勇者の願望
魔界を金色の光が照らし、蓄積されていた汚穢が昇華され始める。詰まっていたマナが再び流れ出し、汚泥の洗浄が機能を再開する。魔界の大掃除が動き出したのだ。詰まりに詰まった塵芥が分解され始めると、ようやく魔界の大地がもっていた本来の濾過機能が正常に動き出す。海を形成するほどに溜まってしまったマナの汚穢が分離され、綺麗なマナが地上に流れ落ちていく。そのうちにこの魔界の洗浄システム自体が刷新され、さらに高機能な新魔界が構築されるであろう。まだまだ時間は掛かるが、ようやく13年ぶりに魔界は正しい姿を取り戻そうとしていた。
魔王討伐の吉報が天上界と妖精王のもとに届く。これでようやく激務である妖精王という役職から解放されるグレオンは感涙にむせぶが、周囲の妖精はそれほどの感動はない様子だ。ただし世界が刷新され、魔界に関係した大勢の魂が輪廻することに合わせて、それまでの期間限定ではあるが希望する妖精は地上の人間に転生する事が叶うという。
永遠の美貌を持つ妖精として女性のみの職場で働き続けるか、どんな人生が待っているかわからないものの刺激のある人間に再び生まれ変わるか、女性としてはある意味で究極の二択を迫られる事になった妖精たちは、喧々諤々と騒ぎが始まる。
「そんなことよりもまず勇者が魔王を討伐した事を世界中に知らせよ」
とグレオンが口に出した途端、「そんなこととは何事か!」と女妖精たちの反発をくらう。グレオンは魔王討伐よりも自分のことを優先した一部の妖精の名前を新たな世界の管理システムに告げ口しながら、何とか地上世界に吉報を届け始めた。
「シュウヘイはさっき、新しい生命となって地上の人間へと転生したわ」
妖精オリーナから説明を受けたマサキは胸を撫で下ろす。魔界で大蛇に喰われたシュウヘイの事が気掛かりだったのだ。やはり命を失ってはいたものの、魔王討伐のミッションに貢献したシュウヘイの魂は、優先的に新たな生命に転生され、地上の聖地に住まうという。この世界の転生がどんなものかはわからないものの、魔王もまた転生するというのだから、きっと自然なことなのだろうとマサキは思う。そして近い内に自分もまた転生しなければならないと思いながら。
聞けば妖精オリーナもまた転生を選ぶのだという。天上界でシステム管理という仕事が、どうも性に合わないらしい。シュウヘイの近くに転生するわと冗談めかしてオリーナは言うが、半分以上は本気のようである。短い間であったがシュウヘイとオリーナはベストパートナーだったのだろうとマサキは思う。魔界の戦闘でシュウヘイを失ったオリーナの狼狽ぶりは、相当に酷かったのだから。
◇
マサキは再び天上界に居た。この天上界は、勇者に選ばれた者だけが最初に訪れ、そしてパートナーとなる妖精を決めて地上に旅立っていく場所である。勇者であっても天上界にいられるのは最初だけであるが、魔王討伐が成された今、報告や今後のために再びマサキは天上界に足を踏み入れていた。地球から転生してきた時にはわけも分からず、綺羅びやかな妖精達の姿に目を奪われていたため、天上界がどんなところか落ち着いて見る暇がなかった。その3年後に魔人として蘇り、再び勇者として天上界に召喚された時にも、パートナーであるアントラセンとともに天上界をすぐに出立したので、これまた天上界をゆっくりと見ている余裕がなかった。
3度目にしてようやく天上界をじっくり見学する事が出来たマサキだが、そこは名前から連想される様相に反して、あまりに殺風景な場所だった。建物の素材はすべて世界樹の板材で作られた木製で、確かに古びの良さはあるものの、まるで昭和の廃校のような佇まいである。妖精たちはみな美しく、絢爛豪華なドレスを纏っていて誰も彼も見目麗しい。なのに天上界は西洋館のような優美さとは無縁の質素な場所であるため、その妖精たちの美麗さが浮いているのだ。
また自分と妖精王以外、天上界はみな女性であることもマサキにとっては落ち着かない理由である。一部の寿退社を狙う妖精たちからマサキに熱い視線が集まり、実際にアプローチを受ける事も増え始める。妖精王グレオンから勇者と結婚しなくてもシステム刷新時期なので、誰でも希望すれば地上の人間に転生できると妖精たちにさんざん通達されているのにもかかわらず、である。
実際、勇者と夫婦になれば聖地の特別市民になれる事を狙っているのだ。聖地は地上の王都を兼ねており、この世界に住む人間にとって憧れの地である。すでに勇者シュウヘイと妖精オーリンは後者の押しかけ女房的な感じで聖地に転生する事が決まっている。残る勇者はマサキのみであり、聖地の住民になるためにはマサキと夫婦になるしかない。
そんな妖精たちの裏事情を知らないマサキは、妖精たちの熱烈なアタックを逃れて妖精王の業務室に来ていた。高級感溢れるテーブルの正面には妖精王グレオンが座り、反対側にはマサキと妖精アントラセンが座っている。
「転生には2種類あって、今の魂のまま希望する年齢の人間に生まれ変わるのと、まったく新しい魂として赤子から生まれ変わる方法がある。勇者マサキ、君はどちらを選ぶのかね?」
かつて魔人に生まれ変わったマサキは当然、前者の方法で転生した。シュウヘイやオリーナも同じように18歳の人間として転生するという。魔王や幹部たちは逆に新たな生を受ける後者を選び、彼らの魂はもう地上に向かっているらしい。
妖精の中には転生しない者も多いし、魔王を倒したからといって勇者も別に転生する必要はない。しかしマサキは魔人であり、新たな局面を迎えたビハルダールではモンスターと同様に魔人もまた滅びの対象となっている。勇者としての力も持っているため今はまだ何ともないが、そのうちマサキの体は形を保てなくなるだろうと妖精王は説明する。
少し考えさせて下さいと答えを保留したマサキは、妖精王の執務室を出ると、何となしに展望台に足を進めた。そこは天から地上を見下ろせるような円形の高台となっており、ちょうど魔界の入口にあったものと同じような造りだった。
薄緑色のマナが輝きながらビハルダールの空を駆け巡っている。そこにはモンスターの姿はなく、太陽の光を反射する海面もまた美しい。
ふと気づくと、隣にはアントラセンが立っていた。手摺に寄りかかって地上を見ているマサキに向かってニコリと笑う妖精は、いつもの軍服姿ではなく、シンプルな半袖半ズボンの軽装である。しかし腰の上にはホルスターベルトが巻かれ、あの人形を屠った拳銃が収められていた。
その銃を見つめるマサキの視線に気付いたのか、アントラセンは慣れた手付きでそのG社製の拳銃を取り出す。
「ちゃんとセイフティは掛かってるし、今は弾も入ってない。これはただのお守り」
そう説明しながら、銃側面の安全回路と空っぽの弾倉を取り出してマサキに見せる。人形を倒した時にはすぐにアントラセンは拳銃をしまってしまったので、マサキにとってじっくり本物の拳銃を見るのは初めてのことである。銃をじっと見つめながら、実際に持たせてもらっていいかアントラセンに尋ねる。
「父親以外には触らせるつもりはなかったけど、マサキなら良いわ。特別よ」
アントラセンはそう言いながら、銃のバレル側を握ってグリップをマサキの方に向ける。恐る恐る右手で受け取ると、落とさないように左手を添えながらマサキは手の平に銃を乗せてしげしげとそれを見つめる。その拳銃は予想より遙かに軽かった。
年季の入った銃の表面はあちらこちらに傷や摩耗した痕がある。グリップは何度もアントラセンが握ったところがくすんで変質しているので、持ち主の手の形がうっすら分かる。樹脂と金属で作られた重さ1キログラムにも満たない拳銃が、最後にこの世界を救ったのだと思うと、マサキは苦笑いしてしまう。
「あら?世界を救ったのはアナタじゃなくて?勇者マサキ?」
「それを言うなら、俺とアントラセンの二人だ。いや違うな。魔王様と妖精王様、そしてシュウヘイもだ」
「ずいぶん殊勝な考え方ね。アタナだったから任務を達成できたのだと私は考えてるけど?」
「俺は与えられた使命をこなしただけだ。世界を救おうなんて考えてなかった。ただ役割を果たしただけ、やることをやっただけだ」
風化して表面の艶を失った黒い銃を見つめながら、マサキは無性に涙が出そうになる。日本では本物の拳銃を持つことはない。しかしアントラセンは日常に銃がある国で17年間も銃弾が飛び交う戦争の中を生きてきた。この銃の存在だけでも、マサキとアントラセンの過ごしてきた環境や生活の差を思い知らされる。マサキは自分の無駄にしてきた人生を償うつもりで、必死でこの世界で戦ってきた。そのことは、果たして戦争の中で生きてきたアントラセンに盟友と呼んでもらえるのに値する事なのだろうか。それをアントラセンに尋ねるのが怖くて仕方なかった。
悲しそうな顔で握った銃を見つめるマサキを訝しみながら、アントラセンは両手をマサキの手の上に重ねた。拳銃の姿はアントラセンの白く美しい手に包まれて見えなくなる。アントラセンはそのまま手を握り込み、マサキの目に映らないようにしながら銃を取り上げる。手から拳銃がなくなっても、マサキはつらそうな目で自分の手の平を見つめ続けていた。
マサキの手の平には円と三角、そして正六角形を基調とした文様が刻まれている。この文様が勇者に与えられた武器である。魔王が失われ、世界の刷新が進み始めた今、勇者の武器も役目を終えたことでその文様も薄れている。文様とともに、アントラセンとの縁も薄くなり始めているような錯覚に襲われる。
「マサキ、何か言いたいことがあるんでしょ?言ってご覧なさい。もう世界は救われたのだから、次はアナタが報われる番よ」
約4年の付き合い、そして死闘を共にしてきたアントラセンには、何となくマサキが自分に対して気後れのような、悩みのようなものをずっと持ち続けていると感じていた。常に前線で戦い続け、魔王とシステムの代理人を倒したマサキは、この世界に住む人間であれば全員が救世主として認めるだろう。
マサキ自身がその功績を誇らないし、使命を達成しただけと低く評価している様子だが、一部始終を見てきたアントラセンには、それがどれだけ大変な事だったのかを誰よりも知り尽くしている。そして弱音を吐くこと無く戦い続け、最大の戦果を勝ち得た英雄なのに、ただのスポッターである自分に言えない事があるらしい。アントラセンの故郷では男尊女卑が当然であるため、なおさらマサキが女である自分に気後れしているのが不思議で仕方なかった。
じっと見つめてくるアントラセンの視線に負けたのか、マサキはようやく顔を上げ、小さな声で思いを告げる。
「アントラセン。俺……俺は……君の盟友になれただろうか?」
それを聞いた妖精は、きょとんとした顔をする。この世界の英雄なのに、まったく自信がないような顔をする理由と、そして質問の意図がアントラセンにはどうにも理解できない。少し考え込むが、マサキがどんな答えを望んでいるのかさえわからない。
仕方ないので、アントラセンは素直に答える。
「勇者マサキ、アナタは私が見てきた中で心身ともに最高の戦士よ。それは間違いない。そんなアナタがなぜ私におどおどしているか解せないけど、盟友というならアタナは私の盟友。それも間違いない。だから私は自分の銃をアタナに預けた。それは私にとって、アナタを心から信頼している証だし、アタナになら銃で撃たれても構わないという証でもある。だからマサキ、アナタは私にとって盟友以上の盟友。そしてアナタほど信頼できるパートナーはいないわ」
その言葉を聞いた瞬間、マサキは足腰の力が抜けて、目の前が真っ白になる。アントラセンの言葉は、マサキがずっと望んでいた言葉、いや、望んでいた事以上の言葉だった。胸に様々な思いが込み上げ、涙が出るのを止められない。こんなみっともない姿をアントラセンには見せられないと腕で顔を隠すものの、極限に高まってしまった感情からくる嗚咽は隠しようがなかった。嬉しい以上に恥ずかしさでいっぱいになってしまったマサキは、どうして良いかわからなくなってしまい、この場から逃げ出してしまう。
突然泣き崩れ、そして展望台から逃げ出してしまったマサキに唖然としながら、アントラセンはただその場に立ち続けていた。




