8.奥義の正体
「……師匠……?」
こんなところにいるはずのない人の顔が、すぐ近くでわたくしをじっと見つめています。そんなあり得ない状況に、わたくしはただ呆然とすることしかできませんでした。
「どうして、あなたがこんなところに……」
「すまない。実はこっそりと後をつけていた。君が旅立ってから、ずっと」
その声を聞いているだけで、胸の中で荒れ狂っていた怒りが鎮まっていきます。師匠につかまれたままの腕から、すっと力が抜けていきました。
師匠はほんの少し悲しげに微笑み、優しく語りかけてきます。
「君は強くなった。しかし、一人で旅を、それも復讐の旅をさせるには弱い。力も、心も」
「……復讐の旅だと、気づいておられたんですか……」
「君の思い詰めた表情を見ていたら、容易に推測がついたよ。君は過去と決別するために、過去に一矢報いにいくのだと」
そうして、師匠は大きな両手でわたくしの肩をしっかりとつかみました。まるで、わたくしを支えるかのように。
彼の手の温もりが、わたくしの冷え切っていた心にじんわりと優しく行き渡っていきます。
「ビアンカ、君は優しい人だ。だが、君はこれまでにたくさん傷を負ってきた……過去に立ち向かう旅の中で、君が怒りに捕らわれてしまうのではないかと心配だったんだ」
「……師匠の心配されていた通りです……わたくしは、怒り任せに……」
急に、激しい後悔が襲ってきました。
わたくしはずっと、師匠の背中を見てきました。ひたむきに、純粋な気持ちで拳法を極めようとする、そんな姿を。
けれど今、わたくしは師匠に教わった拳法で妹を傷つけ、命を取ろうとしました。それは、大切な師匠への裏切りにも等しいものだった。そのことに、今さら気がついたのです。
苦しくてうつむくわたくしを励ますように、師匠はほっとしたような顔で笑いかけてくれました。
「だが、もう大丈夫だろう? 先ほどの鬼気迫る覇気は、もう消え失せているからな」
「はい……」
消え入るような声でつぶやくと、師匠の表情が変わりました。感心したように、わたくしをまじまじと見ています。
「しかし、君がここまで優秀だとは思わなかった。まさか独力で、あの領域にたどり着いてしまうとは」
「あの領域、ですか……? それは、いったい……」
「君も薄々気づいているのではないか? 君に教えたあの技には、もっと禍々しい先の領域があるのだ」
その恐ろしさは、わたくしにも分かる気がします。怒りに任せて、開けてはいけない扉を開けそうになったのですから。
「その領域を知り、しかし決してそこに踏み込まない。その姿勢を保つことで、俺たちの拳はより高みへと到達することができる。……よくぞ、踏みとどまってくれた。成長したな、ビアンカ」
「師匠……!」
愚かな行いに手を染めかけたわたくしを、それでも師匠は褒めてくれた。それが嬉しくて、つい涙ぐんでしまいます。
頼もしい笑みを浮かべていた師匠が、ちょっと焦ったような顔で視線をそらしました。強くて頼れる師匠は、実は女性の涙に弱いのです。
「ああ、それともう一つ、教えておかなければならないことがあった」
照れ隠しのようにそう言った師匠でしたが、その顔はきりりと引き締められていました。
「俺の小屋を出てすぐ、君が賊と戦った時だが……君は、目の前の相手を倒しただけで気を抜いていただろう? しかしあの時、近くの森の中にまだ敵がいたんだ。弓を構えて、君を狙っていた」
そう言えばあの時、その場を立ち去ろうとした時に物音を聞いた覚えがあります。弓の弦が鳴るような音と、小さな叫び声。
「もしかして、師匠が助けてくださったんですか?」
「あ、ああ、まあな」
「ありがとうございます……」
感極まって、目を潤ませながら師匠を間近でじっと見つめます。師匠も照れたような顔で、しかしまっすぐに見つめ返してくれました。
と、その時。部屋の扉が勢いよく開いて、なぜか元夫が飛び込んできました。この上なく晴れやかな、場違いな笑みを浮かべて。
「愛しているよー!! ビアンカー!!」
「気持ち悪っ!!」
考えるより先に、そんな声が出ていました。あらまあ、我ながらはしたない。
ぽかんとしているわたくしに、元夫は甘ったるい声で話しかけてきます。陶酔し切っていて、やはり気持ち悪いです。
「僕はもう、君に首ったけなんだ……君が愛おしくてたまらない」
「申し訳ありません、何をおっしゃっているのか全く分からないのですが」
冷ややかに突き放すと、元夫はとろんとした目でこちらを見つめてきます。何なのでしょう、この目。
「僕は、君を、愛している。さあ、共に戻ろう。僕たちの愛の巣へ」
「ですから、気持ち悪いのですが!!」
「ああ……つれないところもたまらない」
「お引き取りください!!」
「嫌だ……僕はこうして、君の声を聞いていたいんだ……」
「浴びせているのは罵声なんですが!?」
「罵声? 天使の歌声にしか聞こえない……」
ああ、気味の悪さに鳥肌が立ってきました。話が通じません。突き放すほど食い下がってくるような気もします。
何がどうなっているのか分かりませんが、こうなったらまたあの技で黙らせてしまうしかないでしょう。殺意を込めずに、ふわりと軽く。
そう考えて身構えたわたくしを、すっと師匠が止めました。
「ビアンカ、それはやめておいたほうがいいだろう。より状況が悪化するおそれがある」
どうしてでしょう? と小首をかしげたその時、元夫が不服そうに師匠に食ってかかりました。
「おい、邪魔をするな、僕は彼女に求愛を」
「悪いが、それは後にしてもらおう」
そんな一言だけで、師匠は元夫を黙らせてしまいました。何の技も使うことなく、ただ気迫を込めた声だけで。そうして、わたくしから元夫を引きはがしてくれました。
何とも見事な、鮮やかな立ち居振る舞いです。いつかはわたくしもあの域にたどり着きたいものです。
そんな憧れの目で師匠を見ていたら、彼は突然こんなことを言い出しました。
「実は、君に教えた『奥義・壱転』なのだが」
師匠の声は、やけに重々しいものでした。
「あの技には、君がさっきたどり着きそうになった『奥義・壱殺』の他に、もう一つの派生型があるんだ。俺も、俺の父や祖父も習得できなかった、幻の技が」
気のせいでしょうか。わたくしを見つめる師匠の目に、ちょっぴり尊敬の色のようなものが浮かんでいるのは。
「それは一撃で相手の心をころりと転ばせ、愛の虜にする技。俺の先祖は『秘奥義・壱撃転愛』と呼んでいた」
「秘奥義……ふぉーりん、らぶ……?」
なんだかちょっぴり間の抜けた名前の技だなと、ついそんなことを思ってしまいました。
「おそらくは、偶然そちらが発動してしまったのだろう。彼の言動は、技を受ける前とはまるで違ってしまっているからな」
納得したようにつぶやいた師匠が、ふとわたくしの手を見ました。
「……もっとも、その直前の正拳突きに魅せられただけ、という可能性もあるが」
「もしかして、あの現場も見ておられたんですか、恥ずかしい……」
「すまない、君が心配だったのでな……こっそり屋敷に忍び込んでいた」
師匠は照れくさそうにそう言って、それから力強くうなずいています。
「あの正拳突きは、俺でも惚れ惚れするような見事なものだった……本当に、君は成長した」
「ふん、その正拳突きを食らう栄誉に預かったのはお前ではなく僕だからな!」
なぜか自慢げに、元夫が割り込んできます。正拳突きを食らう栄誉って。もうめちゃくちゃです。
しかしその時、ふとひらめきました。どうやらわたくしは、他人を虜にする技が使える。
わたくしは元夫に対して、その技を狙って発動させた訳ではありません。けれど、今ならできる、そんな確信がありました。
でしたら。
「秘奥義・壱撃転愛!!」
拳を握り、ありったけの思いを込めて技を放ちます。すぐ近くに立っている、師匠めがけて。