9.最も強いもの、それは愛
その場に、沈黙が訪れました。まだ『奥義・壱転』の影響下にあり喋れない妹はともかく、元夫までが黙りこくっていました。わたくしの気迫に押されたのでしょう。
「……すまない」
やがて、師匠がぽつりとつぶやきました。
「その技は、俺には効かないんだ」
「そう、ですか……」
わたくしには、こんな力があった。なら、師匠を虜にしてしまいたい。奥義の真相を知った瞬間、そう思ってしまったのです。
でも、駄目でした。そのことに思いのほか打ちひしがれている自分に気づきます。
わたくしは、力を得るために師匠のそばにいました。けれどいつからか、師匠のことを男性として意識してしまっていたようなのです。
誰よりも頼りになって、とても大切な、たった一人の愛おしい人。
もしかしたらわたくしは、心置きなくこの方のそばにいるために過去と決別し、まっさらな自分になりたいと願ったのかもしれません。
けれどもうそのことを、自分ですら気づかなかった秘めた思いを、師匠にも気づかれてしまいました。
もうわたくしは、彼の近くにいることはできないのかもしれません。彼はきっと、わたくしのことをただの弟子としてしか見ていないでしょうから。
「……ビアンカ、君の気持ちは分かった。俺はもう、君をただの弟子としてそばに置いておくことはできない」
ああ、やっぱり。黙ってうつむくわたくしの耳に、さらに師匠の声が飛び込んできます。
「だから、ビアンカ。……君さえよければ、俺と結婚してくれないか」
「……えっ?」
今、師匠は何と言ったのでしょう。けっこんしてくれないか。けっこん……結婚!?
「その、君の気持ちは、先ほどの技で理解できたと思う。実は俺も、君と暮らしているうちに……自然と君に思いを寄せるようになっていたんだ」
珍しいことに、師匠が恥じらっています。でもその表情に、胸がぎゅっと締め付けられました。甘く切ない、そんな思いが満ちていきます。
「俺はとっくの昔に、君の虜だったんだ。だからあの技は、俺には効かない」
「そう、だったのですか……」
あまりの驚きと喜びに、何も言えません。けれど師匠はそんなわたくしの表情をためらいだと勘違いしたのか、少し焦った様子で言葉を続けました。
「その、それでだな。あの山小屋を引き払って、王都に行くのはどうだろう。そのほうが、君も暮らしやすいと思うんだ」
確かに、師匠の言う通りです。というか、いつの間にそこまで考えていたのでしょうか。
「いや、別に、俺が先走ったとか、そういうのではなくてだな。……実は、騎士団からずっと声をかけられていたんだ。副騎士団長の座を空けて待っているから、戻ってこないか、と」
かつて師匠は騎士団にいたと、そう聞いています。けれど、今でも戻ってきて欲しいと言われるほどの存在だったなんて。
それも当然でしょうと思いつつ、まるで自分のことのように誇らしくてたまりません。
「多少仕事は増えるが、その合間に拳法の修業をすることはできる。君のことを弟子とは呼べないが、これまで通りに稽古をつけてやることもできる」
師匠は必死になって、わたくしを口説き落とそうと頑張っているようです。何とも微笑ましい姿です。
「……ありがとうございます」
だから笑って、師匠に歩み寄りました。
「わたくし、あなたの申し出を受けます。アーネスト様」
アーネスト様のこわばっていた顔に、ゆっくりと理解の色が、そして喜びの波が広がっていきます。
「ああ、受けてくれるか、ビアンカ!!」
そうしてわたくしの両手をしっかりと握って、ほっとしたような顔で目を細めました。
「ふふ、アーネスト様ったら。わたくし、あの技を使おうなんて考えるくらいにあなたに首ったけでしたのよ。落ち着いて、ゆっくり口説いてくださってもよかったのに」
「それは分かっているんだが、いざ求婚するとなると焦ってしまってな……ともかく、君が受けてくれてほっとした」
「わたくしも、片思いではなかったと知って安堵しています……」
二人手を取り合って、見つめ合います。ここがどこなのか、今がどういう状況なのか、そんなことはすっかり頭から消え去っていました。
消え去っていたのはそれだけではありません。今までの人生の恨みつらみも悲しみも、みんな霧のようにかすんで、そのまま消えてしまっていました。
師匠と、アーネスト様とずっと一緒にいられる。そんな喜びが、全てを覆いつくしていました。
「……おい、何を勝手に」
あら、何か聞こえてきたような。
「冗談じゃありませんわ」
さらにもう一つ。何の声でしょう。
「彼女は僕の元妻だ! 彼女と結婚していたのは、僕が先だ!」
「王都暮らしで、副騎士団長の妻ですってえ!? お姉様にはもったいないわ!」
ああ、忘れていました。元夫と妹ですね。妹も技の効果が解けつつあるようで、ゆっくりと身を起こしています。
しかし二人とも、何とも筋の通らないことを口にしています。
まずは元夫。わたくしと先に結婚していた、それがどうかしたのでしょうか。わたくしたちは『元』夫婦です。今は赤の他人です。
そして妹。元々王都での華やかな暮らしに憧れのあった妹としては、わたくしがアーネスト様に求婚されたことがうらやましいのでしょう。
でも、もったいないと言われても。アーネスト様と出会い、絆を育んできたのはわたくしです。
……予定通り妹があの家に嫁ぎ、そして追い出されれば、妹がアーネスト様と出会っていたかもしれませんが。
「ああ、申し訳ない。貴方がたのことを忘れていた」
さらりとそう言って、アーネスト様はわたくしに向き直りました。
「ビアンカ、続きは帰ってからにしよう。君の用事は、君の旅はもう終わったのだろう?」
「はい、アーネスト様」
手をつないで立ち去っていくわたくしたちを、元夫と妹は無言で見送っていました。たぶん、ぽかんとした顔をしていたのだと思います。
◇
そうしてわたくしたちは、王都で暮らすことになりました。王宮騎士団の副騎士団長と、その妻として。
王都はとても人が多く、わたくしはしばらく戸惑っていました。けれどアーネスト様の同僚の方々や、他にも王宮勤めの方々がたくさん助けてくれました。人間って、こんなに温かいのですね。
じきに王都での暮らしにも慣れたわたくしは、また拳法の稽古を再開しました。
もう過去とは決別できましたし、とびきりの幸せを手に入れました。だから力は必要ないのですが、アーネスト様とわたくしを結びつけてくれた拳法を、このまま忘れてしまうのはもったいないと思ったのです。
……それに、いずれアーネスト様とわたくしの間に子ができたら、その子がアーネスト様の拳法を継いでいくのです。わたくしも母親として、その子が成長する助けになりたい。
なんて、今度はわたくしが先走ってしまっています。恥ずかしいのでこのことは内緒です。
平和で順調なわたくしたちの新生活ですが、ちょっぴり面倒なことも起こっていました。なんと元夫と妹までもが、王都に追いかけてきてしまったのです。
あの間の抜けた技の効果がいつまで続くのか知りませんが、元夫はまだわたくしに未練があるようです。
とはいえ、彼の身分では用もないのに気軽に王宮に入ることはできません。なので彼は、アーネスト様と共に王宮で暮らすわたくしには近づけませんでした。
しかし元夫は諦めませんでした。ならばとばかりに、騎士への登用試験を受けにきたのです。騎士となれば、堂々と王宮を歩けますから。
もっとも、ごく普通の貴族でしかなく、体を鍛えたことのない彼は、当然ながら実技試験で落ちました。でもやはり諦めることなく、今は場外の野原で特訓しているのだそうです。
あの技の効果はせいぜい数日で消えるのだと、そう先祖の日記に書いてあったんだが。アーネスト様がぽつりとそんなことをつぶやいていましたが、聞かなかったことにしました。
技の効果が切れているのに執着されているとすれば、そちらのほうがよほど面倒くさそうですから。
そして妹は、どうやら両親を口説き落として城下町に移り住んだようです。
見てらっしゃい、お姉様よりもっと格上の男性を射止めてみせますわと、そんな手紙……果たし状? のようなものが届きました。
ただ、城下町の屋敷はかなり値が張ったようで、両親はかなりの財産をはたいたあげく、かつて暮らしていたものよりずっと小さな、ずっと質素な屋敷を買うはめになったようです。
妹も今まで通りの贅沢三昧ができなくなっているのか、しょっちゅう不満まみれの手紙を送りつけてきます。
どうやら彼女は、この状況を何とかしろ、具体的には金をよこせと言いたいようですが、知らん顔を決め込むことにしました。
かつて両親と妹にないがしろにされた覚えならありますが、助けてもらった覚えはありませんし。
ともあれ、この人たちが直接わたくしたちの幸せをおびやかすことは、今のところなさそうでした。
なのでわたくしたちは、ただひたすらに穏やかに過ごしていました。今日は、アーネスト様がお休みなので、二人っきりで拳法の稽古です。
元夫に出くわさないように王宮の鍛錬場の一角を借りての稽古でしたが、みんな気を利かせてわたくしたちをそっとしておいてくれていました。
にぎやかな鍛錬場で、わたくしたちの周囲だけはとても静かで、和やかな空気が漂っていました。
わたくしたちにとってこの時間は、稽古の時間であり、そして逢引の時間のようなものだったのです。
「うむ、やはり筋がいいな、ビアンカ。騎士たちと比べても引けを取らない」
「ありがとうございます、アーネスト様。わたくし、もっともっと頑張ります。いつかあなたに追いつけるように」
「それは頼もしいな。ならば俺は、君を支えていこう。……たった一人の、最愛の人を」
そうして手を止め、見つめ合いました。人前なのでそれ以上近づきはしませんが、彼の眼にはこの上ない愛情がこもっていました。
かつてわたくしは、力を求め拳法を学びました。わたくしを虐げ、ないがしろにした人たちに復讐するために。
でも今のわたくしは、誰かを傷つけるための拳は持っていません。この拳は、大切なアーネスト様のため、そしていつか生まれくる我が子のため。
そう、言うならば……愛のための拳、といったところでしょうか。
「さあ、稽古を再開しましょう」
そんなことを思いながら、まっすぐに正拳突きを繰り出しました。
突き出した拳の先に、もっともっと明るい未来が見えたような、そんな気がしました。
ここで完結です。
お付き合いいただきありがとうございました。
楽しんでいただけたなら幸いです。
(下の星などいただけるともっと嬉しいです!)
新連載、始めました。ほんわかハッピーなお話です。
下のリンクからどうぞ。