女武芸者 二
翌朝。
都市の教会が鳴らす第一時課の鐘がかすかに響くなか、パウルスは床を離れた。
身支度を整え、剣帯に長剣を帯くと、道場を後にニュルンベルクに向かう。
湿地が多い道を、足を濡らさぬように歩く事、約一時間。やがて百三十の塔を擁する、およそ一里三十間に及ぶ二重の市壁がその威容をあらわした。その周囲には、平均して深さ七間、巾十一間の空堀が穿たれている。これは、かのボヘミアのフス派征伐の折、防衛の要として案出されたものであり、すべて市民の労働奉仕によって掘削されたものである。戦は既に六年前に終結したが、工事はいまだ続いている。
市の西北にあるノイトルトゥルム門で、パウルスは門衛に腰の長剣を見とがめられた。
当時の都市としては珍しく、ニュルンベルクは刃物の携帯を禁じていたのである。
「私は市民権を持っているパウルス・カルという者です。市内に住む家族を訪ねる所です」
パウルスは、そう抗弁した。
厳密に刃物が取り締まられていたのは、教会や市場といった公共の場のみで、市民が市外に出入りする際の携行などはお目こぼしされていたのが実情である。
門衛は、パウルスを値踏みした。
人品骨柄にいやしいところは無く、外国訛りも無い。茜で染めた小袖胴着と上着をきちんとつけ、同色の山高の詰め物帽をかぶっている。
長剣も見た所、手入れが行き届いていた。
「失礼しました。どうぞ、お通りください」
門衛が道を開けて言うのに、パウルスはうなずいて歩を進めた。
市内に入ると、市壁沿いに、市を東西に横切るペグニッツ河に向かった。
皮なめし職人が市壁に干している無数の皮を見ながらしばらく歩くと、八角形の尖塔を戴く、赤い砂岩の切石を積み上げた四角い塔が見えてくる。ペグニッツ河の小さい中洲にそびえ立つこの堂々たる塔、今はシュライアー塔と称されるも、当時はただ「緑のFの塔」と呼ばれていた。都市防衛計画上の必要から城壁のすべての塔は色とアルファベットで番号付けされているのだ。
その姿は、半世紀ののちにアルブレヒト・デューラーが見事な筆致にて写し取ったように風趣に富んでおり、ヨハネス・リヒテナウアーがこのあたりへ住みついてから、もう三年になる。
屋根付きの木造橋を渡り、金物系の職人の店が立ち並ぶ通りを抜けると、〔ヒーゼルラインのほとり〕と呼ばれる場所があった。
かつての旧市街の古い市壁が残っている場所で、公共井戸がある。
そこに、ヨハネス・リヒテナウアーの住居である四角い塔が在った。
ヨハネスの所有物ではない。彼は豪商ホーホベルク家の未亡人と結婚し、彼女が相続したこの塔に住んでいる。
高さは十四間、六階建てで、街並みの中でひときわ目立つ。急な切妻屋根の下には、赤い瓦が整然と並んでいる。一階は頑丈な石積みで扉がなく、木製の階段が二階の扉へと続いている。貿易用の大広間を一階に備えた商家とは異なり、防衛を重視した都市貴族のための塔だ。当時ニュルンベルクには、そんな建物が六十余もあったといわれている。
パウルスは、階段をのぼり、分厚い鉄枠付きの扉を叩いた。
のぞき窓を開けた使用人に取り次ぎを頼むと、しばらくして上階の家族のための部屋に通された。
そこでは、天井から吊るされた目隠し布の中で、ヨハネスがたらいに溜めさせた湯に浸かっていた。
使用人が暖炉で沸かした湯を継ぎ足している。
ヨハネスは亜麻の股引ひとつの姿で両手足をたらいのふちにのせて、くつろいでおり、
「これはたまらん……」
と弛緩した声を出していた。
黒く癖の強い縮れ毛と、たっぷり蓄えられた顎髭。
その下の表情は、ゆるみきったものだった。
「父上、おはようございます」
折り目正しくあいさつパウルスへ、ヨハネスは、
「ああ、すこし、待て」
といって、立ち上がった。
濡れた下穿きを脱ぎ、乾いた布でからだをふく。
彼は、身の丈六尺を超える大男だ。湯で暖められた無数の古傷が浮かび上がる。
五十を越えて、年相応に腹に肉がついているが、それでもなお全身の筋肉量は衰えを知らない。
使用人は、鎧戸を開け、油紙の日除幕を窓におろした。
部屋にこもっていた熱気が、逃げる。
代わりに、冬の清冽な空気と陽光が部屋に入ってきた。
漆喰が塗られた壁。暖炉。絵物語が織り込まれた壁掛け。肖像画。
白磁の陶器が並べられた飾り棚。黒光りする重厚な机。
ヨハネスは、使用人が持って来た白い亜麻の股引と肌着、繻子織の長衣を着た。
立派な背もたれ付の椅子に腰かけ、机の上にあった器から、砂糖漬けの乾果物をつまみながら、
「パウル。今日は、何か用か?」
と、声をかけた。
「実は……」
パウルスは昨夜の件を、父へ語った。
父の周旋で出た試合から起こった出来事であれば
(いちおう、父の耳へ入れておくか……)
とおもったのである。
「ふん……」
と、きき終えてからヨハネスが、
「トラウゴット・ガルトナーといったか……」
「御存知で?」
「知らん」
「トン村の、〔曲がり菩提樹亭〕の提灯を手にしておりましたが……」
「よく眼がとどいたな。で、人の腕を叩き折れ、と……」
「はい」
ここで、貴婦人が部屋にはいってきた。
塔のあるじ、ゲルトルート・フォン・ホーホベルク。
黒を基調としたドレスを、長身を強調させるように身にまとっている。
豊かな波打つ黒髪を亜麻布で包んでいる所からして、どうやら彼女もさきほどまで入浴していたと思われる。
「とても雅な、お話をしているのね?」
といって、パウルスに笑顔を見せながら、ヨハネスの隣に座った。
パウルスは、彼女の微かに上気した顔と、豊かな胸に一瞬目をやってしまい、あわてて反らした。
年はヨハネスの十歳下、と聞いているが、とてもそうは見えない。
ところで……。
椅子に深く腰かけたままに、ヨハネスは両眼を閉じて、
「しかし、まあ、金貨で引き受ける気にはならなかったのか? 斬るのではない、折るのだ。大したことでもあるまい。今や金がなければ始まらない世の中だ。庇護者も弟子もいないのに金策を選り好みするようでは、飢え死にをするぞ」
呆れたようにいう父の血色のよい老顔を見て、息子は目を伏せた。
パウルスは、口上を十分に吟味したと見える沈黙ののち、口をひらいた。
「生計のすべであるからこそ、慎重になりたいのです。闇討ちの下働きでは、使い捨てにされかねません」
ヨハネスは、鼻から短く息を吐いた。
この老人、ボヘミアの異教徒討伐十字軍に長く従事した歴戦の古強者であった。だがその戦のあまりの凄惨さ、救いのなさに辟易して、戦働きから離れた。そして、数々の戦場を巡って習い覚えた武術をもって身過ぎ世過ぎとする剣客となった。そういった経歴を持つからこそ、息子の言いように複雑な気持ちになる。
無論、パウルスが正しい。また一人息子に、無頼の輩のような真似をして欲しくもない。
ゲルトルートが使用人に麦酒と軽食を運ばせ、パウルスにすすめた。
ボヘミアから輸入した濃い麦酒であり、つまみはアルプス産の山岳乾酪であった。
パウルスは、酒をのみ、ゆっくりと乾酪を味わいはじめた。こだわりのない、まことに自然な所作だった。この若者を見て、燕麦粥しか食えぬ者とは誰も思うまい。
ちらりとヨハネスの眼が開き、すぐにまた両眼が閉じられた。
「御馳走になりました。では、帰ります」
「うん」
うなずいたヨハネス・リヒテナウアーが、寄りそっているゲルトルートの腿のあたりを小指でやわらかく突いて、
「パウルを、送ってやってくれるか?」
「いいわ。可愛い息子殿ですもの」
道場を建ててくれた後、ヨハネスがそのような気遣いをしてくれたのは初めてで、パウルスは軽く驚いた。
ゲルトルートが先に立ち、パウルスと二人で階下に降りる。
存外にしっかりと筋肉がついている尻が、パウルスのすぐ前にゆれうごいていた。
パウルスが眼をそらしている間に、ゲルトルートがてきぱきと使用人に指示をくだした。
馬を二頭用意して、パウルスと使用人二人がそれぞれに乗騎して、道場まで送ってくれるのだそうだ。
パウルスは、この新しい母に未だ馴染めないでいた。
四年前、パウルスは父のもとをはなれ、余所で修行を積んでいたものだから、近年の父の様子を知らないといえば知らない。
だが三年前に黒死病がニュルンベルクで大流行し、都市住民の半数が死に絶える災禍となった。
その直後に手紙を受け取り、再婚した旨を知らされた時は、開いた口がふさがらなかった。
双方の歳の事もあるし、ヨハネスもある種の名士ではあるが、豪商の家が期待するような商機をもたらすとも思えない。
よくぞホーホベルク家が認めたものだと思うが、どうもこのゲルトルート女史、たいした女傑で、当主亡きあと、一族の商いを取り仕切っているらしい。
その為、誰も彼女に頭が上がらないのだとか。
父のほうも、パウルスが七歳の時に母が病を得てなくなってから、そういう話が出てきた事がないものだから、何故今さら、という思いの方が大きい。
しかし五年前までの父は、そのころはシュピタール門の狭間郭にあった自分の道場で門人たちへ熱心に稽古をつけていた。
なるほど交際上手でもあり、諸侯や都市貴族の屋敷へも出入りしていたけども、女遊びにふけったり嫁探しをする様子はなかった。
(父上はいったい、どうしたのだ……。流行り病の中で、何か思う所があったのだろうか)
パウルスには、わからないことばかりだ。
緑のFの塔イメージ
https://dario-schrittweise.org/2024/02/04/der-trockensteg-von-duerer/
ホーホベルク家の塔イメージ
https://de.wikipedia.org/wiki/Nassauer_Haus
ヨハネス・リヒテナウアーイメージ
https://wiktenauer.com/wiki/Johannes_Liechtenauer




