泣き虫 三
ニュルンベルクの路地裏は暗く、狭い。
城壁の内側は、端から端まで歩いても三十分とかからぬほどの広さながら、その中に二万を超える人の暮らしがひしめいている。
これは現代であれば、東京都心部の人口密度に匹敵する。
両の壁が迫るように立つ路地では、人がすれ違うのがやっとという巾しかなく、三階、四階と重なる木骨の家々が、頭上を覆うようにそびえ立っていた。
このような場所であれば、前を行く若者の無体な振る舞いが、目にも耳にも入らぬはずがない。
少年たちの中で、ただ一人、一番良い身なりの少年だけが、連れを制しようとしていた。
しきりに声をかけてはいるものの、効果は薄い。
やがて一行がペグニッツ河のほとりにさしかかると、その若者が、少し大きな声を張りあげた。
「おい、警吏にでも見とがめられたら厄介だよ。もうやめておけ、な?」
彼の着る胴着には銀糸が縫い取られ、外套の裏にあしらわれた毛皮は、普及品のりすのそれとは思えない光沢があった。
市のぜいたく禁止令に抵触しかねぬ装いだが、なよっとした見た目でどうにも頼りない。
その声色も細く、連れの二人におもねるような響きがある。
案の定、娘に絡んでいた少年二人が、苛立ちを隠さず言い返しはじめた。
「なんだと? 町の下男風情を、いちいち気にかけねばならんのかよ」
「いや、そういうことではない。決まりには従わんと……」
「決まりだと? へっ、そんなだから侮られるんだ。少しは気骨というものを見せねえと、下の者はついて来やしませんぜ」
そのやり取りを耳にしながら、パウルスとヨハネスは歩を緩めていた。
ついにヨハネスが足を止め、低く吐き捨てるように言う。
「なんだ、あのざまは。見苦しいにもほどがある。どこの御曹司か知らぬが、郎党を御せぬようでは、行く末は知れたものだ」
わざと独り言めかして、周囲にもはっきり聞こえる声で苦言を放った。
「なんだと、このじじいっ! もう一度申してみよ!」
大柄な若者が、烈火のごとく怒声を張り上げた。
「阿呆の従者に振り回される愚かな若殿では、先が思いやられる――と、そう申したのだ」
ヨハネスが、再び毒を含んだ言葉を放つ。
一歩前に進み出たパウルスは、背筋を正し、歩幅を広くとって腹の前で拳を構えた。
途端に柄の悪い一人が殴りかかるも、パウルスは軽く払いのけ、その顎を打ち据える。
鈍い音が響き渡り、殴りかかった少年は尻もちを突き、呆然としたまま起き上がる気配もない。
「やりやがったな!」
ヨハネスが阿呆呼ばわりした従者が、腰の長包丁を抜き放つ。
弥撒の帰途であり、帯刀せぬパウルスであったが、すかさず座り込む少年を壁にたたきつけ、その帯から刀をもぎ取った。
鋭い眼光を放ちながら抜かんとしたその刹那、
「待て、抜くな」
ヨハネスが声を掛けて制した。
その時、絡まれていた娘が悲鳴をあげた。
「火事だ! 人殺しだ! お助けぇっ!」
甲高い声が路地に木霊し、近隣の者たちがおっとり刀で飛び出してくる。
この頃のニュルンベルクには、現代の警察官に当たる警吏はわずか五名しかいない。
下働きがいくらかはいたようだが、とても手は回らない。
ゆえに、目の前に起こる犯罪は市民みずからが対処するほかなかったのである。
手に手に棍棒や仕事道具を握りしめ、集まった職人は十名ほど。
皆、骨太で屈強な男たちであった。
彼らの目に映ったのは、抜刀した若者の姿。市中での抜刀は、五ポンドの罰金。支払わねば追放の沙汰となる。
衣服から上流階級の子弟と知れたが、それで臆するほど、市民の気質は柔ではなかった。
「おい若造、やる気なら受けて立つぞ!」
職人たちに囲まれた大柄な少年の顔から血の気が引く。
握る長包丁は小刻みに震え、その腕に取りすがった貴服の少年が情けない声を洩らした。
「もうよそうぜ……な? な?」
それから市民やパウルスらへ向け、ふてぶてしくも媚びた声音で呼びかける。
「なあ、あんたらも厄介ごとはご免だろ? ここらで終いにしようじゃないか」
この期に及んで、なお尊大な物言いに、職人たちの苛立ちは募った。
その時、ヨハネスが一喝した。
「黙らっしゃい! もとより、主君たる身で気弱に振る舞うがゆえ、かような事態を招くのだ! 反省なされよ!」
その怒声に、若殿はひっと悲鳴を洩らし、へたり込んだ。
両の目からは大粒の涙が零れ落ち、挙げ句の果てには股袋を濡らして湯気を立てる始末。
ヨハネスの叱責は確かに厳しかったが、殺気を孕んだものではない。
職人たちの工房であれば、日常的に飛び交う程度の言葉に過ぎなかった。
それほどまでに怯えた少年の姿に、職人たちはまず驚き、やがて嘲笑を洩らす。
従者の少年らは屈辱に顔を赤くしつつも、長包丁を鞘に納めた。
市民らはすっかり鼻白み、少年らを解放することに決めたようだ。
「旦那も、それでようござんすね?」
職人らがヨハネスにうかがいを立てる。
ヨハネスとしても、若殿のあまりの臆病さに呆れ果て、渋々うなずいた。
御供の少年らに両腕を抱えられ、情けない姿で立ち去る若殿。
パウルスは、複雑な面持ちでその背を見送った。
齢さして変わらぬ若者ながら、彼自身は既に剣客として幾度もの真剣勝負を経ている。
その眼から見れば、あの醜態は到底、理解しがたいものであった。




