女武芸者 一
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一四四〇年一月の日暮れ時。
冷たい風が、〔細い棒の森〕と評される松林の間を吹きぬけている。
西の空、雲間からにじみ出る夕陽が、森の境界の小川の水面に反射した。
帝国自由都市ニュルンベルクの北、都の守護聖人セバルドゥスの名を冠する御領林のほとりに一軒家があった。
三間四方の吹き抜けの土間を中央に構え、両脇には二階建ての小部屋が一つずつ。骨組みの木と土壁が織りなす半木骨造様式。この辺りの一般的な農家の造りだった。
その中から、どどん、どどんと硬い音が響いた。
中をのぞくと、この家の若いあるじが、土間に立てた柱に長剣を打ち込んでいた。稽古用の鈍らの剣は刀身が分厚く、通常の剣の三倍の重さがある。それを左右に切り返して連打する音が、ほぼ一続きに聞こえた。
若者がそうして稽古をしていると、隣の小部屋から近所の農家の婦人があらわれた。身振り手振りで、夕食の支度が整ったことを告げると、言葉を発することなく、そのまま戸口を出て去っていった。
若者は剣を置き、汗をかいた身体をぬぐいはじめた。
十九の青年。肌は白くきめ細かで、髭はきれいに剃られており、血色の良さが際立つ。
台所からは、燕麦を煮た粥の匂いが漂ってきた。
ここしばらく、朝も夕も塩で味つけした粥だけをすすりながら、彼は日々を過ごしていた。
パウルス・カル——それが、この若者の名である。ここに彼が剣術道場を構えてから、およそ半年が過ぎようとしていた。
父ヨハネス・リヒテナウアーが、
「おれはもう、口を出さん。これからはひとりでやっていけ」
と言って、この地に三十坪の道場を建ててくれたのである。
パウルスは、静かに粥を口に運びはじめた。
彼の瞳は無邪気に輝き、厚い唇は麦の柔らかな食感を確かめるように味わっていた。
いまのところ、この道場には門人が一人もいない。出入りする者といえば、先ほどの賄い女だけだ。
だが、その静寂を破るように、珍しく客が訪れた。
現れたのは、堂々たる風采の中年男だった。かなり裕福な装いで、ニュルンベルクの都市貴族か、それに準ずる豪商のように見受けられた。
「トラウゴット・ガルトナーと申す」
パウルスには、まったく心当たりがない人物だった。
「この夏、オットー公の城で、貴殿の御手なみを拝見した者でござる」
パウルスは頷いた。
〔オットー公〕とは、プファルツ=モスバッハ公オットー一世のことである。甥であるプファルツ選帝侯ルートヴィヒ四世の後見人を務める彼の権勢は、
「飛ぶ鳥も落とす勢い」
と、世間で評されている。
今年の夏。
居城のハイデルベルク城で催された武術試合に、マイン川からエルベ川に至る帝国南方で名を馳せる一流の兵法者たち三十余名が集い、技を競った。
この誉れ高い場に、まだ若く無名の剣客にすぎなかったパウルス・カルが参加できたことは、異例だった。
彼はその日、平服での長剣試合で三人、長包丁試合で二人、鎧を着て戦槌試合で二人、長剣試合で一人を倒した。また、司法決闘の流儀にのっとって、槍・小盾・剣・短剣など複数の武器を用いた試合にも勝利した。
その試合ぶりは当日の話題となり、誰も知らなかった若者の名が武術界に広まるきっかけとなったのだった。
この〔晴れの試合〕に出場できたのは——
(父が、手を回してくれたのだろうなぁ)
パウルスは、そう思っている。
ところで……。
「相手の剣を制しながらのひと突きが、まことにもって、おみごとな……」
と語ることばは、確かにあの場で見ていた者の言葉で、嘘はなさそうである
パウルスは、とりあえず彼を、奥の小部屋へ招き入れた。一応の応接間ではあるが、道具類がほとんどない。
客に振るまう麦酒もないので、水を汲んで差し出す。
蝋燭も倹約している為、部屋は薄暗かった。ガルトナーは持参した提灯を机に置く。その明りが、男の顔に影を落とした。
「それで、私に何の御用でしょうか?」
パウルスが問うた。ものやわらかな声である。
「されば……おたのみしたいことがござる。貴様の御手なみをお借りしたい」
「というと?」
「ひとことで申せば……とある者の、両腕を叩き折っていただきたい。切るのではない、折るだけで構いませぬ」
「……ふうむ」
「失礼ながら、これを……」
いいさしてガルトナーが、ふところから袱紗包みを出し、
「ラインギルダー金貨三百枚ござる」
これは、当時の庶民が、らくらくと五年を暮らすことのできる大金であった。
「おねがい申す」
と、ガルトナーが顔を寄せ、
「貴殿を見こんでのことでござる」
「どこの誰を痛めつけて欲しいんです? それにどういった訳で?」
「名は申せませぬ。事情もご容赦くだされ。御承知下さるならば、われらが手引きいたす」
と、いった。
当時の剣客が、決闘に挑む貴族への指導、介添えを行う事はよくあったし、場合によっては代理人を務めることもあった。
しかしそれはあくまで公衆の面前で行われるものである。
相手の素性も知らされぬのであれば、これはもう闇討ちの依頼である。
「そこをどうにか、まげて御承知願えないだろうか」
ガルトナーの鼻のあたまに扁豆ほどの黒子があって、これを左の小指でしきりに撫でながら、しつこく食い下がる。
パウルス・カルは、ついに面倒になり
「おことわりします。お帰り下さい」
と、追い返してしまった。
パウルス・カル イメージ
https://wiktenauer.com/wiki/Paulus_Kal
道場のイメージ
https://youtu.be/tUidHd1lA28?si=6E6pyt7DEh89ixek