ぎ、ヨハンはプファルツ=ノイマルクトを、シュテファンはプファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケンを得た。
オットーに与えられた遺領は小規模で、しかも地理的に分散していたが、下プファルツ東縁の地にまとまった所領を有していた。すなわち、ベルク通り沿いのヴィースロッホ(銀山を含む)、ヘムスバッハ、シュリースハイム(シュトラーレンブルク城を伴う)、下ネッカー地方のエーバーバッハ、モースバッハ、オーブリクハイムおよびミンネブルク、クラィヒガウ地方のヒルスバッハ、ジンスハイム、シュタインスベルク城、さらにオーデンヴァルトのオッツベルク城とヴァルデック城、タウバー渓谷のラウダなどがそれである。
ほかにも、下ラインのカイザースヴェルト、黒い森の銀山地ブーラハ、ドナウ沿いのヴィルトベルク城など遠隔地の所領も含まれていた。
オットーは居城をモースバッハに定めた。当時この地は、バーデン辺境伯の未亡人マクティルド・フォン・シュポーンハイムに抵当として渡されていたが、彼女の死後、正式にオットーの手に戻った。
モースバッハを居館としたことで、彼は「プファルツ=モースバッハ家」の祖となる。彼はモースバッハの城を改築して宮廷とし、のちには聖堂参事会教会(現在のシュティフツ教会)を新築させた。オットーの治世下で、町には最初の「グートロイテ施設(ハンセン病者などの施療院)」も設けられたとされる。
治世初期、オットーはモースバッハ周辺(エルツ川合流域)の所領拡大に努めた。1411年にはオーブリクハイムのヴォルムス館、1413年にはショレンライン館を質入れで得、同年ロールバッハ城とハスマースハイム村を、1422年にはネッカーレルツ城を獲得している。
1427年、兄ルートヴィヒ三世が聖地巡礼から重病を得て帰還した後、1436年の没するまで、オットーはその代理として政務を執り、また甥ルートヴィヒ四世の教育を担った。
この頃、ハイデルベルク近郊シュリールバッハに「グートロイテ教会堂」が建立されているが、これはオットーがモースバッハで見た施療院制度を模したものである。
1430年、オットーはバイエルン=ランツフート公ハインリヒ「富裕公」の娘ヨハンナ(1413–1444)と結婚した。彼女は若くして没し、モースバッハの聖堂参事会教会に葬られた。
1436年、兄ルートヴィヒ三世の死後、オットーは甥ルートヴィヒ四世の後見人となり、1442年に成年に達するまでその統治を代行した。
この間、1438年のアルブレヒト二世、1440年のフリードリヒ三世の王選挙において、オットーはプファルツを代表して投票している。
1448年、甥クリストフ(ヨハンの息子)の死によりプファルツ=ノイマルクト家が断絶し、その領地はオットーに帰した。これにより、オットーはノイマルクトの支配も兼ねた。兄弟シュテファンも同年その一部を相続したが、これをオットーへ売却している。
1460年、オットー自身も聖地巡礼に赴いたことが、ハンス・ベルンハルト・フォン・エプティンゲンの巡礼記に記されている。
彼の墓は上プファルツ地方ライヒェンバッハのベネディクト会修道院にあり、その墓碑は息子ヨハンの墓碑銘の前に横たえられて現存している。
(wikipediaより引用)
【本物語における設定】
・「ルートヴィヒ四世がどうしようもない凡愚であれば簒奪も辞さず」と周囲に匂わせをする事でレームダック化を避けていた。
・ルートヴィヒの自覚と成長を待っていたが、一方で廃嫡して修道院に送り込む用意もあった。




