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泣き虫 六






 復活祭が明けるや、市中はたちまちざわめきを取り戻した。

 香料屋は倉の戸を開け、織物商は色布を吊るし、聖週間のあいだ営業を禁じられていた肉屋と酒場も、今や客を呼び込む声で賑わっている。

 どの商家も冬のあいだ滞っていた取引の清算に追われ、職人たちは新たな契約書を抱えて、市参事会の庁舎へと駆けてゆく。


 それは、ホーホベルク家の使用人の若者たちにも例外ではなかった。

 彼らはその週いっぱい、家の用事に忙殺され、稽古を休んでいた。


 やがて、レオンハルトが道場に通いはじめて二週目のこと、ホーホベルク家の若者三名が道場に戻って来た。

 彼らは平日の九時課(午後三時)の鐘を聞くと持ち場を離れ、小走りに道場へやって来る。

 約三時間ほど稽古を積み、夕べ鐘——日没と市門の閉鎖を告げる鐘(この時期なら午後七時から八時のあいだ)に間に合うよう、息を弾ませて帰っていく。


 彼らの稽古は、ただ黙々と(ペル)打ちと歩法の繰り返しであった。

 レオンハルトとはまったく異なる内容である。

 それを見て、少年はついに問うた。


「なぜ、僕の稽古は、彼らと違うのですか?」


 パウルスは虚を突かれた。

 まさか、そんな疑問を抱かれるとは思いもしなかった。

 貴族の御曹司であれば、特別扱いを当然と思う——そう信じて疑わなかったのだ。


 しかし、彼が黙していると、レオンハルトの顔に失望の色が浮かんだ。


「……僕がやっていたのは、子供だましのお遊びだったのですか?」


 ——違う。そうではない。そう思って欲しくもない。

 けれど言葉が出てこない。

 少年の目尻に涙がにじみ、それが(こぼ)れ落ちるのを見て、ようやくパウルスは必死に口を開いた。


 「おそらく、貴方が剣を振って、実際に誰かを倒せるような腕前に届く事はないでしょう。ゆえに、貴方は別の手立てをもって、己と大切なものを守る術を考えるべきだ。けれど、私は貴方に剣を好きになってほしいのです。貴方は剣士にはなれなくとも、剣術は貴方に何かを与えるはずだ。そう思って、私は貴方に稽古をつけています」


 たどたどしい言葉だった。

 だがそれでも、パウルスは言うべきことを言い切ったと思った。


 レオンハルトはしばし沈黙したのち、指で涙をぬぐい、静かに言った。


「若先生の深いお考えも知らず、生意気を申しました。どうか今後とも、ご指導のほどお願い申し上げます」


 そう言って、深々と頭を下げた。


 翌日から、彼は一時間早く道場に現れ、誰に言われるでもなく、黙々と柱を打ちはじめた。

 その姿を見てパウルスは、彼をよく導かねば、との想いを強くした。

 

 

 そしてその週の土曜、ザーラ・フォン・レヒフェルトが道場を訪れた。

 彼女は、ニュルンベルク市内にあるラスト師ゆかりの剣術道場と、ここパウルスの道場とを掛け持ちしている。


 パウルスがレオンハルトに彼女を紹介しようとしたその時、レオンハルトは何かに怯むようにうつむいた。

 その不自然な強張りに気付き、パウルスが問いかけようとした刹那、ザーラが声を張り上げた。


閣下(ユーア・グナーデン)──!?」


 ザーラは一歩退き、片膝を折って頭を垂れた。

 レオンハルトはその姿に息を呑み、たじろいだ。


「ザーラ様……なぜ、ここに?」


 問い返す彼に、ザーラは姿勢を正して答えた。


「わたくし、リヒテナウアー殿のご厚情により、パウルス殿より稽古を賜っております。それよりも閣下こそ、供もつけず、いかなるご用向きでここに……」


 その言葉に含まれた畏れが、尋常でない事を悟り、パウルスは思わず二人を見比べた。


「……あなたはいったい、何者なのです?」


 レオンハルトはしばし沈黙したのち、静かに顔を上げた。


「このようなこととなり、まことに申し訳ありません。かくなる上は打ち明けます。──私の名は、ルートヴィヒと申します」


 ザーラが、それに慌てて言い添えた。


「ライン宮中伯にして大給仕長、パラティーノ伯、そして選帝侯にあらせられる──!」


 選帝侯とは、神聖ローマ帝国においてローマ王(すなわち事実上の君主)を選出する七人の大諸侯のことである。

 当時は、マインツ・ケルン・トリーアの三大司教、そしてライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の四世俗諸侯がその地位を占めていた。


 すなわちレオンハルト──いや、ルートヴィヒは、ヘル階級どころか、公・伯といった諸侯をも凌ぐ、王に次ぐ地位の大貴族であり、後世「温厚公ルートヴィヒ四世」と呼ばれることになる人物であった。

 ちなみに、叔父オットー公の私生児であるザーラとは、従姉弟の間柄にあたる。


 パウルスは一瞬、理解が追いつかず、ただ膝を折るしかなかった。

 しかしルートヴィヒはすぐに彼の腕を取り、軽く引き起こした。


「若先生、この道場では、私はあなたの弟子のレオンハルトです。これまでどおりのご指導をお願いします」


 その掌に触れた瞬間、パウルスははっとした。

 指の付け根の皮膚が固くなり、一部がめくれている。

 その感触に、これは尋常ではない事態になったと、ようやく実感が沸いた。





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