泣き虫 九
翌朝。ホーホベルク家の家族塔。
ザーラは昨夜得た報せを、父ヨハネスへと伝えた。
「なんということを……! お立場をお忘れか!」
驚愕と憤りを隠さず、ヨハネスは声を荒げた。だが、ザーラの報告は貴重な手掛かりでもあった。
もしシビラが本当にオットー公の差し向けた密偵であるならば、ヨハネスとしては深入りすべきではない。
だが、娘としてのザーラには、なお確かめねばならぬことがあった。
父の命が、もしも教会の教えを踏みにじるものであったなら——、それを黙して見過ごすわけにはいかない。
「あまりお気になさるな。ご政道を貫く為には、清濁併せ飲む度量も必要なのだ」
というヨハネスの言葉も、おためごかしに聞こえてしまう。
だが、いずれにせよ、今はザーラにもこれ以上できる事はなかった。
〇
そのころ、パウルスの道場。
いつもならレオンハルトと侍女が訪れる刻限を過ぎても、姿がない。
もし何かあったのなら、彼ならば一言の伝令くらいは寄越すはずだ。
もっとも、この時代に通信手段などない。すれ違いなど日常のことだったが、昼近くになっても音沙汰がないとなると、さすがに胸騒ぎを覚えた。
逗留先の宿の名は聞いてある。パウルスは上着を羽織り、街へと出た。
聖ローレンツ教会を目指して歩を進めると、ペグニッツ河の河岸に人だかりができている。
「人が溺れたらしいぞ」
「いや、身投げだと聞いた」
耳にした言葉に、パウルスは人垣を押し分け、前へと進む。
そして——、濡れ鼠となって岸に横たえられた少年を見て、息を呑んだ。
「レオンハルト!」
駆け寄る彼に、救い上げた船頭たちがいぶかしげな眼差しを向けた。
「お知り合いかい?」
「私の弟子だ!」
そう答えると、男たちは「すぐ拾い上げたから、じきに目を覚ますだろう」と教えてくれた。
一部始終を見ていた者の話によれば、橋の上をふらふら歩いていた少年が、突如欄干を越えて川へ飛び込んだのだという。
「死ぬんなら市の外で勝手にやってくれ、迷惑だ!」
「すまない、これで酒でも飲んで温まってくれ」
パウルスは船頭たちに深く頭を下げ、手持ちの貨幣をすべて握らせた。
それからレオンハルトを背に担ぎ、赤い牡牛亭へと運び込む。
事情を話し、宿の女将に頼んで彼の部屋へ入れてもらい、寝台に横たえた。
やがて、選帝侯ルートヴィヒ——十六歳の少年が、うっすらと目を開けた。
「……何があったんです?」
静かに問うパウルスに、少年はしばらく沈黙し、涙をこぼした。
「シビラは……叔父上の密偵だった。今朝、それを余に告げて去っていったのだ」
聞きなれない一人称だったが、これがルートヴィヒの素顔なのだろう。
パウルスは、なぜ彼女が突然真実を明かしたのか、理解できなかった。
それは——、前夜ザーラがシビラの部屋を開けたとき、扉に挟んだ紙片が床に落ちたことに始まっていた。
今朝それに気付いたシビラは、誰かが侵入したと悟ったのだ。
書き付けの位置も僅かにずれていた。
それを見て、彼女は動揺し、涙ながらにルートヴィヒへ真実を告げ、外套も荷も持たぬまま宿を飛び出した——。
ルートヴィヒが聞き取れたのは、その断片だけだった。
「気がついたら……橋の上に立っていた。すべてを終わらせようと思ったのだ」
パウルスは黙して耳を傾けた。
「余が彼女に抱いたのは誠の愛だった。だが、あの切なさも、幸福も、偽りの上に築かれた砂の城に過ぎなかった。もう耐えられぬ……殺してくれ」
少年の嘆きを前に、パウルスは言葉を失った。
女のことで命を絶とうとするとは愚かしい、だが当人にとっては切実なのだろう。
——それでも、彼をここまで鍛えてきた努力を無にするわけにはいかない。
パウルスは無言のまま、ルートヴィヒの腕と腿をつかみ、肩に担ぎ上げた。
「な、何をする! 放せ、下郎!」
「ご所望通り、殺して差しあげましょう」
暴れる少年を担いだまま、階段を下りて宿を出る。
往来の人々が目を丸くして振り返った。
「ぐっ……やめろ、苦しい……」
もがく声を無視し、パウルスはそのままホーホベルク家の家族塔へ向かった。
パウルスは、二階の入口を通されると、そのまま地階の倉庫に下りた。
ぐったりしたルートヴィヒを、手早く柱に縛り付ける。
そうしているうちに、使用人に話を聞いたパウルスが怒鳴り込んできた。
「ば、馬鹿者! お前は何をしとるんだ!?」
パウルスは、手早く事情を説明した。
「だから、あれをやろうと思うのです」
言いながら、手刀でちょん、ちょんと切る仕草をした。
ヨハネスは、疲れたようにため息をついた。
「あれか……。だが、あれは劇薬だ。良い方向に利くとも限らないし、効果も長続きはせん」
「それでも、今よりは悪くならないでしょう」
ヨハネスは、腕組みして、しばし考え込んだ。
「よし、わかった。だが、俺がやる。刀を取って来る」
そうヨハネスは告げて、上階に上がって行った。
「……? うぬら、何をするつもりだ?」
そのやり取りを見ていたルートヴィヒが、いぶかしげに尋ねた。
「貴方は、これから斬られるんですよ」
パウルスはそう言って、ルートヴィヒの上着と肌着をはぎ取った。




