戦場で生まれた妖精
次の日、マサキはいつも通り朝早くにホテルを出ていった。朝食を軽く取った後、清潔感のある白地に紺色の模様が入ったジャケットスーツを纏う。顔つきは環境で変わるという言葉通り、魔人となって若返った上で過酷な修行に耐えてきたマサキは、今や無骨で精悍な顔をしている。さらに魔王とその配下に命がけで鍛え込まれた日々から解放されたせいか、少しだけ笑顔が溢れる。最初にマサキとペアとなった妖精エミールでさえ、生まれ変わったマサキを見て本人だと気付かなかった程の変わり様であった。顔つきから体つき、そして雰囲気に至るまで、まったく異なるマサキがそこにいたのだ。
しかし瞬間移動で戦場に足を踏み入れた途端、マサキは戦士の顔となる。マサキには魔王や妖精王から熱い期待が懸けられているが、今やこのビハルダールのすべてがマサキに期待を懸けているといっていい。以前のマサキであればあまりのプレッシャーに逃げ出していた事だろう。しかし三度目の正直として、そして後悔していた時間を取り戻すことができた魔人マサキは、今はそのプレッシャーさえ楽しんでいた。もう失敗しない、そう決心するマサキであるが、それには妖精アントラセンの存在もまた大きかった。
「まずは昨日までのおさらいよ。進路をジグザグに変えながら北進、ただしレーザーの焦点は動かさない事」
了解、と返事をしたマサキは地面を軽く蹴って空中に浮かぶと、まるでステップを踏むような脚さばきで空を駆ける。右手を柔らかく前に突き出し、地面を這い回る殺人蟻に向かってレーザー光を照射する。そのまま左右の足で交互に大気を踏み、アントラセンに指示されたようにジグザグの軌跡を描きながら前に進んでいく。体の向きが大きく変化しているのに、しかし照射されるレーザー光はほとんどぶれない。このレーザー操縦を、マサキはすでに無意識でできるようになっていた。
「いいわね。順調よ、マサキ。勇者になってからここまで一週間、予定より早いくらいね。どうする?計画より3日ほど早いけど、女王蟻に挑んでみる?」
マサキは逡巡する。女王蟻は魔王の幹部の中で最も弱いとされる。しかしこの世界に来たマサキは女王蟻に敗北し、一度は命を失った相手である。かつて自分を殺した相手、その恐怖はそう簡単に拭い去れるものではない。冷徹な表情を崩さなかったが、マサキは内心で汗をかいていた。
「盟友アントラセン、俺は以前、女王蟻に敗北して命を失った。今の俺は以前とは違うのは自覚しているが、はたして女王蟻を倒せるだろうか?」
「僚友マサキ、不安があるのは分かる。でもいつかは乗り越えなければならない。私はそれが今だと考える。精神的に不安があるなら私が命令する。勇者マサキ、女王蟻を倒しなさい!」
マサキはアントラセンを盟友と呼ぶが、アントラセンはマサキを同僚という意味である僚友としか呼ばない。アントラセンは妖精に転生する前は、地球の中東で内乱状態にあった某国の女性兵士であった。兵士と行っても正規兵ではなく、先住民と結婚した軍人の父親に戦闘方法やサバイバル技術を教え込まれた私設兵であったが、ゲリラや革命軍の残党に襲われ、その戦いの中で弟たちを庇って命を失った。それが16歳の時だ。
魔王による訓練を過ごしていたある日、アントラセンの過去を聞いたマサキは、まさに頭を棒でぶっ叩かれた衝撃を受けた。かつての地球で、こうも違う人生を過ごしてきたのか。アントラセンは地球でも本当の戦争の中で命を失ったのに、妖精となってもまた新たな戦闘に巻き込まれている。自分の人生に悲観しないのだろうか?
「なぜ?私は生まれたときから弾丸が飛び交う日常を生きてきた。私は長女だったから、弟達を守るのが使命で、それに従っただけ。この世界では私自身は命を失わない。それはとても幸運なことよ」
アントラセンはマサキの問いに、飄々とそう答えた。あまりに呆気ない。マサキの過ごしてきた39年とは比べようもないほど、命が軽くやり取りされる人生。もしアントラセンが日本に来て、ゲーセンで遊び呆けるかつてのマサキを見たらどう思うだろうか。無理だ、自分の姿をアントラセンには見せられないと、マサキは思う。
魔人として生まれ変わったものの、まだ何も成し遂げてはいないマサキはアントラセンに顔向けできない。マサキに与えられた使命は魔王を倒すこと、それを果たした時に、アントラセンはマサキの事を盟友と呼んでくれるだろうか。いや、呼んでほしい。僚友ではなく盟友と、アントラセンに呼んでもらいたい。それが魔人マサキが戦う理由に一つになった。
マサキは考える。アントラセンに女王蟻を倒せと命令された。アントラセンの盟友となるには、彼女が設定したミッションをやり遂げなければならない。
「了解、アントラセン。女王蟻を討伐する。侵攻ルートの設定を頼む」
アントラセンは軽く頷いて、大気に自分の感覚を広げる。これまで魔王軍から受けた教育で、女王蟻の拠点やその攻撃方法は熟知している。マサキも魔人として生まれ変わった後に女王蟻と模擬戦をこなしている。その時はかろうじて勝負にはなっていたが、今のマサキは勇者の力を宿し、飛躍的に戦力が増している。アントラセンの目から見て、マサキは女王蟻を確実に倒せると考えている。しかしそれではダメだ。ただ勝つのではない、完勝しなければならない。そうでなければ皆の悲願である魔王討伐など出来ないからだ。
女王蟻に完勝するため、アントラセンは全力を尽くす。それが自分に与えられた任務だからだ。アントラセンはかつて、弟たちを守り切ることが出来なかった。隠れ家に夜襲をしかけてきた敵ゲリラと銃の撃ち合いとなり、凶弾を腹部に受けて命を失った。銃弾を受けたあとすぐに自爆用の手榴弾を作動させて、その部屋に居た敵どもは道連れにした。その後、弟たちはきちんと逃げ切れたのかわからない。使命を全うできなかったという後悔が、アントラセンをビハルダールの世界に召喚させたのだ。
新たな体を授かったアントラセンは妖精王グレオンから、魔王討伐のためのスポッターとなるように命令された。中東の戦場で生まれたアントラセンは、再び敵弾が飛び交う戦場にその身を置くことを決心し、それに相応しい姿となった。アントラセンの妖精姿は、タンクトップにカーゴパンツを基調とした衣類に、防弾チョッキに似たジャケットを纏う。煤や火傷や擦り傷だらけの体は綺麗な肌に生まれ変わり、父が持っていた雑誌に掲載されていた映画女優に似た姿をしている。大人になる前に死んでしまったアントラセンが、唯一憧れた大人の女性がその女優だったのだ。その女優と大きく違うのは髪の毛で、生前と同じ茶髪の上に戦う時の邪魔にならないように短くしている。戦闘は空中ということで、服装は戦闘機が使う空中迷彩色だ。ドレスばかりの妖精の中において、アントラセンだけが軍服姿でその中に交じる。
アントラセンもドレスには憧れる。しかし今はいい。使命を果たした後、ゆっくり自分好みのドレスを仕立ててもらい、髪の毛も長く伸ばそう。それが心に秘めた願い。
アントラセンから見ても、勇者マサキのポテンシャルはかなり高い。しかしそれを戦場で活かせるかどうかはわからない。かつての中東で、凄腕の傭兵や熟練の兵士が、流れ弾に当たってあっさり死ぬのを何度も経験した。どんな強い人間でも、銃弾一発で呆気なく死んでしまう。運の良し悪しもあるだろう。それを知るからこそ、アントラセンは少しでも運を掴み、チャンスをモノにするため、最善を尽くす。勇者マサキはここに最高のパートナーを得ていたのだ。
◇
緑色に茂った草は、腰の高さにまで伸びている。辺り一面が草原であるバティス平原に、魔王幹部の一人である女王蟻『ブロモーゼ』が拠点としていた。元々は色とりどりの果実が生い茂る豊かな果樹園だったバティス平原だが、ブロモーゼの配下の蟻がそれらを狩り取ってしまい、ついでに果物を採りに来た人間も獲物にしていた。ここ数年、ビハルダールの住民でこのバティス平原に足を踏み入れる人間はおらず、勇者だけが時々訪れ、そして敗北を繰り返した。
数年前のマサキも、このバティス平原で女王蟻ブロモーゼに戦いを挑み、何も出来ずに戦死している。今回、新たな体とパートナーを得た魔人マサキが、再び勇者の武器を使ってブロモーゼとその配下に復帰戦を挑む形となった。
まず前哨戦となる、殺人蟻の軍団がマサキに襲いかかる。蟻の武器は遠距離ならば牙を飛ばし、近距離だと強酸を周囲にばら撒く。蟻は女王蟻が産む卵によって常に300匹ほど平原に生息している。普段は地中に潜って果物に誘われた生き物を捕らえるが、この日に来た獲物は、実った果実ではなく自分たちを刈り取ろうとしていた。
「ギガフレイム」
マサキは低空を駆けながら右手の武器を蟻に向ける。赤いレーザーは触れる蟻を次々に燃やし、マサキが通り過ぎた場所には灰も残らない。蟻はマサキを敵とみなし、口から牙を飛ばす。蟻の体は地球のバス並に大きく、そいつらが直径1メートル、長さ2メートルの牙が飛ばしてくる。数百匹の蟻が一斉に吐き出した牙は、空間を黒く染め上げ、まさに弾幕であった。
「この程度なら指示は不要ね。集中して牙を避けながら、蟻を殲滅させて」
了解、と短く答えたマサキは、迫り来る牙を避けながら右手のレーザーを振るう。前回は大量の牙に恐れを抱いて、左手のボルテックスで牙を迎撃したが、今のマサキに恐怖はない。確実に牙を躱しつつ、着実に蟻を潰していく。
「大きく避けると追い詰められるわ。回避行動はなるべく小さくしなさい」
蟻が放つ牙の弾幕が脅威ではないと悟ったアントラセンは、より高度なミッションをマサキに与える。それに応じたマサキは両足ではなく右足だけで空中移動を行う。
ちょんちょんと小刻みに動きながら蟻の牙を避けつつ、隙を見て大きく一気に有利な空間に体を移動させる。俗に言う切り返しだが、マサキは上下左右に、そして前後にも切り返しを試す。空間を完全に把握しつつ、敵と敵弾の位置を見極める。そうした作業を続けるうちに、バティス平原から蟻が居なくなっていた。
「雑魚の全滅を確認。女王蟻の出現を感知。方角は11時プラス35度、距離は700ほど、こちらに向かって来るわ」
「女王蟻は体のトゲを広げてそこから針を飛ばしてくる。その前にまず先制したいが、どうだろうか?」
「……そうね、遠距離で戦うより最初から接近戦を挑んだ方がリスクは高いけど効果も大きいと私も思う。飛び込むタイミングは任せるわ」
信頼するアントラセンの同意を得たマサキは、一気に空気を蹴り飛ばして斜め上空に向かう。ほぼ最短距離で空を飛ぶ女王蟻まで接近すると、右腕も上げずに更に距離を縮める。
マサキの姿を射程内に捕らえたブロモーゼは、体中のトゲを分離し戦闘態勢に移る。が、トゲが広がり切る前にマサキは一気に接近してきた。トゲの準備が出来ていないブロモーゼは、6つの眼球から紫のレーザーを放つ。そのレーザーはマサキの使うものより速度が早く、6本同時のために逃げるのは難しい。前回のマサキもこのレーザーに体を焼かれて命を失った。
しかし魔人に生まれ変わって修行を積み重ねたマサキは、女王蟻のはなったレーザーをもすばやく回避した。しかも前に飛び込むように回避することで、女王蟻との距離も縮めながらである。
前回と戦ったときに比べて、あまりに理想的な位置取り。前回は雑魚蟻相手に切り札のボルテックスを使い、女王蟻には近付くことも出来なかったのに、今のマサキはボルテックスをここまで一度も使う事無く、さらに女王蟻に肉薄している。
「心と体力に余裕があるから、多少のリスクを取っても最適解を求められるのか……」
マサキは実感する。何度も何度も模擬戦を繰り返し、そして自分が思い描いた動きを身体が無意識で実現できるようにトレーニングを積み重ねてきた。勇者として与えられた武器は前回と変わらないのに、多少のリスクを許容することで最適解といえる絶好の機会を得られる。
女王蟻はトゲを展開しきれていない。一気に距離を詰めたことで、女王蟻が動く範囲はすべて掌握できている。
「ギガフレイム!」
考えるより先に体が動いてレーザーを放ち、狙った通り蟻の胴体のど真ん中に照射される。
「PIGYAaaaai!」
女王蟻の悲鳴が響き渡るが、耳をふさぐこともなくマサキは蟻の動きを見据える。女王蟻は翅を必死に動かして変則的な回避行動を取るが、マサキも集中してその動きに合わせ、ほぼ同じ距離を取り続ける。その距離はマサキにとって確実にギガフレイムを当てられ、そして蟻の攻撃を絶対に躱せる理想的な距離であった。遠目から見ると蟻とマサキがまるで空中で求愛ダンスを踊っているかのようだ。それほど完璧にマサキは、女王蟻に対してベストポジションを取り続けながらレーザー攻撃を当て続けた。周囲に展開したトゲから針が放たれると、時にマサキは攻撃をやめるが、その針を避けながらも理想距離を堅持する。
何度も針の弾幕を躱しながら、時に蟻の眼球からのレーザーも避けながら、作業のようにマサキはレーザーを当てる。次第に蟻は炎に包まれ、脚が燃え尽き始める。これを繰り返してもいいが、しかし敵にはまだ自分の知らない攻撃手段があるかもしれない。切り札は出し惜しみせず良いものから先に切る、そう考えたマサキは蟻の眼球レーザーの発動に合わせて、左手を突き出す。
「ボルテックス!」
左の掌から赤い爆炎が一気に膨らむ。マサキに向かって吐き出されていた針の弾幕や眼球レーザーすら消失し、さらにその炎は女王蟻をも包み込んだ。マサキが保ち続けていた理想的な距離とは、ボルテックスの射程範囲でもあった。
「Giiiii!」
蟻が苦しそうな呻き声をあげ、その爆炎から逃げようと翅を動かす。しかしそれより更に速く、マサキは蟻の目の前に飛び出した。眼球レーザーはボルテックスの炎で打ち消されており、マサキの絶対的な優位が取れる効果時間は約3秒ほど続く。その時間を最大限利用するため、マサキは右手のギガフレイムを極限まで絞り込みながら女王蟻の弱点である頭部に撃ち込んだ。
ギガフレイムの光にボルテックスの炎が巻き込まれ、光と炎の螺旋が描かれる。その螺旋は蟻の頭部に噴水のように浴びせられ、触覚から眼球まですべて赤い炎に包まれる。バチバチと何かが弾け飛ぶ音や螺旋の唸る音に蟻の悲鳴が混じり、周囲には肉が焼け焦げる匂いが漂う。マサキに与えられた3秒間の切り札は、見事に女王蟻の頭部を燃やし、その生命を刈取っていた。
眼球が弾けた蟻の頭部は燃え続け、胴体についた4つの眼球も光を失い、翅も動きを止めた。体中に赤い炎をあげながら、蟻は地面へとゆっくり落下し始める。マサキは右手を握り込んでレーザー止めると、数秒ぶりに肺の空気を外に出した。ボルテックスのタイミングを見極め始めた時から、ずっと息を止めていたのだ。
「まだよ、マサキ!避けなさい!」
アントラセンの警告が届く。それを理解する以前にマサキは反射的に体を動かす。
火に包まれ煙を出しながら落下する蟻は、最期に口から何十本もの牙を吐き出した。しかしその攻撃の予兆に気付いたアントラセンの声に、集中力を切らしていなかったマサキは瞬時にその牙の軌道から回避すると再びギガフレイムを蟻に向かって放つ。
翅も動かなくなった女王蟻は、それを避ける力もなく、再び大きく燃え上がる。胴体から脚部がもがれ、翅が取れ、最後に頭部も分離し、バラバラになりながら黒い炭に変化する。軽い音を立てながら草むらに落下したかつての女王蟻の体は、もはや煤となり灰色の煙を巻き上げるのみだった。
「すまない、アントラセン。最後に気を抜いてしまった」
「いいのよ。一度は敗けた仇敵だったから思うところが沢山あったんでしょ。それに私が警告しなくても、多分アナタなら直前で気付いて避けられたと思うし」
妖精が言う通り、女王蟻を倒したと思った瞬間、マサキはいろいろな思いが頭に駆け巡り、集中力が一瞬だけ途切れてしまった。その時に蟻の最期の一撃である牙が放たれたのだが、油断していなかったマサキは自力でもそれを回避できた。ただ残心を怠った事を恥じていた。
「最初から完璧を目指しすぎるのも良くないわ。それに物事は成功か失敗の2択じゃないの。失敗を積み重ねた先に成功があるんだから。反省ばかりして動きが固くなるのも良くないし、アナタはリスクを取ってでも短期決戦を望んだのでしょう?そこは見事だったじゃない。一度は破れた相手を撃破した。それを喜んではどうかしら?」
思わぬ激励に、マサキは胸の奥が熱くなる。そうだ、俺はかつて自分の命を奪ったあの女王蟻を倒したのだ。魔王に魂を拾われて魔人に生まれ変わった後も、一度も勝てなかった女王蟻にようやく勝つことが出来た。何度も自分が殺されたあの戦いを夢に見た。何も出来なかったあの時とは違う。やっとあの悪夢を打ち消すことができた。
知らないうちに、マサキの目には涙が浮かんでいる。魔王に拾われて魔人となり、何年もの過酷な訓練でも泣かなかった自分が、である。一度目は自ら電車に飛び込み、二度目は無謀な戦いで自滅し、それでも三度目の生を与えてくれた魔王には感謝してもしきれない。その大恩ある魔王をこの世界の軛から開放するのが、自分に与えられた使命。ならば命を懸けてそれを成し遂げなければならない。
涙を拭くと、左手を広げて女王蟻が落ちた方角に向ける。配下の蟻の軍団と女王蟻が持っていたマナがどんどん左手の文様に溜まっていく。一度は自分を殺した女王蟻だが、マサキは恨みも何もない。逆に魔人となった時に自分を鍛えてくれた上に、こうして再び勇者となった自分の越えるべき最初の壁になってくれたのだ。恨むどころか感謝したいくらいである。
「ブロモーゼ、ありがとう。俺は絶対に魔王を倒し、貴方たち幹部も開放するよ」
女王蟻にお礼を述べるマサキを、アントラセンはただ静かに見守っていた。