泣き虫 一
一四四〇年四月。冷え込みの残る春の朝、パウルス・カルの道場のまわりには季節外れの厳しさがまだ残っていた。
中世後期から近世にかけては小氷期と呼ばれる寒冷の時代で、春の訪れも遅れがちである。
やや湿った空気に混じり、遠く市街の方角からは三時課(午前九時)を告げるセバルトゥス教会の鐘が、微かに森の中に届いてくる。
細い棒の森と呼ばれる松林の梢を抜けて北風が走り、肌を刺す。
それでも、川べりでは若い柳の芽がかすかな緑をのぞかせていた。
道場の中では、パウルス・カルと兄弟子のハンス・タルホッファーが対峙していた。
波打つ長髪をたてがみのようになびかせながら、ハンスが刃引きの試合用剣を打ち込む。
十分に強くはあるが、深刻な負傷に至らない絶妙な強さで打たれたパウルスは、腕をあげて
「腕」
と有効打であった事を宣言した。
双方ともに、綿入り刺し子縫い胴着を着て、要所には厚手の革の防具も付けている為、十分な技量があればこうして安全に打ち合う稽古ができた。
ただし頭への打ち込みや突きは禁じ手にしている。
三日前からハンスが泊まり込みで稽古に来ており、こうした試合形式の自由稽古も度々行った。
数えた訳ではないが、勝率はパウルスが三、ハンスが七ぐらいであろうか。
しかしパウルスは、それを全く気にしなかった。
それは、ハンスが用いているのが、試合用の技術だからだ。
命が懸かる実戦では、どうしても戦法は保守的になる。身体が本能的に、常より一歩遠い間合いを取ろうとする。
であれば、左足を前に出して構え、右足を大きく踏み出しながら右上から左下への袈裟斬り、これを徹底し、刃と刃が噛み合ったら、巻きに移行する。それが父が教える剣術の芸術だとパウルスは強く信じていた。
ハンスが髪を振り乱し、右足前構えからすり足で攻撃してきたり、左側から攻撃してきたり、手を変え品を変えてくる。
それに対し、パウルスは頑なに、初撃に「右足を大きく踏み出しながらの右上から左下への袈裟斬り」を持ってくる。
更に言えば、刃引きの剣であれば、刃同士の噛み合いが起こるはずもなく、巻きの技術を使う事は難しかった。
であれば、パウルスの負けが重なるのは当然であった。
なのに、息を荒げ、悔し気に顔を歪めるのはハンスの方で、パウルスとしては意味がわからない。
自由稽古が終わってもぶぜんとしているハンスに、パウルスも段々と腹が立ってきて、
「別にハンスさんのやり方を非難するつもりはないですよ。ただ私は、自分の剣に邁進するのみです」
と、言ってしまった。
その言に、ハンスは一瞬、失望の表情を浮かべた。
下を向き、頭をかいて考えたのち、
「申し訳ありません、若先生。ぶしつけな振る舞いをしてしまって、お恥ずかしい限りです」
と謝罪をした。
その穏やかな声音に、パウルスも内心ほっとして、ひとつうなずいて見せた。
稽古が終わると、ハンスは道場を辞去した。
来週からは、復活祭の聖週間である。
所有権は無いとは言え、ハンスは小さな町を一つ治めている。
行事が目白押しで、町を空けている訳にはいかない。
そのいった環境のなか、最近は月に三日ほど、泊まり込みで稽古に来てくれる。
——しかし、果たしてそれに見合うものを彼は得ているのだろうか?
パウルスは疑問に思った。




