勇者、敗北
振り向くとそこには、右の柱の女神像が姿を表していた。魔王との戦いでは柱自体が黒い炎で包まれていたのが、今は消えている。それどころか最初に見た女神像は、黒い霧のようなもので覆われているかのようにボヤけて見えたのに、今はその霧もなく、ハッキリとその顔や身体を晒していた。
地面近くに居るマサキからは、10メートル以上も高い場所にある女神の顔までは明確には見えない。しかし女神像が醸し出す神々しさや、息を飲むほどの均整の取れた体躯は、顔が見えなくても誰もがひれ伏すほどのオーラを讃えていた。花嫁衣装のような綺羅びやかで繊細な模様の入ったドレスを纏った女神像は、今にも動き出しそうなくらいの精緻さである。
その女神像は両手で何かを胸に抱くようなポーズを取っている。
その像から何かを感じ取ったマサキは、少しずつ宙を蹴って上昇する。地面から数メートルほども上っていくと、像の全貌や女神像の顔のあたりまで見え始める。極大の柱に彫刻されている女神像もまた魔王と同じくらいに大きい。しかしその女神の美しい顔に浮かぶ表情に慈愛などはなく、まるで面白がっているかのようである。そして女神像が胸に抱いていたものの正体も分かる。それは……人、だった。否、どちらかと言えばマネキンに似た人形だった。
あまりに精緻で微細に至るまで作り込まれた女神像だが、その像が抱えているのはのっぺりとした表面の、何の装飾もない貧相な裸の人形である。しかも人形の頭部はただの半透明の球体だった。球体の頭部には、中心に虹彩と瞳孔らしきものが見えるため、まるで眼球である。人形の胴体は円柱同士が球体関節で繋がれたデッサン人形をもっと簡略化したようなもので、手や足には指はなく、とにかくすべてが雑な作りである。マサキには、まるで初期のポリゴン人形のように感じたほどだ。
積み木か粘土で作られたような人間サイズの粗末な人形が、美麗で荘厳な10メートルを越える女神像の手の平に抱えられている。何かの皮肉のような、あまりに正反対の女神像と人形に、マサキは目をしかめた。女神像は白亜の磁器のような艷やかな表面だが、人形の胴体は薄汚れた古ぼけた動物の皮革のようである。しかしその人形の頭部だけが半透明で妙に生々しい。眼球の虹彩は青く、その中心にある瞳孔は紫色で丸く輝いている。
「マサキ!その目!目にマナが宿っているわ!」
女神像を全身全霊で検知していたアントラセンが変化に気づく。女神像の中で、人形の頭部というべき眼球が動作を開始し始めていた。眼球の中にある瞳孔が細長く変形し、こちらを睨んだのだ。
その目を見た瞬間、マサキはこれまでにない寒気に襲われる。そしてその予想通り、女神ビハルト像の両手に掲げられていた魔界監視システムの最後の審判が始まろうとしていた。
「ギガフレイム!」
マサキは溜めていたパルスレーザーを人形に放つ。赤い凝縮された光は狙い通りに女神像の胸元に迫るが、それよりも速くその人形は像の手から離れて宙に飛び出していた。これまで戦ってきた魔王やその幹部はみな巨大だったが、最後の敵らしきものは自分と同じくらいの大きさであり、さらに自分と同じくらいに俊敏に動くことにマサキは戸惑う。人形は不規則な軌道を描いて空中を自在に動き、マサキの狙いを定まらせない。マサキは右手を細かく動かしながらレーザーを放ち続けるが、動きの早い人形をまったく捉えることが出来ない。すると人形もまた、右手をマサキと同じ様に持ち上げ、マサキの方に向けた。人形の腕は肘と肩の関節は球体で、そこに前腕と上腕に当たる円柱がつながっているという簡素な作りである。人形には手首から先がないため、マサキに向けられたのは前腕の先端になるのだが、そこにはまるで銃口のような穴が開いていた。そしてその穴から生まれた光のシャワーがマサキを襲った。
ビハルダールの光は速度が遅いため、見てからでも何とか避けられる。しかし人形の右腕から放たれた光の束は、勇者や魔王の幹部たちが使う光より圧倒的に速かった。またその光はこれまでの弾幕のような周囲全体に拡散する軌道ではなく、まるでショットガンの様に方向性を持ちながら広がるシャワー状のレーザー光で、それがマサキとその周辺を狙って放たれた。咄嗟に縮地で大きく避けたマサキだったが、細かく拡散放射される高速のレーザーを躱しきれず、ほんの少しだけ右の脇腹を撃ち抜かれてしまった。
「ぐがっ!」
服が焼け落ち、その光が触れた肌が真っ赤に火傷する。たった一瞬、光が掠った程度であるのに、表面ではなく体の内部に焼かれた鉄板を突っ込まれたかのような激痛が走る。普通の人間より強靭な魔人の肉体を持ち、痛みには慣れているはずのマサキであっても、体の内部に直接浸透する痛みには耐えきれなかった。縮地による移動が終わった直後、内臓が切り裂かれたような痛撃に我慢しきれず、マサキは膝から崩れ落ちる。
人形の頭部でもある巨大な眼球は、縮地で移動したマサキを見逃さず、再び右腕のレーザーシャワー光で追撃した。勇者と同じように人形の右腕から放たれるその光は、勇者の放つ光より何倍も速い。マサキは脇腹の焼けただれるような痛みに耐えながら、視線だけはその人形から離さないものの、ダメージでまったく体が動かせない。さらに追撃される人形の閃光を防ぐため、マサキは何とか歯を食いしばって両腕をあげる。人形のレーザーに向かってマサキは左手のボルテックスを発動し、さらに右手のギガフレイムを人形を狙って撃ち込んだ。
ボルテックスの爆炎で人形のレーザーシャワーは打ち消され、そのままギガフレイムの光に炎が混じって人形そのものを焼き尽くそうと襲いかかる。しかし人形は左手をあげると、その手首の先から黒い炎を噴出させ、人形とマサキの間の空気を黒色で包み込んだ。その黒い炎はギガフレイムの光とボルテックスの爆炎を吸い込みながら消えていく。ボルテックスの赤い炎が消える頃、その黒い炎もまた消え去っていた。そして無傷の人形だけが残っていた。
「まさか、あの黒い炎はレーザーを防御する兵器なの?」
物理学的にはレーザーアブレーションによる減衰であるが、人形の左手が放出する黒い炎の粒子は、勇者の使う光や炎を吸収してその場で蒸発する性質を持っていた。その黒炎に触れたマサキのギガフレイムやボルテックスはエネルギーを失ってしまい、人形本体にまで届かないのだ。
魔王よりもさらに強力な攻撃手段を持ち、マサキと同じ位に素早く動き、マサキの攻撃を完全に攻撃をシャットダウンする人形を相手に、アントラセンは有効な攻撃方法を見いだせない。魔王は自身の持つ攻撃方法を事前にレクチャーしてくれていたため対処する事ができたが、女神像の抱えていたその人形はその存在すら二人は知らなかった。魔王とは別に動いていた大蛇も、勇者の武器に反応して攻撃してきた。多分、人形も大蛇も、勇者に特化した兵器なのだろう。
妖精は考える。圧倒的不利な今の状況で、戦いを継続すべきか、それとも一度離脱するべきか。もしこの場から離脱したとすれば、状況はどう変化するだろうか?倒した魔王もシステムがまた復活させるのだろうか?多分、復活させるだろう。しかしこちら側は勇者シュウヘイが失われてしまった。そうなると天上界にはまた別の勇者が召喚されるはず。それを待って再び魔界に攻め込む?しかしそれまで、この汚穢が溢れている魔界が持ち堪えられるだろうか?
マサキもようやく痛みが小さくなり、状況を整理できるようになったものの、とても万全とは言えない状態だった。しかも多分、真のラスボスであろうマネキンのような人形は、自身が小さい上に高速で動くわ、避けられない攻撃をしてくるわ、こちらの攻撃は防ぐわで、あまりにえげつない存在である。製作者の悪意さえ感じるほどだ。
マサキの視線は人形に向けられているため、直に妖精の顔を見ていないが、それでも自分の左肩に居るアントラセンが焦燥している様子が感じ取れる。もちろんマサキ本人も同様である。そもそも勇者の武器は右手のレーザーと左手の爆炎の2つしかないのに、その両方が通用しない上、敵の攻撃は勇者の武器を遥かに上回る性能を持つ。これでは勝負にならない。特に切り札であった左手のボルテックスが人形に無効化されてしまったのは最悪に近い。
(くっそ、目玉●父の出来損ないみたいな人形のくせにメチャクチャ強い。真のラスボスならもうちょっとデザイン考えろよ!)
心の中で文句を垂れるが、そうしないと心が折れそうになるからだ。ただこの短い攻防の中で、マサキはまだ諦めては居なかった。このビハルダール世界は勇者にとって常に不利を強いられているが、それでもその状況を覆す仕組みがあった。きっとこのマネキン人形にも、何か弱点なり攻略の道筋があるのだろうとマサキは考えている。それが何なのかはまったく分かっていなかったのだが。
「マサキ、敵の武器の実力を見極める必要がある。距離を取って柱を利用して回避に集中を!」
マサキと同じ様にアントラセンも諦めては居ない。ようやくここまで来たのだ。きっと何か勝機はあるはず。そう信じてアントラセンは人形の動作を全身全霊で見極めながら、マサキに指示を出す。その指示通りにマサキは女神像の刻まれた巨大な柱の影に身を隠し、人形の放つレーザーシャワーを躱した。
「発射から着弾まで一秒あるかないかという所ね。あの人形のレーザーは音速より遅いけど、こっちのレーザーの8倍は速い。これでは撃ち合いでは勝負にならない」
かつて地球の紛争地域で現代兵器による戦争経験があるアントラセンは、前線での戦いでは射程距離ではなく機動性が重要だと習い、またそれを実感していた。敵の攻撃を避けながら武器を展開し、発砲した後に撤収するという一連の動作において、射程や破壊力よりも機動性に優れる事こそが部隊の生存性を握るのだ。ヒットアンドアウェイを繰り返した短射程の部隊が、長射程で鈍重な部隊に撃ち勝った戦闘も実際に経験している。前線では長砲身で重装甲の牽引砲台よりも自走砲のように文字通り走りながら撃つ武装の方が生存率が高いのだ。
ちょうど、マサキと人形の戦闘が、それと同じ様相である。人形とマサキの本人の機動力は目に見える差はないとアントラセンは見ている。しかしお互いの主砲であるレーザー光が、弾速が違いすぎるのだ。同じサイズの人間が殴り合った場合、パンチが早いほうが相手に先に当たる。ただそれだけの話である。もしパンチの遅い方が相手に当てられるとすれば、相手がそのパンチを見ていない場合のみだろう。しかし人形は頭部そのものが眼球となっており、視力に完全に特化している。事実、アントラセンが人形を感知している範囲では、人形の頭部は常にマサキを完全に捕らえている。嗅覚や聴覚を捨てて視覚のみに集約している以上、人形の視覚は人間のままであるマサキを遥かに上回るとアントラセンは見ている。
マサキは必死に柱の大きさを利用して、人形の視線と高速のレーザーシャワーの軌道上に自分を立たせないように立ち回っている。しかしそれは戦略ではなく、ただ為す術がないための逃避でしかない。さらに魔王との激戦の直後に、人形のレーザー光を受けてしまったマサキは腹部に激痛を抱え、さらに疲労が極度に溜まっている。アントラセンの目からも、マサキの動きが鈍くなっていると容易にわかるほどだ。あまりに不利な状況と、それを覆す手段が見いだせない事に、アントラセンは無意識のうちに指の爪を噛んでいた。
マサキもまた、自分の限界を感じつつあった。魔王を倒すために、まさに全力を尽くした。結果、魔王を倒す事が出来たが、人形との連戦となってしまった今、体が重く、自分の考えた通りに動かない。さらに人形のレーザーシャワーを受けてしまった右腹部には今もなお鈍痛が続いている。体を捻ったりすると、まるで腹の内部に針が突き刺さったような痛みが走る。
右手のギガフレイムは簡単に躱され、左手のボルテックスは無効化されてしまった以上、人形に対して有効な攻撃手段がない事も充分に把握している。今はまだ逃げ回っていられるものの、どんどん足が重くなっていく。無理やり腿を叩いたり揉んだりして誤魔化しているが、捕まるのも時間の問題だろう。
残るボルテックスは2発、こうなったら自爆覚悟で至近距離でそれを発動すべきだろうか…… 柱の側面に沿って人形から必死に逃げながら、マサキはいよいよ最後の手段しかないと考えていた。人形との距離が離れれば離れるほど、自分の攻撃が当たらない。これまで魔王や幹部に対してボルテックスが届く最適な距離を保つことで自分が有利に立ち回れていたが、人形相手ではそれが最悪の距離となっている。遠距離も近距離も一方的に不利となると、あとは超至近距離しか残っていない。
まるで陸上競技のように、マサキと人形は柱の廻りをぐるぐると走り続けている。体力がなくなった方が負けだが、どう考えてもマサキの方が先にへばるだろう。足がまともに動かせなくなる前に、マサキはいよいよ超至近距離でのボルテックスに懸ける事を妖精に話した。
「私もそれしか無いと考えている。でも、もし失敗したら逃げ場も無く、最悪アタナは死ぬわ。脱出する手もある。私としては生き延びる事を選んでほしい」
沈痛な顔でアントラセンはマサキに自分の考えを語る。今ならまだ魔界を脱出できると妖精は言う。しかしマサキは、ここに至るまでやれる限り、全力を尽くしてきた。その上で仲間であるシュウヘイを失った。もう、手札をすべて出し切った。やれることは全部やってきたのだ。
もし撤退すれば、最後に出てきた人形に勝てる手段が見つかるだろうか?いや、見つかるとは思えない。そもそもシュウヘイが居ない今、次の挑戦で今回と同じ結果を出せる自信がマサキにはなかった。玉砕するつもりはないが、魔界が顕現する前に人間姿の魔王様が言っていたではないか。すべてを出し切ろと。もう残り体力もないし、失敗したら死ぬかもしれない。けれども仕方ない。自分が駄目でもここで魔界の崩壊を少しでも止めて、次の勇者に少しでも情報を残していきたい。
マサキはそう決心すると、足を止める。もし自分の最後の攻撃が失敗しても、アントラセンがその情報を持ち帰る事ができれば、妖精王や次の勇者があの恐るべき人形を倒す手段を見つけるかもしれない。無駄ではないのだ。
覚悟を決めた人間特有の目を、アントラセンはこれまで何度も見てきた。パートナーであるマサキがその目をした以上、もう彼女は何も言うことは出来ない。ただ行く末を見守るだけである。
柱の向こうから人形が姿を見せる。すぐに右手を伸ばして、こちらに向かって高速のレーザーシャワーを放つ。しかし狙いが正確だったため、マサキはシャワーが発射される前に縮地移動で射線を逃れながら距離を詰める。マサキは柱にぶつかるように突進し、さらに柱を蹴って進行角度を変え一気に人形に向かって飛び込んだ。人形もマサキの姿をその頭部の目で追いながら、場所や姿勢を動かしてマサキを狙って右手のレーザーシャワーを放つ。
マサキがどれだけ変則的な軌道を高速で動いても人形は完璧にその動きを捉え続け、右手のレーザーシャワーを正確にマサキに向けて発射する。マサキがそれを躱せないと直感した瞬間、左手のボルテックスを発動する。赤い爆炎が周囲を染め上げ、そのままマサキは人形に体当たりしようと突っ込んでいく。人形もまた左手の黒い爆炎を発動し、ボルテックスの炎を打ち消しながら、マサキから距離を取ろうとする。しかしマサキはなおも縋り付くように最後の力を振り絞って縮地を使った。
マサキの周囲では、ボルテックスの炎が水を掛けられたかのように次々に蒸発していく。白い蒸気や煙が立ちこめる中、マサキは人形まであとほんの数メートルという距離まで接近する。人形の動きは予想以上に早いものの、最終的にはマサキの縮地の方が僅かにそれを上回った。マサキは人形に抱きついて最後のボルテックスを発動するつもりだった。
マサキの放った爆炎が消え、周囲に静けさが戻る。レーザーシャワーが打ち消された人形の右手には再び光が励起されているが、それが発射される前にマサキの体当たりが間に合う絶妙のタイミングだった。
しかしあと一歩でマサキの手が人形に届くという所で、人形の頭部である眼球が紫色に輝いていた。それは魔王の幹部達が使っていた眼球レーザーであった。人形に向かって一直線に突進していたマサキに向かって、カウンターのようにその眼球レーザーが放たれる。直前に気付いたマサキは体を捻ってなんとか回避を狙うものの間に合わず、レーザーを全身に浴び、すべての力を失って地面に落下した。
かつて勇者として召喚されたマサキは女王蟻と戦い、眼球レーザーを受けた。その時は貧弱な人間の体だったため、眼球レーザーを食らった肉体は一瞬で消失してしまった。今回のマサキは魔人の体だったため、眼球レーザーの直撃だったにも関わらず、消失には至らなかった。しかし体の内部にまで人形の眼球レーザーは浸透し、ありとあらゆる部分を焼いた。レーザーを喰らった直後、マサキはあまりの激痛に気を失いそうになるが、すぐに神経そのものも機能を喪失し、痛みは僅かな時間で終わった。そして痛みどころかすべての五感をも失ったマサキは、視界を真っ暗に染めながら魔界の大地へと墜落した。
人形はマサキを追撃しなかった。すでにマサキは生命力と勇者の力を失い、人形の討伐対象外となったからだ。地面に仰向けに倒れる勇者の残骸を一瞥した人形は、また女神像の手の中に戻っていった。




